何の問題もなくやってきた。やってきたつもりだった。
どこで歯車が狂ったのか。いろいろと思考を巡らせてみたが、きちんと機能しない頭でいくら考えたところで無駄だった。
真っ暗な倉庫。私にここに来るように言ったのはジンであったが、目の前にいる男は長い銀髪ではない。真っ黒な髪を靡かせ、唯一の出入り口を塞いでいた。
「――ライ。」
この顔を知っている。私がこんな組織の中で大切にしている宮野志保が、いつだったか忌々しく教えてくれた――姉の恋人だと。それに何度が一緒に組んで任務を行っていた。腕は確かで、こんな組織にいるのに驚くくらい汚れを感じない人だった。彼の任務成功率は知っている。そしてその対象が今回は自分であるということも、気づかざるを得ない状況だった。
「こんな夜更けに…可愛い恋人が嫉妬しちゃうんじゃない?出直して来たら?」
「…組織の人間からの命令だ。お前を消すように。」
ドクリと心臓が波打った。
殺されることへの恐怖ではない。私を消すよう指示が下ったその理由だ。理由によっては、私はこの男と対峙してでもある人に現状を伝えなければならない。
「おしゃべりには付き合ってくれないみたいね。じゃあ冥土の土産にひとつだけ、いいでしょ?…なんで私が消されなきゃならないの?」
「…。」
質問に対する返事が出てくる気配はなく、無言のままライは右手を挙げた。――そちらの手に拳銃は握られていない。
「…俺が推測するにお前は――、」
トントン、とライが指したのは自身の耳だった。これは、彼と任務に就いたとき使っていたサイン――盗聴器が仕込まれていることを私に伝えている。この倉庫もしくはこの男に盗聴器が仕込まれているのだ。そうだとしてもそれをこちらに伝えるのはなぜか?動向を見守ることしかできない現状に、とりあえずコクリと頷いて見せた。それを確認したライは、小さく一度だけ頷くと懐から携帯を取り出した。その光る画面をこちらに向けたまま、ゆっくりとこちらへ近づく足音だけが響いている。どうやらカメラは設置されていないらしい。
「――邪魔だと判断されたらしいな。研究員は人員不足だ。ソイツをそそのかすんじゃないかって思われたんだろう。」
スラスラとそう話す男の手に握られた携帯にはすでに文章が撃ち込まれている。
“俺はFBIの捜査官だ。お前もNOCだということは分かっている。とりあえず落ち着いて、その場から動くな”
ひく、と喉が引き攣る。
――NOCだということがバレている?
FBI?この男もこちら側の人間だと?
でも、盗聴器が設置されているのであれば、彼が口にしていることが正真正銘組織側から命令されていることなのだろう。これが全部、自分を炙り出すための演技でないとするならば。
「なんなのそれ?そそのかすって。悪い遊びでも教えそうってこと?」
「俺が知ったことじゃないな。それにこちらも、専門外の注文に苛立ってるんでね。余計なおしゃべりはやめてもらおうか。」
そう言って目の前の男が懐から取り出したのは水の入ったペットボトルと、毒々しい色のカプセルがいくつか入ったピルケースだった。おそらく組織の開発した薬だろう。専門外と言っていた言葉から、銃殺ではなくこれを飲ませ始末するように指示が下ったことは間違いないだろうと推測した。組織の人間は、私がシェリーこと宮野志保と交流を持っていることに危惧しているらしかった。彼女の周りに人がいないのは、こうやってその度に消されているからなのかと思うと切ない気持ちがこみ上げる。そんなことを考えながらも、心の中でほっとしていた。
――私は、公安からこの組織に潜入している潜入捜査官だ。全ては降谷さんを組織に紛れ込ませるため。もちろん自分と繋がる証拠など残していないし裏から手を回して引き込みに成功した。そしてそれがうまくいってからも、バックアップのために組織に在籍している。自分がNOCだとバレただとか、バーボンと裏で繋がっていることがバレたわけではないのなら、報告する必要もない。
私が死んだところで彼に影響はないはずだ。自分の最大の役目はすでに終わっているのだから。
――降谷さん、すみません。最後までご一緒したかったです。
胸の中でそっと上司である降谷に言葉を吐いた。
覚悟を決めてライに目をやると、ピクリと彼の眉間に皺が寄った。
「お前、ちゃんと俺の話を”聞いて”いたか?」
きっと、口から発している言葉を指しているのではないのだろう。暗に、先ほどのスマホの文章を読んだうえで理解しているのかという問いだ。この男はきっと、私を殺さずに盗聴器の向こうの人間をうまく丸め込むことを思案してくれている。でなければ、自身の素性を明かしたりはしないだろう。
その証拠に、無理やり飲ませれば解決する薬と水は二人の間のドラム缶の上に置かれていた。
じゃあどうしようというのか。完全に八方塞がりだ。倉庫の外には組織の人間がいるかもしれない。生きた自分を連れたこの男が見つかればこの男だって――
そこまで考えたところで、ハッとした。
もしかするとこれは…
「なるほど。そういうことね。」
私のその発言に、目の前の男が本気で苛立ったのが空気で伝わってきた。
まあでも、声に出して説明なんてできないししょうがない。とりあえず、心の中で謝罪はしておこう。
そして私は、目の前の男の後ろに視線をずらした。唯一光が漏れるそこを見て、わずかに目を見開いて見せる。音には出さず、口を動かした。
" ―― ジ ン “
目の前の男もかすかに目を見開き、首はそのまま目線と意識をそちらに向けた。
完璧だと思っていた男を最後に騙せてしまったことが、なんだか楽しかった。ふっと笑った私の手には、ペットボトルとピルケースが握られている。
一瞬。だが、私には十分だ。
気付いた彼がバッとこちらに視線を戻す。それに私は笑って見せた。パワーはいまいちだがスピードは組織でピカイチな自信がある。この男よりも。ごくりと嚥下されたその喉で、私を止めようと彼の口が開く前に大きな声を張り上げた。
「あーあ!誰よこんな趣味ワルいことやろうって言い出したの!ジン?ウォッカ?ベルモット!?分かりましたよ飲んでやればいいんでしょ!?私が死んで泣いたって知らないんだからね!バーカバーカ!!」
これが実験サンプルか完成品かは知らないが、前者だったら実験台になってやるつもりはない。せめてもの抵抗として、ピルケースに入っていた色も形も違う薬を4錠、全部飲んでやった。
とたんに地面は魔法にかかったみたいにぐにゃりと変形し、体は地面に崩れ落ちる。
刹那、大きな手が私を支え、薬を吐かせようとなんと私の喉に指をつっこんだ。彼は声を出していないからきっと盗聴器の向こう側にはこの状況は伝わってないけど、やめてほしい。ドッドッドッと心臓が太鼓を打ちつけているように振動している。こんな状況で羞恥の気持ちが芽生えるなんて、私もまだまだ女を捨てていないのだな。そんなのんきなことを考えながら、そっと目を閉じた。絶対に吐くものかと踏ん張りながら。
今回のこれは、私だけじゃない。目の前の男――ライも、試されていたのだ。きちんと私を始末できるかを。ノックの疑い、あなたもかけられてますよと教えてやりたかったが、きっと彼も気づいている。それを分かったうえで助けようとしてくれたのなら、それだけで心が温かかった。ずっとこんな組織にいると精神がやられるのかも。差し出された優しさが暖かくて仕方ない。
ぷつりと途切れる意識に、最後のさようならを告げた。