恋人ごっこ 上




人間とは、窮地に陥ったとき「もしもあの時こうしていれば」と考える生き物である。考えても意味が無いと分かっていながらもしも話をすることで、徐々にかつ冷静に現状を受け入れるのだ。そういった人間らしい思考を、今この瞬間降谷零という男は巡らせていた。意味が無いことが必要な時もある。それは現状一ミリたりとも役には立たないが。


「可愛い子猫ちゃんね?バーボン?」

「…そうでしょう?恋愛禁止という決まりは無かったと思っていたのですが。」


電話とは、どこで盗聴されているか分からない。降谷は、自分への連絡――とくに漏れてはいけない重要な内容については直接街中で言葉を交わす様にしていた。すれ違いざまであったり、何気ない会話の中に混ぜたり。これは主に部下である風見と、そして風見の手が離せない場合は、風見の右腕である名前と行うことになっていた。
今日は込み入った話になりそうだからと降谷は確かに名前を呼び出した。もちろん降谷が自身を確認した際には盗聴器は仕込まれていなかったし、特に怪しい気配も無かった筈――だった。
今回は話が長くなるからと対面での話を予定しており、そのために待ち合わせたのは比較的にぎやかなカフェであった。待ち合わせ場所に来た名前の名前を降谷が呼ぼうとしたその時、聞き慣れたねっとりとした女の声で「こんなところで偶然ね」と後ろから声がかかったのだ。偶然なはずなどない。蛇が草むらから獲物を狙っていたように女は自分を見張っていたのだと、降谷は確信していた。
しかし、ここで取り繕おうにも目の前の部下と待ち合わせをしていた状況は明白であり、相手が名前と確定した段階でこの女――ベルモットは2人に声をかけてきたのだ。隠れて観察するのではなく接触。これが意味していることを、降谷はよく理解していた。

降谷の頭はフル回転した。部下と悟らせないための嘘を。妹――は似てなさすぎる、却下。ここで下手に知り合いや友人など中途半端な紹介をしては、梓のように変装に使われたりと今後利用される恐れもある。上辺だけの利用ならまだしも、完璧を求めて個人を調査されてはたまらない。下手に介入しないようけん制するためにはそれなりに"バーボン"こと"安室透"にとって特別であり、親兄弟とは違っていざとなったら切り捨てれるという建前を主張できる存在がベストであり、尚且つ二人きりで休日のカフェを選択する相手――即座にそう考え、降谷が手に取った選択肢は"恋人"だった。


「どこぞのアイドルじゃあるまいし、恋愛禁止だなんて。」


馬鹿にしたように笑うと、ベルモットはそのまま名前に歩み寄り、こんにちはと余所行きのしゃべり方で挨拶をしてみせた。


「こんにちは。あの、バーボン…って?」

「ああ、ごめんなさいね。彼のニックネームなの。気にしないで。」


ぺこりとお辞儀をしてみせる名前も公安警察の一人であり、上司である降谷が組織に潜入していることは知っている。
開口一番ベルモットが降谷のことをバーボンと呼んでみせたのは、自分の反応を見ているのだということも名前は分かっていた。この時名前は心底思っていた――スーツを脱いで私服でここに来てよかったと。もちろん登庁した段階ではスーツを着ていたわけだが、なるべく警察と関連付く要素は少ない方がいいだろうとあえて私服に着替えてきたのだ。警察手帳と拳銃はスーツと共に置いて。今日ばかりは自分の運の強さにこっそり感謝していた。


「ご覧の通りデート中なので、出来ればそっとしておいてほしいんですが。」


そう言って降谷はそっと名前の肩を抱いて見せる。ベルモットはもちろん申し訳ない表情をするわけもなく、終始面白そうにその光景を眺めていた。


「私だってそっとしておきたいのは山々なんだけれどね。」

「こちらだって貴女の大切な人には手を出さないと約束しているはずですが?」

「いやね、バーボン。大切な人ならって話をしているのよ。」


暗に、本当に恋人同士であるのかを疑っているとベルモットは言っていた。それはもちろん対面している降谷と名前も分かっている。名前はちょっと拗ねたような仕草で自分より上にある降谷の顔を見上げてみせた。


「…透?この女性は?」

「ああ、ごめん。探偵の方の仕事でちょっとね。…少し話してくるから待ってて。」


名前の演技は自然だ。おそらく不自然な点などないと降谷は胸を撫で下ろし、ベルモットをエスコートし少し離れた場所へ誘導した。


「なあに?もっと彼女と話してみたかったわ。」

「冗談は止めてください。一般人ですよ彼女。」

「そうみたいね。」


一般人であることに同意したような返事を寄越したベルモットは、何かを渡すような素振りに反応し広げた降谷の手のひらにゴールドのカードキーをポトリと落とす。


「今夜のアナタとの任務はこのホテルの下見の予定だったのだけれど。気が変わったわ。彼女と行ってらっしゃいよ。」

「…組織の仕事を彼女と遂行しろと言うんです?」

「仕事なんて大層なモンじゃないわ。部屋の構造を見て、次回盗聴器を仕掛ける場所や退路をを確認するだけ。でも――アナタならそんなことものの数分で終わるだろうし…恋人同士だもの。こんな素敵な部屋、見ただけで終わるわけないわよね?」

「…いいんですか?結構高そうですけど。」

「日頃から頑張ってるアナタへ、――そうね…プレゼントよ。」


ぎらりと光る視線を名前へと移したベルモットは、それはもう楽しそうに「朝まで楽しんで」と言ってのけたのだ。"恋人同士であれば当然断る理由はないだろう"と。

逃げ道を塞がれた降谷はそれでも顔色一つ変えずに「では有り難く」と答えたのだった。







演技でもなんでもなく、ベルモットはその場を去って行った。これは疑いが晴れたわけではない――むしろ、今から試される時間の始まりだ。降谷は彼女の元に戻り、当初の目的である打ち合わせもそこそこにその旨を伝えた。


「…えっ!やっぱりダメでしたか…すみません降谷さん。」

「いや、苗字の演技は完璧だったよ。むしろ俺が待ち合わせの前にもっと警戒して周囲を把握しておくべきだった…。しかし、どうしたもんかな。」


トン、と降谷はテーブルに置いたカードキーを長い指でノックしている。いつもシャキッと伸びる背が、食事用の高いとは言えないテーブルに頬杖をついていることで丸まっているのを、名前は目に焼き付けるように見つめた。
名前にとって降谷は憧れであり、尊敬する上司だ。目標である風見が目標とする人。雲の上のような存在だと、実は風見にはそう言っていた。数年の努力が実り、こうして降谷と直接やり取りができる位置まで這い上がったのだ。今のところ降谷と直接やり取りが許されているのは風見と名前と限られた上層部のみである。
考え事をするように半分降りている褐色の瞼は、髪と同じミルクティー色のまつ毛が縁取っていて、なんて見目麗しいのだろうと名前は感嘆を声にするかわりにゆっくりと息を吐いた。


「簡単に言うと、ベルモットの要求は”恋人の証明”だ。俺の正真正銘の恋人と示せるなら目を瞑ってやってもいいという事だろう。で、このホテルのルームキー。ここで二人きりで朝まで過ごすことをご所望ってところだな。」

「なるほど。了解し…えっ、」

「今日は急ぎの仕事は?」

「………ありま…す。」

「風見に回す。」


名前の喉は確実にぐっと潰れた音を紡いだ。まさか尊敬する上司に自分の仕事を回すなどとはあり得ない話である。反論したいところであるがそれを言い放ったのがもっと上の人間であることからまったく言葉が出てこなかった。そんな目の前の女をよそに降谷は涼しい顔でスマホを取り出し番号をタップし始めている。


「風見か。緊急事態だ。苗字は今日は帰せなくなった。急ぎの業務があるらしいがそっちで何とかしてくれ。」


余りにも簡潔かつ確認ではなく言い切った言葉に、電話の向こうでこれまた簡潔な「了解です。」との一言が聞こえ、名前は脳内でエンドレス土下座を絶賛開催中である。


「苗字って結構顔に出るな。」

「えっ!?は、はい…!」


何のことか分からず勢いよく返事をする名前に、降谷はふっと笑う。


「なんだろうな?演技力は無くは無いと思うけど。風見に申し訳ないって顔してる。」

「そ、そりゃあそうですよ!まさか上司に自分の捌けなかった仕事をお任せするなんて…!」

「というかまあ、今回は俺のミスだから俺の尻拭い感は否めないけどな。今晩付き合わせる代わりに風見にはフォローを入れておく。」

「ありがとうございます…!あ、あと降谷さんその話なんですけど、実際本当に宿泊する必要って…」

「あの組織の人間だからな。この部屋の出入り口であるドアを明日の朝まで監視している可能性もあるし…もしかしたらあの女の単なる気まぐれで何もない可能性もある。何があるかは分からないから、指示があった通り従っておくのが安全だろうな。」

「で、ですね…。」

「嫌そうだな。」

「滅相もないです…!む、むしろ私なんかと降谷さんが、その、同室だなんて、恐れ多いと言いますかっ…!」


名前のぶんぶんと左右に頭を振るその動きを止めるように降谷の手がガシッと頭に乗せられる。故障したおもちゃのようにピタッと名前が動きを止めたのを見て満足げな顔をした降谷は、「一般の会社だったら同室で宿泊を強要なんて普通にセクハラだけどな。」とそう言って席を立つと、さらりとカフェの会計を済ませてしまったのであった。







事前の打ち合わせはこうだった。とりあえず降谷が良いというまでは安室透とその彼女として振る舞うこと。また、何が起きるとも分からない為判断は原則として降谷に委ねること。ただホテルの部屋に入ればおそらく恋人ごっこは解消で問題ないだろうとのことだった。
どうせ今日は何も仕事は出来はしないと、ホテルに直行する前に軽く食事をしてからホテルに向かっていた。緊張のし過ぎも良くないと降谷が勧めたシャンパンでもちろん降谷自身は酔うはずなどなかったが、実を言うと名前は結構酒が回っていた。ふわふわと高揚した気分で内心「組織がなんぼのもんじゃい!」と気持ちが大きくなっている名前を、降谷は静かに「飲ませて失敗したな。」と後悔半分、呆れ半分で見ていた。
降谷にとって名前は意外と使える部下であり、期待されると突っ走る危なっかしいところさえどうにかなれば抜群の行動力や臨機応変な対応力は評価に値するとそう思っていた。確実性は高くともお堅い部分がある風見と柔軟性はあるが運頼りなところのある名前は、実は組み合わせるとバランスが良いのである。風見は名前の教育係でもあるので、アルコールに対する耐性をつけるよう連絡する必要があるな、と降谷はそんなことを考えながらホテルのエレベーターを上がっていた。







ドアを開けるとそこには煌びやかな光景が広がっており、名前は完全に演技などどこかに吹っ飛び素で「わあ〜〜〜っ!」っと感動の声を上げていた。


「見て見て安室さん!ベッドめっちゃ大きい!お風呂丸いしジャグジーだこれ!すごーい夜景がここからここまで見える〜!この大きい窓ってそのために…あっ」

ハッと我に返った名前に、降谷は心から表情を緩めていた。真面目な部下がはしゃぐ様子が微笑ましかったのももちろんあるが、自分より年下とはいえ成人して数年経つ女性のこんなにはしゃぐ姿はなんだかレアだ。半ばニヤついてしまったその降谷の顔を見てかあっと顔に熱が集まることを自覚した名前は部屋を探検していた足をそそくさと降谷の方へ戻す。


「ご、ごめんなさい…。」

「”透”。」

「え?」

「名前で呼ぶって約束したろ?それに敬語もちょこちょことれてない。」


もちろんそんな約束はしていない。
これは安室透との恋人設定が継続されている。部屋に入ったら解除されると思っていたその設定が生きていることに、名前は咄嗟に「ごめんね、…透。」と返した。


「なにかルームサービス頼む?デザートとか。」

「うーん…でももうお腹いっぱいかな。」

「まあまたお腹がすいたら頼めばいいか。喉は?乾いてない?」


ベストを脱いでハンガーに掛けながらそう言う降谷に、やはりこういった自然なエスコートをする人なのだなと、名前は密かに感動していた。降谷が年上だからかもしれないが、同年代とは比べ物にならない大人な振る舞いに酒とはちがう酔いが回ってくらくらしそうだった。かろうじて「大丈夫」と紡いだ言葉に、クスッと笑うその顔は完全に降谷零ではなく安室透だ。タイを抜き首元のボタンが開けられたワイシャツから覗く褐色の肌は、いつも見ているはずの肌の色と変わりないのになぜか見てはいけないような気分になり、名前は咄嗟に視線を逸らす。この後の上司の言葉にその視線は再び引っ張り上げられることも知らずに。



「――じゃあ、先にシャワー浴びておいで。」




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