「――すまない、遅くなった。」
「いえ、タイムリミットより早く来ていただいて、助かりました。本当に、もう少しで――…」
ひく、と喉が引き攣る。
それと同時に鼻の奥がツンとした。だめだ。風見さんを見たら安心して言葉とは別のものが出てきてしまう。風見さんは無言のまま、私の腕に巻きついたベルトを解いていった。無我夢中だった自覚はあるが、腕がかなり悲惨だ。革がまだ固かったのもあるが、他は服やストッキングでとどまった被害が、腕だけは体の方に残ってしまったようだ。それを見た風見さんは、切なそうな、何とも言えない表情をしていた。
「俺は、情けない顔をしているか?」
「…はい、ちょこっとだけ。」
「…だろうな。」そう言いながら、風見さんは私の腕をゆるゆると撫でた。今日の待ち合わせで、このドレスはトイレが大変なんだと訴えたときの相槌とは程遠い、安心させるような響きを含んだ言葉だった。
「…火事は?」
「もちろんそんなもの起こってない。サイレンを鳴らしたのはこの階のみで、隣室には避難訓練と伝えてある。」
「…それなのに、和久寺はバスローブで出て行っちゃったんですか?」
「そうなるな。」
なんだそれ。ウケる。緊迫した状況から一気に安心できる状況に変わり脳が戸惑っているのか、本当にクスクス笑っているのに表情筋が動いた感触は無かった。風見さん曰く、避難先にはカモフラージュとしてエキストラが用意されているらしい。意外と用意周到だ。先ほど避難場所で合流するようなことを言っていたがもちろんその必要はないとのこと。和久寺はまんまと連れ込んだ女にデータを盗まれトンズラされる哀れな男となったのだった。
「そのままで外には出れないから、すまないがいったんはこれを羽織っていてくれ。」
そう言って肩に掛けられたのは、待ち合わせの時に風見さんが着ていた自身のジャケットだった。
風見さんはホテルマンの恰好をしているから、これは遠慮なく借りることにする。
「ありがとうございます、遠慮なく。」
そういって襟元に手を交差させジャケットをぎゅっと握ると、その外側から優しい圧迫感が降ってきた。
――風見さんに、抱きしめられている。
「…嫌ならやめる。」
ジャケットからも、抱きしめられている胸元からも、風見さんの匂いがする。
"会社の上司"は普通こんなことしない。今は、風見裕也という一人の男性として、私を安心させようとしてくれている――。
「嫌じゃ、ないです。」
とん、とんと背中をあやす様に叩かれて、なんだか笑えてしまう。風見さんは私をなにかと子ども扱いしがちな気がする。
「風見さん、私ずっと信じてたから、怖くなかったですよ。」
「嘘だな。」
「…いや、怖くなかったはちょっと盛りましたけど、信じてました。風見さんが信じろって言ってくれたから、わたし、あんなに気丈に居られたんだと思います。だって、冷静になったらやられたこと結構怖かったですもん。」
「ほら、怖かったんだろう。」
「怖かったけど、怖くなかったんです。」
「強いな。」そう言って、風見さんの手は背中から頭に移動し、同じようにポンポンしている。ちょっと失敗してしまったが、結果だけでいえばかなりの収穫だったと思う。中身はまだ確認できていないが、手ごたえはあった。
「…風見さん。」
そう言って風見さんの胸をトンと押すと、風見さんはすんなりと離れていき、私の言葉の続きをじっと待ってくれていた。胸を押したのは私だけど、意地でも今は離さない!ってさらにギュッと抱きしめられるっていう展開でもよかったのにな。でも、こういう優しくて相手の意見を尊重してくれる風見さんが、好きだ。怖い思いをしたときに、名前を叫んでしまうくらい。
「…ホテルマンの恰好、かっこいいです。」
「…こんな時に何を言ってるんだ。」
「風見さん。」
「なんだ。」
「好きです。」
ぎょっとした表情こそなかったが、かすかに眼鏡の奥の目は見開かれたように見えた。
「無事、任務達成したので、伝えてみました。」
こんなボロボロの恰好で、ぐちゃぐちゃの顔と頭で、誰かに告白するのは初めてだ。
ドラマみたいですねとふざけて言えば、なかなか熱烈だなと風見さんもふざけて言った。
「俺もすっかり忘れていたが、髪に仕込んだ盗聴マイクはそのままだから、だいぶ恥ずかしいことになったな。」
「…え……あ、えっ!?」
そ、そういえば、なんで風見さんがここに!?
「風見さん、ちょっと、指示出す人が前線に出てきてなにやってるんですか!?えっ、というか、じゃあだれが司令塔やってるんですか!?無人…!?」
「ああ、それが――割愛すると、降谷さんだ。」
「えっ本当に意味が分からない。なぜ降谷さんがここに?あの人なにしてるの?ていうかえっじゃあさっきの降谷さんに聞かれたってことですか!?」
「こちら風見です。降谷さん、苗字と証拠品は無事回収しました。戻ります。」
「えぇ…風見さんマイペース…。」
「…。」
「…?」
風見さんは、何かを考えるようにじっとこちらを見たまま止まってしまった。
顔を寄せる仕草に、内緒話でもするのかと黙って待ち構える。
「かざ……、っ!?」
ふに、と口に触れたものが、一瞬なんなのか分からなかった。えっ風見さんが任務中にキッ…ていうか私口洗ってないのにていうか見られてるわけじゃないけど降谷さんが音声聞いてるのに!?!?
「戻るぞ。」
「あっ、あの、ひえ、は、はい。」
…風見さんって意外とそんなに真面目じゃないのかもしれない。本人には怖くて言えないけど。
指令本部としているホテルの一室に戻れば、風見さんの言っていた通りそこにはヘッドセットをつけている降谷さんがいた。…私服で。
「お疲れ様です降谷さん。…なぜここに?」
「お疲れ様。はは、なかなかすごいことになってるな。ストッキングは脱いだほうがいいんじゃないのか。」
質問に答える気がないのか、さらっと流されてしまった。納得いっていないと表情に出ていたのか、代わりに風見さんが説明をしてくれる。そもそも今回のターゲットが明日密会をするというタレこみは、他ならぬ降谷さんからの提供であったのだそうだ。例の組織で偶然聞いたその情報が、こちらに漏らしても降谷さんに危険がないとの判断でリークしてくれたらしい。道理でただのタレこみにしては大人数での対応であったはずだ。もちろん、降谷さんからのタレこみであったことは風見さんだけが知っていたらしい。
「状況を聞こうと思って風見に電話してみれば今までにないくらい動揺していたからな。俺も会場にいたから、部屋を聞いて合流した。居ても立っても居られない様子だったから指令係を交代して風見を前線に出したわけだが――。」
にやっと笑う顔を見ればわかる。きっちり最後までこの上司は会話を聞いていたようだ。
「おめでとうと言うべきか?」
「盗み聞きなんて、趣味悪いですよ降谷さん。」
「礼を言われる覚えはあっても文句を言われる筋合いはないな。」
「……どうもありがとうございます。」
降谷さんは会話している私ではなく、私の服の手配を電話で指示している風見さんに「交際申請は出しておけよ。」と言い、ヘッドセットを外していた。交際申請。身の回りの関係者を事前に申告するそういったものが存在すると公安に所属されたとき言われたような気がする。公安に所属されてから恋愛なんてしている暇がなかったから曖昧だ。電話を終えた風見さんは当然というように「はい。」と返事をした。そうか、いい大人がお互い好きだと伝え合ったのだ。それはイコール交際となるのが自然だ。それなのになぜか照れてしまっている自分が恥ずかしい。風見さんと、付き合ってしまった。
私が持ち帰ったマイクロチップもスマホの情報も、十分すぎるぐらい証拠となるものだった。これで念願の一斉検挙が可能となり、しばらくゆっくりした休みは取れることなく、風見さんとの時間ももちろんとれるはずもなかった。検挙も終わり、連日追われていた後処理も終盤を迎えていた。
もうひと頑張りだとコーヒーを淹れに行くと、そこにはコーヒーを片手にもった風見さんがいた。
「お疲れ様です。進捗どうですか?」
「お疲れ。こちらももう終わりそうだ。久々に休みも取れるだろう。」
「あ、私明日お休み取っていいって言われました。もう外には出ずにごろごろしてやりますよ。観れてないDVDもありますし。」
「それいいな。」
「風見さんはお休みまだ先になりそうですか?」
「いや。明日休みだな。」
「…それ降谷さんから言われました?」
「ああ。おかしいと思ったんだ。急に明日休んでいいなんて連絡が来るから。」
どうやら降谷さんはお節介を焼きたいらしい。ありがたくもらっておこう。
「じゃあ、一緒にDVD観ますか?」
「そうだな。せっかくだし、今日の夜から邪魔してもいいか?」
「全然いいですけど、スーパー寄らないとまともな食材ありませんよ。」
「じゃあ帰りに寄ろう。苗字が大変なら外食でも構わないが、手料理は興味があるな。」
「あんまり期待しないでくださいね。」
風見さんは、何かを思い出したように「そういえば。」と呟く。コーヒーは飲み終わったようで、紙コップをゴミ箱に捨てていた。
「覚えてないんだろう?」
「え?」
「なら、リベンジだな。いや、リトライか。じゃあ終わる時間の目途が立ったら伝える。」
そう言い残して風見さんは戻っていった。
リベンジ?復讐?こわ。リトライ。もう一度。覚えてないって――
そこまで考えて、思い当たりずぎるあの夜がポンッと頭に浮かんだ。
「やっぱり風見さんってむっつりスケベ…!」
ついそうひとりごちてしまい慌てて周囲を見渡すと、幸い誰にも聞かれていないようだった。せっかくなら思い出したいとあの朝シャワーを浴びながら思ったりもしたが、まさかの訪れた2回目に私は緊張しまくっているのであった。
End