彼と出会ったきっかけはなんだっけ。
ああ、そうか。そういえば、彼氏と別れた私を励まそうと友人が飲みに誘ってくれて、3件目に行ったバーで隣に座っていたのが彼だったんだ。実際は励まそうとしていた友人が呆れるほど私は落ち込んでなどいなかったし、むしろ別れを切り出したのは私の方からだった。その別れた理由なんかを話して友達が憤り、「まあ私は気にしてないからそんな怒んないでよ」と諌めた私の右隣から「だめですよ、ちゃんと怒らないと。」と話に入ってきたその男があまりにもイケメンで、友達が頼み込んで連絡先を交換した時に「ついでに」と誘導され連絡先を交換したのがきっかけだった。
彼の整った容姿やあの髪色、瞳の色で私はてっきり湘南のビーチでハジけている若者を想像していたけれど、彼は博識で物腰が柔らかく、しかし日本男児というようなちょっぴりお堅く頑固なところがあったりとなにかとギャップのある人だった。偏見気味だった私に人を見かけで判断するべきではないと思い直させてくれた人である。仲が良くなってからもたびたびそういう、”目からうろこ”のような、気づかないうちに視野が狭くなっている私を正しい道へと誘導してくれるそんな大人の男性で、素敵な人だと認識するのに時間はかからなかったと思う。付き合うことになった時、友人は「ずるい!」と悔しがるような真似をしていたが、これがただのポーズだという事は知っていた。連絡先を交換してからすぐに彼が私に気があるのだと友人に先手を打っていたらしく、それを聞いて私の好きなものや逆にNGなものをリークしていたのは彼女なのだ。道理で知り合った直ぐなのに気が合うなと思ったものだ。
そうやって周りにも祝福され、もちろん彼にも大事にされている自覚は十分にあったし、彼は忙しい人であったけど私たちはうまくいっていたと思う。少ない時間でも暇な時間が合えばお互いの家に行ったり、近くの公園やカフェにだって何度か赴いていた。過ごした時間は短いものだったのかもしれないけれど二人で体験することは特別で、これがたった1年たらずの出来事だったのかと驚くほどには。
私はイベントごとに頓着はなかったけれど、彼は嬉しそうに言っていたのだ。1年記念日はお祝いをしよう、と。
眺めていたスマートフォンの数字が23:59から0:00にぱっと切り替わってしまった。まるでたくさん積み重なったものが一気に弾けて消えてしまったように。ゼロという数字は不思議だ。今の私にとっては、とても虚しく映ってしまう。たくさん積みあがった時間という数字も、全部弾けて飛んで消えてしまった。ゼロ。もう今日は記念日ではない。
朝起きて、一応連絡は入れておいた。その返事は仕事の合間の昼休みにも来ていなくて、忙しいのだろうなと思った。仕事の帰りには念のため、食材や小さなブーケも買ってしまった。もし多忙で会えないのなら写真に撮って送ってあげようと、彼に一番似合う白と私の好きな緑の葉のブーケ。記念日と言えば花屋のお姉さんは赤いバラを勧めてきたけれど、彼は以前マグカップを二人で見に行ったとき何故か赤い色を嫌う素振りを見せたから、お姉さんの提案は丁重にお断りをした。でもその彼から返信は来ない。
こんな時って、電話してもいいんだっけ。会いに行ってもいいんだっけ。
もしかしたら危険な目に遭っているのかもしれない。探偵の仕事で何度か普通では考えられない怪我をして帰ってきたことがあった。そうでなくても体調が悪いのかもしれない。
気になるなら会いに行けばいい。
でもどうしてもそれが出来ないのは、最近の彼の心が自分に向いていないと感じていたから。それでも、忙しい人なんてそんなものだって、そう思うようにしていた。
でも、以前までの彼はほんの少しでも会う時間があればどんなに疲れても会いに来てくれて、会えば残りの時間を惜しむような態度が丸見えだった。それが最近はどうだろう。一緒に外には出たくないと言われ、ちらちらとスマホを気にする素振りやこちらの話を聞いていなかったとばかりに聞き返される回数が増えた。
友達の言う”自然消滅”って、いったいどうやったらそんな自然に消滅できるんだと不思議に思いながら話を聞いていた。どちらかがはっきりと別れを告げて終わるものだとばかり思っていたのだ。しかしなるほど。私、もしかして今、自然消滅しようとしてる?
そう思ってしまったら泣きそうだ。だって私はまだ彼が――透が好きだ。
好きなら会いに行けばいい。そうだ。これが最後になったっていい。何もしないより諦めがつく。自然消滅なんて――ずっと好きなまま引きずるなんて辛すぎる。会いに行って、もう気持ちがないって言われたら大泣きしてもいいからまた前を向こう。そう決心した私の足は頭が動くより先に靴を履いて、腕は重たい玄関の扉を開いていた。スッピンだけどいい。一目会えたらそれでいい。
真っ暗な夜道を歩きながら、ひっつかんできたスマホを持ち上げ、既読のつかないメッセージアプリを立ち上げる。もしこのメッセージを見てくれなくても、明日仕事は休みなのだから会えるまでマンションのエントランスで待つのもいい。とにかく、今は透の顔が見たい。
強行突破も頭によぎったがやはり疲れている彼の迷惑になるのも申し訳ないからメッセージを送ることにした。歩きスマホダメ絶対。いったん立ち止まって、文字を打ち込む。
「い、ま、か、ら、い、く、ね。」
スイスイと画面に指を滑らせれば、ぽこんという音に合わせて吹き出しが追加される。既読のつかない画面をそのまま落とし、止まっていた足を再び動かした。何かを買う予定もなかったため財布も持っていない。持ってきたのはスマートフォンと自分自身だけ。
遠くのほうから、ちょっぴり高い男の人の声が聞こえた気がした。
真っ暗だと思っていた夜空は何故だかまぶしいぐらい輝いて、訳も分からないまま大きい衝撃が体を襲ったような気がする。なにがなんだかわからないけれど、進みたいと思うのに足は動かなかった。
▼furuya side
「降谷くん、携帯は生きているか?」
「とっくに死にましたよ。」
気に食わない相手からの質問に若干の不機嫌を滲ませそう答える。
突然だった。そして、偶然のことだった。
不本意ながらもFBIと共に追いかけている例の組織を壊滅へと追いやっているさなか、消息が途絶えていた幹部を街中で発見したのは。もちろん備えなどなく、たまたま昼食へ出ていたこの男と追跡を始めたのはもう昨日のことだ。途中までは携帯も繋がっていたためこちらの様子を伝えることができていたが、今となっては十分に充電ができていなかった携帯は黒い画面がら表情を変えることはない。少ないながら指示も飛ばせた。あとは部下からの応援を待つだけだ。
組織のおおかたは潰すことができた。ここまで長かったような、逆に組織の規模を考えると短かったような。場所の移動をやめたターゲットをこちらも影に潜んでただ見張るだけの作業となり、気が抜けないようで時間を持て余すこの間を埋めるように考えるのは、連絡も取れないまま数日間放置状態となっている恋人のことだった。
組織を追いかける緊迫した生活の中で、唯一の癒しの時間と言ってもいい、自分には甘すぎる時間だった。
自分の立場を考えれば考えるほど、こんな恋愛ごっこなどしている場合ではないと思う。でも手放せない存在だった。自分にとって他人とは、近くにいればそわそわしてしまうような気を遣うものだった。でも彼女は気づいた時には隣にいて、隣からいなくなると逆にそわそわしてしまう。そんな人間に出会ったのはいわゆる仲の深い同性の友人以来の感覚で、まさか自分が異性に対してこういった感情を持てるなんて20代半ばを過ぎても知らなかったのだ。
正直、ファーストコンタクトは横顔が好みだった。ただそれだけだ。
顔が好みの女が、彼氏と別れたという話を深夜のバーであけすけに話している。そのちょっと恋愛に対してさっぱりした感じもいいなと思った。そして、自分にも近いと思った。
それに、話を聞けば明らかに彼氏のほうが人間としてどうなんだという内容であったにもかかわらず、怒る友人を窘めるような言動。お人好しな印象がなんだか放っておけないというか、ついつい口を出したくなるようなそんな女性だった。
しかしながら、とくに話しかけようだとか連絡先を聞こうだとかそんなつもりはなかったがあの日の自分はそこはかとなく酔いが回っていたようで、無意識に声をかけていた。そこからは彼女の友人をきっかけに連絡先を交換したわけだが、それもその日限りの気まぐれぐらいにしか思っていなかったのだ。
後日、久しぶりに公安もポアロも、組織の任務すら入っていないような休日が来たとき、何故かふと彼女に会いたいと思った。
でもバーで知り合ってから自分からはもちろん彼女からも連絡など来ていない状態で、いきなり会いませんかと連絡するのも気が引ける。もやもやした気持ちで連絡をひとつ送る勇気もなく、とりあえず近所を散歩していたときたまたま会ってしまったのだ。花屋で小さなブーケを選ぶ彼女に。
これにはまあまあ驚いて、そして向こうも驚いていた。つい、先日はどうもとお互いぺこぺこしてしまう俺たちにその花屋の店員が出てきて大笑いをしたのだ。その店員をよく見れば、あのバーでの連絡交換のあと何度か連絡をくれた彼女の友人だった
その花束は、亡くなった友人に贈るのだと彼女は言う。仏花ではない花束をもう一度見遣ると、彼女は笑って言ったのだ。「せっかく貰うんだもん、きっとかわいいほうがいでしょ?」と。
死者に贈るのは仏花だと思っていた。教科書に載っていたわけではないけれど、常識としてそうだと思っていた。でも、どうだろう。形式だからとたいして知りもしない仏花を送られるより、自分だって好きな色や香りの花を贈られるほうが嬉しいかもしれない。なるほどと思った。昔から常識にとらわれがちだった自分の目からうろこが飛び出た感覚だった。それに、なんだか素敵だなと思う。それからも彼女は日々の生活で、自分ならば考えもつかないようなユニークな言動を見せてくれた。それが俺にとっては新鮮で、なんだか心地良かった。スタートこそナンパじみたものになってしまったが、それでもあの時声をかけてよかったなと思う。彼女のことを特別だと感じるのに、時間はかからなかった。
そういえば、最近はまともに一緒の時間を過ごせていない気がする。
組織壊滅に向けての動きが活発になり、時間をとることが難しくなった。それに、それは自分と親しくしている彼女にも危険が隣り合わせになっているということで。一緒にいてもどこから狙われるかわからないと気が気ではなくなって、そちらに集中してしまい彼女の話を聞き逃してしまったことも、最近ではしばしばあったように思う。
でも、やっと終わる。長かった戦いがやっと。
この任務が終われば、もしかしたら自分は今よりも自由になるのかもしれない。そうなったら、彼女との未来もあるのだろうか。
そんなもの自分には関係ないと突っぱねていた過去の自分はもういなかった。
気に食わない隣の男曰く、俺は最近丸くなったのだそうだ。もともと尖っていたのはお前にだけだと言いたかったが、部下にさえ同じようなことを言われてしまったためきっとそれは事実なのだろう。
不思議だった。自分が恋愛をしていることも、幸せな未来をほんの少しでも描いてしまっていることも。
お前だけが幸せになってと友は俺を恨むだろうか。いや、そんな奴はあの中にはいなかった。――お前らのぶんまで俺は、幸せになってもいいだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、かすかに聞きなれた靴音が耳に入る。いくら警戒し足音を消していようが、何度も同じ現場に出ていれば覚えてしまうものだなと感心する。
「――赤井、俺の部下が到着したようです。」
「よし、では動くか。」
「ええ。その前に、もう一度作戦を確認しましょう。応援の人数も考慮して最善を考えたい。」
「もちろんだ。ああ、早くベッドに入ってゆっくり寝たいな。」
「馬鹿言うな。そんなものまだまだ先ですよ。」
当然ながら徹夜が続いていた。だが、組織が潰せるのならたかが2、3日寝れないことなどなんてことはない。自分には帰る場所があるのだと、改めてそう思うとなんだか心が温かかった。この任務が終わったら、いったん彼女のもとへ会いに行きたい。連絡がしばらく取れていないから心配しているかもしれないし、もしかしたら拗ねているかもしれないから万が一に備えてデザートでも買っていくかとそう思案していると、隣の男がほほ笑んだ気配を感じた。なんだその生温い視線は。まったくもって気に食わない男だ。
▼shinichi side
3日前、赤井さんからシンプルなメールが届いた。
『組織の残党を見つけた。たまたま降谷くんと一緒に居合わせたから二人で確保する。』と。
組織を壊滅に追いやってから、やっと手に入れたAPTX4869のデータをもとに解毒薬を作ってもらい無事高校生の姿に戻ったというのに、赤井さんはなかなか俺を前線に出そうとはしてくれなかった。そんな彼の口癖は「高校生は未成年だ。未成年は大人の保護下だ。」だった。俺の未来を大切にしてくれているのはわかってはいるが、仲間外れにされたようで寂しいような気がするのも嘘ではない。自分が小学生の姿――コナンの姿であったときはバディを組んでいたはずなのに、今ではすっかり犬猿の仲であったはずの降谷さんと行動を共にすることが多くなったように思う。まあ、お互いある程度自由に動ける身で身体的にも頭脳的にも偏差値が近いのであれば行動を共にしやすいのも頷ける。
そういえば、赤井さんが言っていた。降谷さんが最近人間らしくなったと。それを聞いた降谷さんはもちろん噛みついていたが、俺は特にそういった感想はなかったので、はて?と不思議に思っていると、なんとあの降谷さんがポロリと零したのだ。今、自分には恋人がいる、と。
なんでも付き合って1年近くは経過しているとのことで、そうなれば自分が出会ったときにはすでに人間らしい降谷さんだったのだから赤井さんの発言に不思議に思うのも無理はなかった。赤井さんが人間らしくなったと言ったのは、おそらく昔の降谷さんと比較したのだろう。それにしても降谷さんにしてはそういったプライベートな情報を漏らすことは珍しいと思ったが、今思えばあの時のあの発言は、「自分に何かあったときは頼む」という意味合いも込めての恋人の存在の暴露だったのだろうと思う。それほどまでに降谷さんが大切にする女性だ。気にならないというほうがおかしな話なのだが、一度「彼女さんに会わせてくださいよ」と言ってみたら思った以上に素直に嫌そうな顔をされてしまって、これにはとても驚いた。29歳という年齢もあって大人な男性という印象があった彼の、初めて見た子供らしい素直な反応だったんじゃないだろうか。(いつも赤井さんにつっかかるあの大人げなさは置いておいて)
はあとため息をつき空を見上げれば、太陽はすっかり眠りについて夜空には星がいくつか煌めいていた。なかなかここも都会に属されるため満点の星空は望めないが、それでも時間帯が深夜ということもあって黒い絵の具で塗りつぶしたような空はなんだか心地いい。借りていたノートを返すという口実をもとに蘭の家に立ち寄ってみれば夕飯を食べていけと言われ、なんやかんやですっかり遅くなってしまった。近所であるためすぐに自宅へ到着する予定であったが、なんとなくコンビニに寄りたい気分になり寄り道をする。小学生のころとは違って夜中に出歩いてもお巡りさんから声をかけられない優越感に浸っていると、目の前を歩く女性が一人。
「…?」
まさに”家でくつろいでいたけどちょっとコンビニまで”というラフな格好をした女性が、一人で歩いている。いやいや、今何時だ?そう思ってスマホを確認すれば時刻は深夜0:15の数字が光っている。
おせっかいだということは分かっている。分かってはいるが、自分にも想い人がいるからこそこんな夜更けに女性が一人で出歩くなんて無視できるはずがない。まったく何考えてんだと呆れながらその華奢なパンプスが響かせる音を追いかけるように歩き始めた時だった。暗闇に馴染んでいたはずの視界いっぱいに飛び込んできた眩しすぎる光に目が霞む――それがトラックのライトだと気付いた時には遅かった。大きな音に大きな衝撃が、自分が立っていたところまで伝わった。ここは歩道だ。それに、こちらが気づかないくらいの猛スピードで突っ込んできたであろうトラックは、まさに自分が夜道は危ないですよと声をかけようとしていた女性の歩いていたところに突っ込んでいた。辿っていたはずのパンプスの音は、消えていた。
――これが、彼女との出会いだった。
救急車を呼び彼女を搬送し、それから偶然とはいえ目の前で事故にあった彼女を、翌日蘭と一緒に見舞いに行った。幸いにもケガは大したことがなく、ただ頭を強く打っているため検査が必要なのだそうだ。むち打ちが一番つらいと彼女は笑っていた。自分たちより年上だろう彼女の、屈託のない笑顔が可愛らしかった。
実はあのとき夜道の一人歩きは危ないと声をかけようとしていたのだと話せば、恥ずかしそうに「そうだったの?ごめんね、ほんとだらしない大人で…」とへらりと笑って見せた。そんな彼女に、事のあらましを俺から聞いていた蘭が問いかける。「でも、そんな軽装でどこに行ってたんですか?」と。うーんと考えるようなしぐさをしてみせた彼女は、切なそうにこう言ったのだった。
「覚えていないの。なにしてたんだろうね。財布も家の鍵も持ってなかったんだって、私。」
――“逆行性健忘症”
医師は、ぽつりとそう告げた。
彼女の手元に唯一残されたスマートフォンは文字通り粉々に砕け散り、そこから辿れるものなど残ってはいなかった。