「どうして」、「なぜ」。少女の感懐に揺蕩うのは如何にも聞き古した疑雲晴れやらぬ言葉。どうして両親は自分たちを捨て去ったのか。どうしてあんな得体の知れない船に乗せられたのか。そしてなぜ船は自分たちが逃れた直後、目も眩むほどの強烈な光の玉と大きな鳴動を伴って海に沈んだのか。自身と兄の間で長年タブーとなっていたその話題を、まさか「だれか」と質すわけにもいかず、延々と繰り返していた自問はいくら幼い脳漿を絞っても帰結することは無かった。
あの船内での出来事は今でもたびたび去来する。
瞼の裏に焼き付いた男達の狂態が遠い稲光のように明滅し、幾つもの嘲笑う声や罵詈がわれ鐘のようなノイズを交えて鼓膜に纏わり付いては途絶える。
それは時間にして短いものだけれど、少女にとっては鉛のように重苦しい集計時間だった。

大人からすれば、抗う術を持たない少女とその兄は視界の端をちょこまかと蠢く目障りな鼠のような存在だったのだろう。だからこそ体の良い憂さ晴らし、鬱憤の捌け口として扱われ、食事や水もいっさい分けられず、男達の気分次第で子供2人は──主に兄のほうが小突き回されることが多かった。
というのも兄は妹が下衆な連中の標的となることを良しとはせず、少女に魔の手が伸びる前に自ら進んで男達に反抗していたからである。
痩せ細った手足。暖を取れず芯から冷えていく身体。
空腹感はとうに過ぎ、栄養失調で視界すら霞む状況下で少年は意地でも脚を奮い立たせ、男達の前に勇み出るのだ。その奥で怯えた顔で縮こまる、無二の存在をひた隠すように。

「もういいよ、もうかばわないで、おにいちゃん。おにいちゃんがしんじゃうよ」。少女は兄の襤褸に縋りつき、涙ながらに懇願した。
懸命に哀訴する少女の身体にも、それはそれは見るに堪えない殴打の痕がたくさん残っていたが、盾となって少女を庇っていた少年の傷の数はさらに上を回る勢いだった。しかし少年は、兄は弱弱しくも首を振る。
「これくらいのことで俺がしぬかよ。いいから、おまえは俺の後ろにかくれてろ。何がなんでも絶対でてくんなよ」。からからに嗄れた声でも、少年はこれしきの事に屈して堪るかとでも言いたげな眼差しだった。
ここから生きて出ることを諦めていないような、いつどのタイミングで抜け出せるか機を窺っているような、なにくそ根性を秘めた剛毅な瞳。
少女はその気迫に何も言えず肯んずるしかなかった。

率直に言ってしまえば、薄暗い牢獄の中に秩序・並立という言葉は欠片も、これっぽっちも在りはしなかった。みな考えないように現実から目を背けていただけで、心の奥底では感じ取っていたのかもしれない。
自分たちは「生かされている」、「首の皮一枚で繋がれている身」なのだと。誰もが崖っぷちで踏みとどまっている中、他者を蹴落としてでも生き残ろうと足掻く賎しさや個々の人格・プライドなんていちいち気にしていられなかった。
ゆえに歯向かう度胸も力も持たない者は悪辣かつ剽悍な人間の影に寄らば、我が身可愛さに、或いは現実逃避するように強きを助け弱きを挫いた。
これは永遠に先の見えない競争だ。身の安全を賭した攻防だ。ゴールが無ければルールも無い。足の引っ張り合いは自己を守る正当防衛、出る杭は即打つ。
出ていなくても、出ることの無いように念入りに打たれた。
極限まで追い詰められた人間は手段など厭わず弱者から排除していくのだと、このとき子供たちは嫌というほど思い知らされたのである。

もう息を潜めることすら嫌気が差す中、日が経つにつれて、男達の様子に違和感を覚えるようになった。
もっともその変化をいち早く察知したのは少年で、少女は既に衰弱し、力無く壁に寄りかかっていたのだが。とにかく、自分たちの知らないところで何かが動いていると敏い少年の勘が告げていた。
そんな少年の警戒心など露知らず、クチャクチャと不快な咀嚼音が2人の耳朶を打つ。
貪るように与えられた食事を一心不乱に喉に掻き込む男達の形相に、底知れない狂気を感じた。一見普通に見える料理の数々。
けれどただ空腹だったから、という理由でがっついたにしては異常な剣幕だった。あたかも中毒性のある薬でも仕込まれているかのような──そう、アレだ。
出される食事を消化するたび、男達の物々しい雰囲気は輪をかけて酷くなっていく。
精神の破綻、とでも言うのか。飢えた獣のように餌に食らいつく男の瞳孔は開きっぱなしで、どこを見ているかも皆目見当がつかない。
目の焦点があっていないその姿も、唾液を垂らしながら肉を歯で噛み千切るその禍々しさも、少年少女にとっては不気味以外の何物でもなかった。

そしてついに、少年が危惧していた最悪の事態が起こってしまった。
皮肉なことにも、トリガーは最も最悪を回避したかった自分が引いてしまったのかもしれない。少年が焦燥に駆られたあまり舌打ちなんてしなければ、男達は2人のことを歯牙にもかけずいつも通り食事だけに没頭していたのだろうから。だが疲労困憊した風な妹の有り様を見れば、無神経な男達の振る舞いに苛立ちが積もるのは無理もなく。
逆らったとて返り討ちにされる、太刀打ちも敵わない自身のもどかしさも相俟って、チッ、と。男達の咀嚼とは異なる音がやけに大きく響いた。

「……なんだァ、今の音は?」

耳ざとく聞こえたらしい大柄な男が手にしていた皿を投げ、壁際に座り込む少年たちに近付いた。
咄嗟に少年は自分に凭れていた妹を見えないように庇い、真っ向から男を睨みつける。この大男は筆頭として少年たちを排他していた、云わばこの空間のボス的存在だった。
金剛力で周りを捩じ伏せ、翻弄し、暇つぶしと称しては少年少女に暴行を働く。腕っぷしのある荒技で嬲られるほうは堪ったものじゃない。少年は今度こそ殺されるかもしれないと覚悟しつつ、悔しげに歯噛みした。
死ぬつもりは毛頭無いけれど、もしかしたら。
くるめく視界を集中するように目を窄める。胸倉を掴んできた男の力は圧倒的に強く、首でも絞められたら一巻の終わりだなとどこか他人事のように捉えていた。
拳が作られた剛腕が頭上に上がる。
────来る、と身構えて唇を結んだ、その時。

「だめ!!」

憔悴しきっていた筈の妹が突如活力を取り戻したかのように声を張り上げ、男の腕を抱き竦めるような形で暴挙を阻止した。実際は活力を取り戻したわけじゃなく残りの力を振り絞っただけだが、それでも男の意表を突くには充分な行いだった。されど意表を突かれたのは男だけではなく、身を固くしていた少年もだ。
呆気に取られていたのはほんの数秒間のことだったが、直ぐさま状況を飲み込んだ少年は「ッバカ、出てくんなっつったろ!」と無謀な抵抗に挑んだ少女に怒声を浴びせる。
滅多に己に向かって大声を上げることの無かった兄に怒鳴られたことで少女は怯み、恐怖が滲んでいた表情はますます血の気が引いていった。
その拍子に、男の腕を制していた両腕が緩む。男にとって少女の拘束など取るに足らない反発だったが、非服従の片鱗を見せた少女に対しまるで「好いカモを見付けた」と言わんばかりにほくそ笑んだ男に、少年は嫌な予感しか浮かばなかった。
……こうならないよう、身を呈して必死に隠してきたのに、守ってきたのに。

「────あ゛、うっ、」
「オラ、もっと食えよ!」
「ただでさえ少ないメシを分けてやってんだ。オレたちの慈悲深さに感謝しろよォ?」

少年が心の底から畏れていた光景が、無惨にも目と鼻の先で繰り広げられる。
力任せに引きずられ、俯いた顔を強引に上げられて男達が独占していた食料を口に捩じ込まれる。どんなに少女が苦しい、やめてと嘔吐きながら訴えても連中は下卑た笑い声を上げるだけで、その様相はさながら小鳥の羽根を1枚1枚毟っては散らかして踏み躙る子供のようだった。
──いいや、子供とは違って明確な悪意が感じ取れる分、あの男達のほうがよほど──。

男の1人に軽々と伸され床に這い蹲らせられながらも、「っやめろ! そいつには手ぇ出すな!!」と悲痛な声を震わせる少年の、なんて無力なこと。
(おにい、ちゃん)水を食べ物を次から次へと口に喉の奥に詰められ、向こうで押さえ付けられている兄に助けを求める少女の、なんて憐れなこと。

いっそのこと早い段階で呼吸することを止めてしまえば、2人はこんな目に遇わずに済んだ?
その自問に少女が見出した答えは「否」だった。
あの生き地獄のような日々が無ければ今の自分は存在しない、なんてこれも数多の本で使い古されたような表現だが、少女は葛藤を抱きこそすれ過去を忘れたいとは思わなかった。
だってあの日あの時、波が荒れて船が座礁しなければ、乗じて兄が機転を利かせなければ今こうして長閑に空を見上げることも叶わなかったのだから。新しい家族に恵まれることも無かったのだから。名前を授かることも無かったのだから。
……手に入れたものの、いくつか小ちゃな手をすり抜けてしまったものもあるけれど。

少女──名前は、窓辺から空を見上げたまま憂い気にため息を落とした。
机を囲む木製のスツールの数は6つ。そのうち日常的に使われているのはたったの3つだ。そう、ちょうど半数もの空席が目立つようになってしまった。
1人は現在入院し、1人は、数年前に事故で亡くなった。そしてもう1人──名前の実兄である花礫は、ある日忽然と行方を眩ませた。この家で唯一血縁関係にある名前を置いて、だ。何か良からぬことに巻き込まれたのか、或いは目論見を立てて出て行ったのか。
真偽は定かではないが、心配だと気を揉むツバメや名前とは反対にヨタカはいつの間にか花礫との間に何やら摩擦が生まれたようだった。

なぜ2人の仲が険悪になったのが分かったのかと言うと、伝言すら残さず消えた花礫。幼い頃から自分を守ってきてくれた兄の後ろ姿を思い浮かべながら、名前はポツリと零したことがあった。
「お兄ちゃんは、わたしたちを置いてどこに行っちゃったんだろう」と。するとヨタカは思い切り顔を顰めて、吐き捨てるように言い放ったのだ。
「……あんなヤツのことなんて忘れろ!」と。
突き放すような物言いに名前は思わず目を瞠り、暫し思考を停止した。ヨタカだって、ツバメのように露骨に話題に出したりはしなかったけれど、一応心配している素振りは見せていた。なのに急に手のひらをひっくり返したような強圧的な発言。いったい何があったのか、などと問い質すことは出来なかったが、もしかして自身が口にした事は失言だったのだろうかとぼんやり思った。
戸惑いがぐるぐると小さな胸のうちに蟠ると、ヨタカはさもバツが悪そうに名前から目を逸らした。
言葉にはされずとも、その心裡を正直に吐露していた双眸を直視できなかったのである。
代わりに、軋轢の生じた少年と同じ黒髪を撫で、今度は出来るだけ柔らかな口調で言った。
「──これからは俺が、ツバメもあだ名も守ってやるから」。血の繋がりが無いとはいえ、そう頼もしく誓ってくれた義兄の手のひらは温かく、けれどどうしてか物悲しかった。

家族の形が綻び始めたのは、ツバキが不慮の事故で亡くなってからだ。ツバキとは花礫と名前の名付け親であり、岸に流れ着いてから暫く歩いて力尽きた2人を拾ってくれた、云わば命の恩人である。
美しく、楚々とした女性だった。
美しいだけでなく、身元が知れない兄妹を「ほっとけないから」というシンプルな理由だけで家族として迎え入れてしまうような、情深い人でもあった。
決して豊かな生活をしていた訳ではない。
当時出稼ぎに出ていたのはまだ現役で溌剌としていた爺さんとツバキだけだ。4人で細々とした日常を送っていたのにも拘らず、さらに名前たちが加わったことで生活はより苦しいものとなったけれど、ツバキの弟妹である双子も嫌な顔はせず──と言ってもヨタカは難色を示していたが──名前と花礫が「家族」に溶け込むまで、そう時間は掛からなかった。
贅沢なんてほど遠い暮らしだったけど、あの窮屈な船内で過ごした日々に比べればここは天国だ。ようやく得られた安息の地だ。この世に1つしかない、自分たちの居場所だ。
……だった、筈なのに。

それが瓦解したのは不幸な報せ。
「ツバキが、死んだ。」
そう爺さんから教えられた時、そして実際にツバキの遺体と対面した時。双子は身を寄せ合って噎び泣き、爺さんは立ち尽くす名前の肩を抱きながら自身も項垂れ、花礫は、信じられないというような表情で布がかけられたツバキの遺体をただじっと見つめていた。
その空間を支配していたのは深い絶望と、憤り。というのも、ツバキは1人の男によって人生を狂わされたのだ。
食べていくだけでやっとの生活。
子供たちが欲しがる物を何ひとつ買ってやれず、不自由な暮らしを可愛い弟たちに強いてしまっている現状に、ツバキは心苦しさを抱いていたようだった。
ましてツバメもヨタカも、花礫も名前も不満や文句を主張したりはしないから、殊更それがツバキにとっては子供たちにまで気を使わせてしまっていると思い込む要素になり得てしまったのかもしれない。
彼女は、悪魔の囁きに耳を傾けてしまった。

ツバキを破滅の道に追いやったのは、お客として店に通っていた自称研究者の男、ということしか名前は知らない。男は「双子の研究データが欲しい」と打診し、協力してくれた暁には相応の報酬を用意すると直談判してきたらしい。
ツバキは悩んだ。どんなに生活が困窮していると云えども、大事な弟たちを売るような真似はしたくない。けれど服も玩具も買ってやれず、辛抱ばかりを重ねて苦労させてしまっている現実が自責の念とともにツバキを襲う。
同じく稼ぎ頭として働いていた爺さんが折悪しく入院したこともあって出費は嵩む一方、自分1人の収入で家計を支え切れるかといったら答えは否だ。
このカラスナでは身売りする女性は多い。ツバキこそ指名はぼちぼち貰っているものの、正直安定した職業とはとても言えない。いつ干されても何ら不思議では無いのだ。男は、その不安定な業界の闇を見透かした上で彼女にとって魅力的な甘言を連ねてみせた。
……結果的に、ツバキは研究者と名乗るその男に「買われた」。身売りする必要も無くなり、爺さんの入院費も負担するからと諭され──懐柔されたのだ。
実験と言っても、注射や手術など大層なことを行うのではなく単なる栄養剤を食事に混ぜるだけの容易なもので、害はないからと。だとしても彼女には苦渋の決断だったが、弟たちの笑顔を脳裡に浮かべた時には、彼女は既に頷いていた。
そうして当面は確立した生活資金を得て、ツバキは男を信頼し、心を寄せ……命を落とした。

「ツバキはそいつに殺されたんだ。」なんの根拠があって言ったのか、花礫はそう断言した。
そもそも彼は実験の話を持ちかけてきた男をはなから信用せず、ツバキに怪しすぎるだろうと忠告していたくらいだ。頻繁に彼女が口にする話題として出てきていた頃は何とも思わなかったが、「実験」という不穏なワードが浮上した際、花礫には最初からツバキでは無く双子が目当てで接触を図ってきたとしか思えなかったのだ。
ただの栄養剤を食べさせるだけ、にしては受ける恩恵が大き過ぎる。双子の「どういった」データを記録しているのかも明らかにされていない。上手すぎる話の裏には思惑が隠れてそうだと根深い疑心暗鬼に捉われていた。
ツバキも完全に信頼しきっていた訳では無い。もちろん食事に盛る薬について猜疑心は抱いていた。しかし至れり尽くせりといった具合に好意的な男の厚遇をきっぱりと断ることも出来ず、彼女は家庭を壊したくないという想いから猜疑心を押し殺していた。
惚れた弱み、というのもあったかもしれない。疑う傍らで、信じたいという気持ちが強かったのだろう。
それが、身を滅ぼす結末に繋がった。

(ツバキお姉ちゃん……)感傷に耽っていた名前は空から視線を逸らし瞳を伏せる。
彼女が最後まで守り通そうとした家は、意思は現在は双子が引き継ぎ労働している。
2人で働いても痴呆症が進行している爺さんの入院費は賄い切れなかったが、足りない分は爺さんの知人だと名乗る人物が工面してくれているらしいと先日ツバメが申し訳なさそうな表情で話していた。
それだったら自分も働く、と名前は肩身の狭さに耐えきれず意向を示したが、「名前は病院から万一の連絡が来た時のために家に居てほしい」と揃って説き伏せられ、やむを得ず家事に専念する役目となっている。
実のところカラスナの治安の悪さを懸念している双子が名前を1人で歩かせたくないだけなのだが、名前はそんな過保護な双子の心中を知る由もない。
2人が仕事に行っている間たびたび家を抜け出しては自分の少ないお小遣いで双子の好物を買いに行ったり、マメに爺さんの着替えを病院に持って行ったりと、ツバメたちの憂慮を他所に1人で気楽に出かけることが多かった。

今日も今日とて病院に行ってついさっき帰ってきたばかりだ。そろそろツバメが帰宅する時間だと頃合いを見て病室を後にしたが、残業でもしているのか、はたまた寄り道でもしているのか、なかなか彼女は帰ってこず名前は待ちぼうけを食っていた。
カラスナの中心部から少々離れたこの住宅地は閑散としている。3人が住んでいる家の周りは空き家が多いとだけあって、外は奇妙な静けさに包まれていた。
人の声ひとつしない都塵を離れた一画は寂れた雰囲気が淀んでいたが、静かなおかげでツバメたちが帰ってきた時は足音で直ぐに分かるのだ。
が、待ち侘びている音はいっこうに聞こえず。
食卓に並べておいた料理はすっかり冷めてしまった。
「今日は定時で上がれるから、一緒にご飯食べようね!」と出勤する前ツバメに言われたから、いつものように先に1人で済ませる訳にもいくまい。
家族は揃って食卓を囲むものだと、そうツバキから教育されたこともあってかツバメたちは時間の許す限り3人で食事しようと約束していたし、何より名前も1人で食べる味気ない食事よりは皆で食べたほうが嬉しかった。だが、

「……雨、ふりそう……」

再び見上げた空は今にも泣きだしそうな色をしていた。洗濯物はとうに取り込んだため心配要らないが、気がかりなのはやはり外出中の双子のこと。
傘を持って迎えに行ったほうが良いだろうか? もしくはタオルを用意して帰って来たらお風呂に直行させたほうが良いだろうか?
でも濡れてしまって風邪をひいてからでは遅い。
なら、と名前はおもむろに席を立って上着を羽織った。もう子供が1人で出歩くには遅い時間帯だから怒られるのは確実だろうけど、姉たちが床に臥せるよりはずっとマシだ。
自分の分と、双子の分。計3つの傘を手に、名前は戸締りをしっかりして家を出た。

このとき、少女はまだ知らなかった。この判断が「一緒にご飯食べようね」と言った姉の笑顔を曇らせる結果になってしまうこと。自分がこの家に帰ってこれるのは、暫く後になってしまうこと。凄惨な過去が一因として、更なる茨の道へ導かれること。
少女は、幽暗な道をひたすら走っていった。




子供の足で走って走って、初めにやってきたのはツバメが働くお店。
たまたま裏の出口から出てきた顔見知りの従業員を捕まえてツバメの居所を訊ねると、彼女は案の定残業に追われていたらしい。
「遅番の子が来るまでもう少し掛かるだろうから店の中で待ってるかい?」と親切なおばさんの誘いを丁重に断り、当てを無くした名前は付近で適当に時間を潰すことにした。店はちょうど夕食時で混む時間帯だ。案内されるのは従業員専用の休憩室だから邪魔にはならないといえど、部外者がそうそう気軽に入り込んでもいい場所とは思えない。
じゃあ空いてる時間にヨタカを迎えに行けば効率的にはいいんじゃないか。これに関しては、……まずヨタカは説教が始まるともの凄く長い。嫁をいびる小姑並みにねちっこい。そしてその説教を止めてくれるのが片割れであるツバメなので、先にツバメを味方につけてからヨタカの所へ向かおうという算段だ。そのためにもツバメのご機嫌を取れる物を調達しなければ、ということで、名前は悪知恵を働かせてちょっとした市場に足を運んだ。新鮮な魚介類や果物を品定めしつつ、手持ちのお小遣いで買える林檎を人数分購入する。
片手に傘、片手に紙袋。両手が塞がってしまってこの状態で雨が降ったら自分の傘が差せないなと困ったものの、名前の胸は弾んでいた。
嬉々として林檎を頬張る姉たちの姿が想像できたからである。
喜んでくれればいいな、と口角を上げると、しかし考えていた矢先に小雨が降り始めた。大通りの中央を闊歩していた者たちはみな慌てて屋内に駆け込んだり建物の軒下に入り込んだりしている。他の大人に後れを取った名前も傘先を地に引きずりながら、雨があまり当たらない路地裏に退避した。

(参ったな……)姉たちが濡れないようにと傘を持ってきたのに、持ってきた当人が雨に濡れ、挙げ句足止めを食らって傘を届けられないのでは来た意味がない。
林檎をダシにしたゴマすりなんて疚しいことを企んだからこうなったのかと思い至ると、名前は自分の浅慮なお頭が憎たらしくなった。
雨脚は弱くなる傾向を見せず、むしろ強まる一方だ。
身を縮こまらせて建物の壁際に寄れば風に煽られた雨に濡れることは無いが、そろそろ移動しなければツバメと行き違いになるかもしれない。
仕方ない、と踏み切った名前はいったん紙袋を横に置き、自身の傘を差して2つ分の傘を肘に引っ掛けた。動きづらい態勢の中なんとか紙袋を片手に戻し、のろのろと路地裏から出ようと踵を返す。が、

「──?」

────まったく見覚えのない男が少女の前に立ちふさがった。
俯いている男の顔は身長の低い名前からしてもロクに見えず、いっそう怪しさを際立たせた。知らぬ顔で隣を過ぎることも可能だが、そうするにはこの路地はいささか狭すぎる。傘を差した今の姿ではなおさらだ。
無理にでも通ろうものなら目の前の男性に傘が当たる。どうしようと声もなく狼狽えると、立ち尽くしたまま微動だにしなかった男がふいに肩を震わせ──気が狂ったかのように笑い出した。

「 ヨうやく、みツけたヨ」

同時に複数の人間が同じ言葉を発したような、気味の悪いノイズを交えた声が名前の耳をざらりと撫で上げた。その声に、目に、名前の背筋には戦慄が走った。──尋常じゃない。逃げなきゃ、と頭の中で警鐘が鳴った。
眼球が飛び出している片目。皮膚が削ぎ落とされたかのように顕わになっていた人肉。
まるで惨烈な殺され方をした屍鬼が墓場から蘇ってきたようなおどろおどろしい姿に、名前はゾッとした。
こんな男が大通りを歩いていて、なぜ誰も騒がなかったのか。気付かなかったのか。
否、そもそもいつからこの男は此処に立っていた? 紙袋を足元に置いた時には居なかった。なら傘を差した一瞬で? 探れば探るほど謎は藪の中へと埋もれてく。
離れなきゃ、はやく。
自分を叱咤してもガタガタと震える足は脳の信号に答えず地面に縫い付けられたかのよう。それでも何とかして逃げようと後退れば、小石に躓きそのまま尻餅をついてしまった。
スカートが水溜まりの水分を吸収し、1つの林檎が転んだはずみで袋から零れ落ちる。赤い果実は男の足先まで転がって──易易と踏み潰された。

「これでやっとオレも手柄が挙がる、大金星だ、これでウロ様に褒美を与えられル、これで、こレでこれでッ!!!」

興奮したように捲し立てる男の息は荒く、今にも名前に飛び掛らんとする勢いだった。嫌だ嫌だと首を振りながら、名前は濡れるのも構わず後退を続ける。逃げ切れる、なんて毛ほども思っちゃいなかった。だがそれでも逃げなきゃ、という危機感に揺り動かされて無理やり身体を引きずった。
然れども竦み上がる身体に迫る足音は素早く。骨が見えている食指が伸ばされた時、いよいよ名前は殺されると緊張が走ってギュッと瞳を閉じた。

「ぐあっ!!」
「っ!」

しかし痛みはなく、代わりに名前の身に降りかかったのは男の苦痛に満ちた呻き声と、生温い液体。恐る恐る瞼を開けてどうなっているのか確認しようと男を見上げれば、その胸の中心は一本の杖が貫いていた。
男は直後淡い粒子となって空に消えていったが、生温い感触は依然として残ったまま。
息を飲んで、改めて自分の姿を見下ろして見ると、灰色のワンピースは赤く染まっていて──。
液体の正体が“血”だと認識した時、名前は自身の意識が遠くなるのを感じた。フラリと傾いた体躯が地面と衝突する前に受け止めた──杖の持ち主でもある──男は、あの“人間ならざるモノ”が息巻いていた原因かと思しき存在に眉を寄せる。

「……この子は、」

彼がとどめを刺す前に、「手柄が挙がる、褒美を与えられる」と言っていた敵。それはこの娘を連れて行けば報酬を得られるという意味か、もしくは都合のいい“実験体”を探していての発言だったのか。
葬送する前に繋縛して聞き出せば良かったかと己の落ち度を実感しても遅い。彼……平門は赤に塗れた矮小な身体を抱き上げ、宙に浮かぶ。
──どのみち能力者の血を浴びてこのまま道端に放置という訳にはいかない。
詳しくは少女の身体を検査すれば分かることだろうと問題を先送りにし、彼は潰れた林檎の破片を一瞥して文字通り「空へ飛んだ」。

雨は、未だ止む気配を見せない。
ALICE+