恋人ごっこ 中




「――じゃあ、先にシャワー浴びておいで。」


滑らかに紡がれたセリフに名前の脳はフリーズしていた。
当然今日ここに泊まることになるのならばシャワーは浴びるだろう。むしろ名前としては湯船に浸かる気満々だった訳であるが、今この目の前の上司は果たしてそういう――今日はもう休んでいいぞというニュアンスで言葉を発したのだろうか。そう考えたところで答えは否。何故ならば降谷は未だに安室透モードで名前に接してきているし、この上司が安室透でいるということは、恋人ごっこはまだ継続しているのである。そして名前は声を大にして叫びたかった。まさかそんな、尊敬する上司より先にバスルームを使用できるはずがないと。ちなみにここまで約1秒ほどしか経過していないわけであるが、人と人との会話では1秒とは割と長い間が空いてしまっていると言える。


「あ、え、わたしが…先に?」

「なんで?一緒がいい?」

「〜〜っ…!?なっ、なにをっ、」


意地悪に笑った降谷の顔が作りものには見えないくらい自然で、名前はもしかしたら自分はいま狐にでも化かされているのではないのだろうかと錯覚してしまいそうになっていた。にゅっと伸びた降谷の大きな手が、親指と人差し指で名前の両頬を挟む。いつも自分の提出した書類に判を押す大きな手が、自分の顔に触れている。その事実だけで名前は頭から火が出そうになっていた。


「いつもみたいに僕がシャワー浴びてる間に髪の毛乾かして準備しておいて。いい?」


そんな”いつも”は存在しない。目の前にいるのは彼氏ではない。上司なのだ。非日常が当たり前のように仮の日常となっている。名前の頭はヒート寸前で、上司よりシャワーが先だ後だという話はすっ飛んでいた。準備ってなんなんだ。分からないことだらけなのに質問できない。だが唯一はっきりしていることは、降谷がここまで徹底して演技をしているということは、きっと盗聴器か何かが仕込まれているはずであると、冷静になれない頭で名前はしっかり判断していた。
「はいはい、行った行った。」そう言って名前の肩に手を置きぐるんと180度回転させた降谷は、そのまま洗面所へとその小さな身体を押し込む。そうだ――今は彼の指示が絶対なのだ。と、少しずつ名前の頭は冷静になっていた。パタンとドアを閉めた向こうでゆっくりでいいからと呟くような上司の声が聞こえ、いつもの指示を飛ばす厳しい口調ではないその柔らかい声に、冷静になっているはずの名前の脳とは裏腹に心臓は勝手にばくばくと暴れまわっていた。
――落ち着け、苗字名前。今は仕事中だ。この任務――あの組織の女を欺くことが最重要事項であり、これは今後の降谷さんの立場を左右するのだ。しっかりしろ。――そう言い聞かせるように、名前はばちんと自分の両頬を手のひらで叩き気合を入れた。


一方その頃降谷は、名前の浴びるシャワーの音を聞きながら組織としての仕事を難なく進めていた。ベルモットの言うように組織の仕事など仕事と呼べるような大したものではなく、そんなものは何の問題でもない。問題は、降谷が盗聴器を仕掛けるのに最適な場所を探すことを知っていたベルモットが「さあどうする?」と意地の悪い余裕の笑みを向けているかのように、降谷が目星をつけた箇所に堂々と盗聴器を仕掛けていることだ。この分かりやすい行動は、降谷にわざと盗聴器を見つけさせていると考えていいだろう。あの女、すでにこの部屋に一度踏み入れていたのではないか――どこまでも意地の悪い女だと、ため息がこぼれる。
盗聴されているのを分かったうえで行動してみろと、そういうことなのだろう。組織のメンバー…主にコードネーム持ちに「お前の行為中の音声を盗聴する」と言われモラルだなんだと騒ぐ人間が果たしているだろうか。いや、おそらくそれがなんだと誰も気にはしないだろう。降谷が通常のバーボンとしての意見を言わせてもらえるのならば「下品です。」と一蹴できたのであろうが、今は自分自身が女との関係性の証明と組織からの疑いの目を天秤にかけられている状況なのだ。逆らえるはずがなかった。もし従順に従うことで"逆にムキになっているのでは"と怪しまれたところで、答えが白であれば文句は無いはずだ。
そこまで決意して、考える。――では自分の潜入捜査の立場維持のために同じ志をもつ大切な部下に手が出せるのか。降谷のその答えもまたNOである。


「悪趣味すぎて呆れますが、いいでしょう。聞きたいだけお好きにどうぞ。」


これは、おそらく盗聴の電波の届く範囲で聞き耳を立てているであろう悪趣味な女――ベルモットへのメッセージだ。盗聴器に向かってそう吐き捨てた。


「――透?」


あの後、ベッドに腰掛けた降谷がひとしきり脳内で考えをまとめたところで、シャワールームから名前が顔を出した。今日は宿泊だと言ってあるが、きれいさっぱり化粧も落としている名前を見てあまりにも無防備すぎるその姿に穏やかな気持ち半分、申し訳ない気持ち半分が降谷の心を占めていた。降谷が立ち上がり名前の前まで歩いたところで、名前は「お先でした、ありがとう。」と声をかけた。それに応えるように降谷が名前の濡れた髪を耳に掛けながら「おかえり。」と返す。


「はは。やっぱり幼いな。」

「それを透が言うの?」


降谷が名前の素顔を見るのはもちろん初めてであった。表面上は”いつもの彼氏と彼女の会話”を装っているが、実際のところ降谷は普段見れない名前の素顔を心なしか楽しんでいるようだ。架空の彼氏と彼女を演じているはずなのに、降谷の目はしっかりと自分を見ているようで、そんな錯覚に陥ってしまうことが情けないと名前はそんな気持ちを隠す様にとん、と降谷の胸板を押し、促した。


「もう、いいから透も行ってきて?」

「ん。いい子で待ってろよ。」

「うん…待ってる。」


名前は、シャワーを浴びながらしっかりと気持ちを固めていた。何があってもこの任務をやり遂げると。確かにその瞳に”貴方についていきます”との意思を込めてじっと見つめれば、その意思を感じ取ったように降谷は頷いてみせた。


「じゃあ、風邪ひかないように早めに乾かせよ。」


片手で名前の首の後ろに手を添えた降谷は、そのまま名前が空けた隙間を埋めるようにその体を自分の方に寄せそのつむじにキスを落とす。何をされたのか分かっていなかった名前はきょとんとするが、彼がバスルームの扉を閉めてから状況を理解し、もしかしたらそういう流れになってしまうのだろうかと再び心臓が騒ぎ始めていた。







固めたはずの私の決心は、脆くも崩壊しそうだった。
バスルームから出てきた上司のバスローブ姿があまりにも暴力的に色っぽく、とてもじゃないが視線を上げることができない。ワンピースで来てしまっていたこともあり自分ももちろんバスローブを着用しているが、そのお揃いのバスローブを身にまとっている今の状況がいかにも過ぎて、意識するなという方が無理な話である。


「ただいま。」

「あ、お…おかえり。」


こんなにいっぱいいっぱいな自分に対し余裕たっぷりな降谷さんに、悔しさと、やはりこういうシチュエーションに慣れているんだなとこの場にそぐわない感情を抱いてしまっている自分に「集中しろ」と内心叱咤した。この上司はいったいどういう策でこの場を切り抜けるつもりなのか。先の見えない不安と、絶対に失敗したくないという思いが交差する。


「なんか緊張してる?」

「だって…」

「おいで。」


そう言われ手を引かれるがままに窓辺へと寄る。見下ろす夜景が圧巻で思わず大きく息を吸い込み酔いしれていると、ふいに自分が手すりについている両手のそれぞれ外側に大きな手が降りてくる。後ろから包み込むように立つ身体から伝わる体温に、緊張しているはずなのに圧倒的に安心感が胸を包んでいた。スーツだとそんなに意識していなかった体格差が同じバスローブという条件のもとはっきりと浮かび上がって恥ずかしいなんてものではなかったが、それでも別に良かった。今だけは自分は彼の恋人なのだ。役作りを意識するはずだったが、思いのほか今の自分はすんなりこの役をこなせそうだった。彼が上手に誘導してくれているからだ。


「すごい…あ、見てあれ東都タワーだ…!」

「あれさっき通った橋。遠くで見た方が綺麗だろ?」

「ほんとだ。…結構遅いのに明かりがついてるビルが多いね。」

「夜景の美しさはみんなの残業で成り立ってるんだな。」

「透、ムードないなあ。」


クスクスと笑い合うと自然に緊張した空気はほぐれていく。
いい歳をした大人がふたり、行ったことのある場所や有名な店を夜景の中から探して遊ぶ。夜景に夢中になっている自分に対して、降谷さんは次第に言葉が少なくなっているような気がした。ふと反射で見えた彼が窓ガラス越しにこちらを見ているのに気が付いたとき、ぐらりと反転した視界がとらえたのはシャンデリアが輝く天井だった。


「っ、と、とおる…!」

「ん?」


そういって、降谷さんは私の手を取り指先にキスをした。
覆いかぶさっているはずの体はきちんと隙間を空けてくれていて、全然苦しくない。体を鍛えているからそんな体勢が維持できるのかどうかは分からなかったが、体が密着していようがいまいが降谷さんに押し倒されているこの状況に、顔に熱がじわじわと広がっていく。

ちゅ、ちゅとわざとらしくリップ音を響かせ、手の甲、手首、手のひらを、降谷さんが、口づけている。普段自分を従える立場の、それも尊敬している上司が自分に奉仕をしているような光景に、何故かたまらない気持ちになっていた。いつも鋭く光る双眸は伏せられ、瞼に合わせて震えるまつげから目が離せない。


「あっ…!」


ふいに軽く食むような仕草を視界が捉えたとき、あたたかくてぬるりという感覚が手の甲に触れて自分からあられもない声が漏れてしまったことにぶわっと体温が上昇した。それに気づいた私の手を掴んでいない方の降谷さんの手が肘で体重を支えながらゆっくりと私の頭を撫でる。大丈夫だと伝えているのだろうが、全然まったく大丈夫ではなかった。今まで見たことがある降谷さんはもうどこにもいない。目を伏せて自分の手を愛撫する降谷さんの様子に耐えられず目を瞑ると、映像がないぶん音に意識が持っていかれる――降谷さんの漏らす息もリップ音もたまに体勢を変えるフリをする体に合わせて軋むベッドの音も、まるでベッドの上で体を重ねてキスをしているようだった。


「〜〜っ…は、あ」


目を開けていようが閉じていようが逃げ道などなかった。完全に雰囲気にのまれ息を漏らす私の声を聴いた降谷さんは、そこで初めて閉じていた瞳を開く。ふと絡み合った視線にどうしたらいいのか分からない。目の前の人は、誰だ。
わざとらしい安室透の笑顔などそこにはなかった。一人の男が、うっそりと目を細めているように見えるその表情が本当の彼――降谷零であるように見えて、掴まれて好き勝手されている手が震えた。


「声、我慢できないよな。」


どこか満足げなその表情は初めて見るのに、設定のせいでまるで彼とのこの時間が初めてではないような錯覚に頭は霧がかかったようにぼやけていた。


「や…、だって、」

「すぐ"だって"って言う。」

「あ、う…!」

「は…そのまま、声出して。」


指と指の間に降谷さんの舌が這って、唾液を溜めて、舐めて、とても直視できない光景から目を逸らしても、厭らしい音は確実に耳に届く。

ーーキス、してるみたい。

塞ごうにも片手は今降谷さんが――そう意識すればするほど脳は蕩けていく。キスやセックスをしている訳でもないのに、今この上司は自分に"そういう"声を出せと言う。もう、羞恥で殺されてしまいそうだ。

降谷さんの言葉は絶対だ。さっきも自分で任務遂行を誓ったはずだ。演技で声を出すくらいなんてことはない。そう思っても勝手に体に力は入り、あまりの恥ずかしさに降谷さんからたまに送られる舌の動きで小さく喘ぐのがやっとだった。

ただの上司だと思っていれば。任務の一環だと思っていれば。自分はやすやすと喘ぐ演技ができたはずだ。今の自分は完全に目の前の彼を――降谷零を、異性として意識してしまっていた。脳内でごめんなさいと繰り返しているうちに、あまりのその申し訳なさについに瞳から滴がほろりと溢れた感覚に慌てて首ごと顔を横に向けたはずが、息継ぎの暇すらないくらい一瞬の動きで頬に移動してきた大きな手が顔を正面へと戻してしまった。


「、名前」

「と…るっ」


――どうしてこの人は、気づいてしまうんだろう。涙を拭う指が優しくて、それと同じくらい私の名前を優しく呼んだ降谷さんは、だれが見ても分かるくらい申し訳なさそうな顔をしていた。ゆるりと解放された手が重力に従ってふわふわのベッドに吸い込まれる。

違う。嫌なんじゃない。そう叫びたいのに、叫べない。

だってこんなの酷すぎる。なんでもない部下にキスをすることすら悪いと気を遣ってくれていることくらい分かっていた。でも、こんなの、キスぐらい私は、降谷さんなら、私は。

無意識に、顔をふるふる横に振っていた。伝わってほしいのに、伝わらない。降谷さんの綺麗な瞳も揺れていた。伝えたい。でもなんと言ったらいいのだろう?
"下手な演技より実際やった方がラクだ"それぐらいにもし降谷さんが考えてくれているなら――


「ちゃんと…キス、して…」


零れた涙のように無意識に吐き出してしまったセリフに、一瞬時が止まったように感じた。でもそれはほんの一瞬で、「馬鹿、」と呟いた降谷さんは自分の手を私の後頭部に回した。さっきまで私の腕を掴んでいたはずのその大きな手は、その時感じていた体温よりもずっと熱かった。




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