ワイワイと比較的和やかになりつつあった会議室がしんと静まり返る。
この男は――風見さんは今、なんて。
「今までだって成功したのは運が良かったからだ。第一、何を隠し持っているかも分からない男の部屋に一人で入るなんて、正気じゃない。」
正気じゃない。そんな言葉が風見さんの口から出たことに驚きを隠せなかった。
今まで何度もこの手のハニートラップはやってきた。確かにその度に風見さんは反対したし、最後まで策が見つからない時に仕方なくと言った様子で私に「すまないが頼む。」と声をかけ送り出してくれたのだ。それが、部下の自分に対する信頼であり、実力を認めてもらえているからだと思っていた。ひく、と喉は引き攣ったが、何も反論せず分かりましたなんて言えない。いくら風見さん相手でも。
「で、でも、展示会は明後日です。その間に他に有効な手段があるとは思えません。」
「それを今から考える。そのために時間を作ってもらい会議をしているんだ。」
「だって実際、煮詰まってるじゃないですか。これ以上接触の方法に時間をとられている暇は無いはずです。接触後のデータの受け渡しや合流方法、使う機材の準備やその他いろんな手配だって――」
「だからって適当に決めていい問題でもないだろう!」
珍しく語気を強めた風見さんの声に、無意識にビクリと体が揺れる。
感情的になっている?あの風見さんが?
なんで?どうして?が、頭の中をぐるぐる駆け巡った。会議室には、だれも口を開かない代わりに時計の音だけがカチカチと耳障りだ。居心地の悪い空間に耐えられないというように、ひりついた喉から声を絞り出した。
「私は――公安警察官です。風見さん、あなたの部下として、これまで胸を張れる実績を残してきたはずです。」
「そんな事は言われなくても、」
「任せてもらえませんか?」
「苗字」
「私じゃ不安ですか?」
「そうじゃない。」
「じゃあ――心配、ですか?」
あれ、こんなことを口走るつもりはなかったのに、ポロリと口から零れてしまっていた。
え、私、こんな会議の最中に私のこと心配してるの?って、上司である風見さんに聞いたのか?
事の重大さに気づいて我に返った私の目の前には、ぽかっと口を半開きにした、初めて見る間抜けな顔の風見さんがいた。私のぎょっという表情をみて、ぎゅっと眉間に皺を入れた風見さんは、はあとため息をついた。
「…当たり前だろう。」
なんだこれ、なんだろう。心配されて嬉しいだなんて。わたしはいつからこんな欲深な女になってしまったんだ。
じわっと胸が熱くなる。さっきだって私の為に、いつも冷静な風見さんが半ば叫ぶように、こんな、みんなが見ている前で。
「――いや、そうだな。悪い。君のことが心配なのは、ここにいる全員同じだ。全員の貴重な時間に、会議を中断してすまない。」
はぁとため息をつきながら、いったんメガネを外した風見さんは眉間を親指と人差し指でギュッとつまんだ。
つい最近も数十センチの距離で見た、眼鏡を外している風見さんの顔に、場所をわきまえずキュンとしてしまう。
「じゃあ、苗字。接触は君に任せる。そのかわり、今から全員で徹底的に隙のない策を考えよう。」
風見さんがそう言うと、一気に活気づいた会議室を埋め尽くすように「はい!」と声が溢れた。
情報がこちら側に入ってきてからターゲットと接触するまで2日間もないとあって、班の全員が己の仕事の手を止め準備にかかった。昨日の昼から取り掛かって、もう本番は明日だ。主な機材の準備や、裏工作は順調に進んでいた。今は風見さんと、私に取り付ける発信機・盗聴器・受信機のチェックだ。
「当日は、なるべくターゲットの目についた方がいいから、ゲストとして会場に入っていることにしてドレスアップだ。いいか?拳銃は持てないから、なるべく分かりにくく武器を隠し持つように。」
「はい。発信機はネックレス、受信機は左のイヤリングで、盗聴器は右のイヤリングです。受信機からの音は、耳を通じて振動で感知できるようになってます。念のため睡眠薬は錠剤のものと針状のものを2種類。錠剤は効果が出るまでの時間に個人差がありますので、証拠を確実にあげるなら入手後に即効性のある針状の方を使用することになるかと思います。一応当日はタイトドレスで潜入しようと思っています。…え。」
「…なんでタイトドレスなんだ?動きにくいんじゃないのか。」
「念のためです。動きやすさよりは今回は脱がせにくさを優先してます。」
「…。」
「風見さん、怒ってませんか?」
先ほどから私が準備した潜入道具の説明をする度に、風見さんの機嫌が悪くなっているような気が、しないでもない。風見さんはたっぷりと間を開けてから「怒っていない。」と言った。なんだか嘘っぽい。
「明日の会場までの送迎は俺がやる。」
「あ、ありがとうございます。」
「その時に話すから、今は簡単にしか言わないが…正直、こんな方法に縋るしかない今の状況は、本意ではない。」
「風見さん…。」
「…明日、車の中でゆっくり話す。寝不足で当日ミスが出るとまずいからな。お前はもう帰って休め。」
「そんな、みんな徹夜でやるんでしょう?私も、」
「命令だ。」
「………ずるいですよ。」
命令なんて言いながら、風見さんの目は優しかった。ポンポンと頭に置かれた手はいささか子ども扱いされているような気がするけど、心地いい。このぬくもりを裏切るわけにはいかない。黙って明日に備えよう。
風見さんと、作業をしている班の仲間たちへお礼の挨拶をかけて、私は退庁した。
久々の潜入捜査に少なからず興奮をしているのか、勝手に目が覚めてしまった。
今日のターゲットは、うちの班で2年ほど追っている相手だ。下っ端は何人か検挙できているものの、幹部の人間は警戒心が強くなかなか尻尾がつかめない。捕まえた下っ端にも十分な情報は届いておらず、一斉取り締まりには至らなかった。――確実な証拠がほしい。そのためには幹部レベルに接触する必要がある。絶対に、なにかしらを得て見せる。
「ダメだダメ、冷静にならないと。」
ふうと深呼吸。公安が動いていると奴らにばれるのが一番まずい。
今回接触する相手は、確か女癖があまりいい方ではなかったはず。大丈夫、こちらに分があるはずだ。
半年前のデータによると、比較的落ち着いていて、セクシー寄りの女性と予約していたホテルの部屋に入っていったとあったはずだ。鏡の前に座り、顔を作っていく。まつ毛は上げすぎず、目尻を長めに調整する。
発信機をとりつけたおかげでアクセサリーは全体的に大振りなので、邪魔にならないようドレスは首もとはV字に開いたもので、脱がせにくいように体にぴったりとフィットしたデザインだ。フレアなんて着た日には一瞬でめくり上げられて終わりだ。
ハンドバッグにはスマートフォンとガラケー用のハッキング道具が化粧品と一緒に仕込んである。普段は絶対に着けないが、念のため甘い香りの香水を数回吹きかけた。全身鏡でおかしいところが無いかを確認して、風見さんに指定された場所まで歩いて向かう。
そこにはすでに車を停車させ、その車に凭れながらコーヒーを飲む上司の姿があった。…まだ30分前だけど。
「おはようございます、風見さん。」
顔を上げた風見さんは、その場でおはようと返してくれる。降谷さんはしぶしぶといった顔でも近づきエスコートしてくれるが、風見さんはそういうのは無いみたいだ。そういうところが、好きだ。
「なにか飲むか?」
「あ、いえ。このドレス、トイレ大変なんですよ。」
風見さんは「だろうな。」と言ってドレスを一瞥したあと、空になったのかコーヒーの缶を捨てに行った。ふふ。いつもはぴしゃりと伸びている背筋が、なんだか少し丸い。待ち合わせ場所が公園ということもあり、ちょっと和んでいたのだろうか。こちらに戻ってくる風見さんの背筋は、いつも通りシャンと伸びていた。
…それにしても、なんだかドレスを見た風見さんが不機嫌そうな対応なのは、私の都合のいい脳がそう変換しているのだろうか。今日の潜入を快く思っていないのは聞いているから、先ほどの「だろうな。」というセリフが拗ねているように聞こえて、可愛い人だな、なんて思ってしまう。そんな事を考えていると、少し緊張が和らいだ。
「来るの早いですね、風見さん。」
「そのまま返すぞ、それ。」
スタスタと私を追い抜いた風見さんは、驚くことに助手席のドアを開けてくれた。
慌ててお礼を言いながら、そこに乗り込む。車に乗るように誘導されたためすぐに発進するかと思っていたがどうやらまだ運転する気はないようで、風見さんはシートベルトを締めていない。かといってこちらを向いているわけではなく、風見さんはハンドルに凭れるように手を置いて、まっすぐ前を見ていた。
「思い出す。」
「…え?」
「ドレスが体のラインを出しているから。」
そこまで言われて、曖昧な表現しかされていないのに、ジワジワと顔に熱が集まってくのが分かった。
体のラインとか、そんな単語が飛び出てくるとは思っていなかったからだ。
――きっと、風見さんはあの夜の話をしている。
「あ、あの風見さん」
「20分だけ。」
「え?」
「20分だけ時間が欲しい。そこからはお互い、公安として、仲間として、任務に全うしよう。今から20分、俺はただの風見裕也で、君はただの苗字名前として話がしたい。」
「…はい。」
前を向いていた風見さんは、体ごとこちらを向いた。その視線は、いつか見た熱の色を灯していた。
「まず、君を――その、抱いた夜。君は記憶が無いと言っていたが、俺はある。」
「えっ!」
思ったより大きい声が出てしまった私と風見さんの間に、風見さんの大きな手が制止するように割り込んだ。いったん聞け、ということだろう。
「いや、その…情けないことに全部ではないが、俺が君に手を出した段階でははっきり記憶があるし、完全に俺の意思だった。君は泥酔状態で、俺はそれを分かっていた。それでも俺は、行為の許可を取る前に手を出した。立派な犯罪行為だ。それを言い訳するつもりはない。だからあの朝、真っ先に君に謝罪をした。」
――あの謝罪は、そういう…。
行為自体を後悔されたと受け取った自分の早とちりにも、風見さんがまるごと記憶があったことにも驚きが先立って、口をはくはくとさせることしかできない。風見さんはそんな私に構うことなく話を続けた。
「正直、あの夜まで俺は君のことを信頼のおける優秀な部下だとしか思っていないと――そう思っていた。あの夜、田中が君を送ると申し出たことは、覚えているか?」
「え?田中が?…すみません、わたし飲み会の中盤…多分ですけど、ほんとに中盤のあたりまでしか覚えてなくて。」
「アイツが君を家に送ると聞いて、俺は自分が脳で考える前に君の家を知っているからと嘘まで吐いて、アイツから君を奪い取った。」
「…風見さんも泥酔、」
「してない。あの段階では。というより俺は、酒にはそんなに酔っていなかったはずだ。…だがもちろん君の家など知らないし、君は住所を言える状態ではなかったから。純粋に、ちゃんとしたところで寝かせてやろうと思った。駅に一番近くて、…自分がそういう行為に走らないようにと、あのホテルに君を連れ込んだ。綺麗事を並べたが、俺は結局そういう行為に走ったし、君を傷つけた。」
風見さんは、チェックインの話のことは言わなかった。
傷ってなんだ。そんなもの私は負ってない。
そう思った時、頭によぎった白濁の液。ああ、風見さんはあれを気にしているのか。
「――俺は、男として、女の君にやってはいけないことをした。それをきちんと謝りたい。」
「か、風見さん!私も大人です。大丈夫です。私、その…もし子供が出来ていても風見さんを責めたりなんか」
「違う。それももちろんやってはいけないことだった。でもそれ以前に、気持ちも伝えず手を出した。本当にすまない――君が、好きだ。」
自分の明るく出した声が、せき止められたように止まってしまった。
好きだと、風見さんがそう言ったから。
「泣くな。」
泣くな?泣いてる?私が?
そう疑問に思ったが、大きなかさついた手が頬に触れて、ぎこちなくその親指で拭われれば確かにしっとりとした感触がした。
「風見さん、好きって…」
「正直言うと、あの夜気付いた。気付いた後で、自分の失態――コンドームはもちろん使っていなかったし、後処理をした痕跡もなかったことに気付いた。無責任だが、自分でもその部分を覚えていなくて…君にどう言えば、この気持ちがきちんと伝わるのか…いくら考えても浮かばなかった。」
お互いの休日明けのあの朝、デスクで見た風見さんのくっきり隈のついた顔が浮かぶ。今だって、健在だ。
君は、俺が真面目だから責任をとろうとしていると考えるんじゃないかと思ったと、風見さんはメガネを上げながらそう言った。
「今まで、それこそ仕事一筋で生きてきたから…好きだと自覚してからも、それは君の体を暴いたから勘違いをしているのかとも思った。でも一昨日、君を囮にするような作戦に、頭では最善と分かっていても納得できなかった。自分でも、まさか自分が私情で、仕事における最善を捨てるような発言をしたことに驚いたよ。」
「わた、私も、驚きました。だってあの風見さんが、あんなに大きい声を出したから…。でも、嬉しかったんです。心配してくれてるんだって。」
そう伝えると、風見さんはフッと優しく笑った。
「まあ、心配は心配だな。それと、そんな得体のしれない男に手を出されるのに、無性に腹が立ったのもある。」
「か、風見さんってそういう事さらっというんですね…。」
惚れた男に嫉妬していると真正面から言われ、堂々としていられるほど私に耐性はない。目の前にいるのは本当に風見さんなのだろうか?
「だから、今日は絶対に苗字が傷つく結果にしたくない。」
そう風見さんが今日の仕事の話に触れたとき、目に入ったデジタル時計の数字は20分と宣言された時刻から、ちょうど残り1分となっていた。言葉を探しながらゆっくりと話していたからか、こんなに時間が経っているとは。
「証拠の品も大事だが、それよりも君が大事だ。これは公私関係ない。危ないと思ったら何かしらの理由をつけてすぐ逃げるか、盗聴マイクに助けを呼べ。部屋に入って30分しても出てこない場合は強制的に突入する。だから、情報を奪う時間も30分だ。いいか?」
「はい。無理はしませんが…必ず証拠を持ち帰ります。風見さん、あの、さっきの…」
「今はいい。苗字が無事に帰ってきてから聞かせてくれ。あえてさっきの話を潜入前に話したのは、俺が意地でも君を守りたい意思があることを伝えたかったからだ。もし任務の邪魔になるようなら、その間だけでいいからさっきの話は忘れてくれ。」
「忘れてなんか、やりませんよ。」
「1発殴るまでは?」
「それ、風見さんが降谷さんにできるなら私も考えます。」
「怖すぎるな。」
そう言いながら、風見さんはシートベルトに手を伸ばした。それを真似してシートベルトを締めると、カチリという音を確認したように、車はゆっくりと発進した。
きっと風見さんは、私が任務へ集中する時間を作るために運転前に話をする時間を設けてくれたのだろう。
私の頭はあの夜以降、一番すっきりした状態で今日の作戦を頭の中でシミュレーションしていた。
絶対に成功してみせる。