いつもどおり起き上がってみたはずが、その体は再びベッドへと沈む。
おや?と思いつつ体勢をうつ伏せに変更する。その時ふと目に入る、ぽちゃぽちゃした小さな手。
……ん?あれ?
ぐっと力を入れて何とかベッドの上に座るまで成功する。
見慣れないベッドに見慣れない部屋。――それはそうだったが、どんなに思い出そうとしても見慣れた部屋が思い出せない。なんだっけ。私今どういう状況にいるんだっけ。というか
「わたし…だれだ?」
自分から出た言葉があまりに舌足らずで、視界に映る手のひらも腕もお腹も足もまるで幼児だ。
だれだっけ?と言いたかった言葉も、詰まって促音は消え短い単語で終了してしまった。
…あれ?私って大人じゃなかったっけ?
いやでも何歳だったのかは思い出せない。でも今の自分の体が「こども」で、動作に違和感があることは分かる。そしてここが病院で、刺さっているのは点滴で、病院では健康保険を適用させれば治療費が3割負担となることも知っている。では自分は?自分が健康保険に加入しているかどうかは思い出せない。
頭はパニック状態であった。とりあえず、鏡だ。鏡が見たい。
ざっと見た様子ではこの部屋には鏡は存在しない。鏡があるのはトイレだ。とりあえず腕に繋がる点滴を抜き去り、よいしょとベッドから降りようとして気付いた。床が遠い。冒険はまだ始まったばかりというのにすっかり出端をくじかれてしまった。きょろきょろと室内を見渡してみるが、病室であることは間違いないはずだ。あれ、でもナースコールがない。しかしナースコールがあったところで押すつもりは毛頭ない。目を覚ます前のことが思い出せないばかりか、自分が誰なのかも思い出せない。登場したナースに事情を聴くには心の整理がついていないのだ。もう少し一人で冷静になる時間が必要だと感じていた。
病室のドアに背を向けるように、後ろ向きに足をそろそろと降ろしてみる。地面に着く気配なし。そしてここで自分の腕の筋力の無さに絶望した。足が地面に付く気配がないというのに私の腕は「もう上にもあがれないぜ」と白旗を揚げていた。ハンズアップ状態だ。実際にハンズアップしようものなら地面に落っこちること間違いなしである。
自分のシャレにふふっと笑ってみたが、状況が変わることはなく所謂宙ぶらりん状態である。ええい、女は度胸だと手の力を抜く。重力に素直になった体がべちゃりという音で床に落ちていったその刹那、そういえば自分は女だったことは覚えているなと思った。
――ゴン。 と続いてまあまあな音が鳴り響く。
受け身をとったはずがぐんと後ろに引かれ後頭部を打ち付けたことを、あとから襲ってきた鈍い痛みで気付く。なんて重い頭だ。
勝手にじわじわと浮かぶ涙にやめろこんなことで泣くんじゃないと思うが、この体は言うことを聞かないらしい。
後頭部に手を伸ばすだけでいっぱいいっぱいなこの腕が憎い。ほろりとしずくが落ちたとき、背後からの声で痛みは吹き飛ぶことになった。
「起きたのか。」
声の聞こえた方へ慌てて振り向くと、初老の男性が一人、ドアからこちらを見ていた。声の正体は彼なのだろう。ゆっくりとした動作で部屋の中へ入ってくるが子供に対しての配慮はないらしく、折ることの無い膝が眼前に迫っていた。
「迎えはまだ来ないぞ。」
「んと、むかえ…だれ?」
「お前を連れてきただろう。緑の瞳の男だ。」
「がいじん?」
「誘拐か?」
「わかんない…」
「お前の名前は?」
「わかんない…」
「なるほど。」
ポンポンとキャッチボールのように会話をいくつかしたところで、何かを納得したように頷く目の前の男は白衣を着ているのでおそらく医者だろう。白衣を着るのはコスプレでない限り医者か科学者や研究者だと相場は決まっている。
そこからいくつか質問をされる。やれペンの芯を出してみろだとか字を書いてみろだとか注文の多いおじさんだ。気が済んだのか自分の手元の紙に何かを書いたあと、「見た目は2歳ほどのはずなんだが」とぽつり。その言葉に驚愕した。やたら動きにくいと思ったら2歳だと?そんなまさかという気持ちとなるほど合点がいったという気持ちが交差する。それきり黙りこんでしまった私をフォローすることなく、迎えがくるまでおとなしくしていろとベッドへ戻されてしまった。所謂抱っこというやつである。私の(物理的な)涙の脱出劇はあっけなく幕を閉じたのであった。内心ヒヤヒヤしていたが、勝手に点滴を外したことは怒られなかった。しめしめ。
そのままぼんやりと月を眺めていた。たいそう眠っていたらしく、眠くはなかった。
そうして静かな夜を過ごしていると、ふと外から荒々しい車の音が聞こえてきた。入院患者の見舞いにしては派手だ。時間も非常識と言えるだろう。部屋の時計はとっくに深夜を指していた。
バタバタと慌てたような足音は徐々にこちらに向かっているような気がしないでもない。いや、向かっている。いよいよバン!とこれまた派手な音を立てて扉を開いた人物は、綺麗なモスグリーンの瞳を見開いていた。(―緑の瞳の男だ)医者の言葉が頭の中にポンと浮かんだ。お迎えに来たのは、端正な顔なのにめっちゃ怖いお兄さんだった。
しばしの沈黙の後、何度か小さく開けたり閉めたりと繰り返していた男の口から絞り出すような声が響いた。
「…体調はどうだ。」
語尾は上がっていないが私に聞いているのだろう。体調は正直良いのか悪いのか分からない。頭は痛くないしお腹もいたくない。なんて返そうかと思っていた自分の口からは勝手に「えと、…だれ?」という言葉が出ていた。ある意味質問に質問で返す形となってしまいさらに気まずさが増す。目の前の男も怪訝そうに眉を顰めてしまった。あわ、ごめんなさい。謝罪は言葉にならなかったが、代わりにお前は誰かと言う問いに対しては分からない旨を伝えることができたので許してほしい。
“どうやら記憶に障害がある”と医者は男に伝えていた。さらに男の眉間に皺が刻まれる。この事実を今知ったであろう男にとって、私の記憶が無いことは都合が悪いらしい。
とはいっても私は見た目でいうと2歳ほどということであった。なぜ健康保険のことなど生活についての知識があるのかは全く分からないがこれは前世の記憶なんだろうか?言葉こそ出すのは不自由であるが、脳内はとても2歳児の思考ではないことは自分でも十分理解しているつもりだ。ここで寿限無でも最初から最後まで唱えようものなら目の前の二人は卒倒するのではないだろうか。でも外人なら寿限無知らないのかな。
そんなどうでもいいことを考えていると、男の手からポイと袋を投げつけられる。袋には有名な子供服ブランドのロゴが入っていた。私は人差し指を自分に向けた後、目の前の男を同じように指差した。
「…ぱぱ?」
「違うな。」
違うらしい。驚くほど即答であった。この感じは兄という線も薄そうだ。
とりあえずこの部屋には私以外この服を着こなせる人間はいなさそうなので、私にくれたものであるのは明白だった。
何の義理があって洋服をプレゼントしてくれるのかは定かではないが、まさか2歳児に料金を請求してくることはないだろうと素直にありがとうと言って受け取る。
話をしてくるから着替えて待っていろと言い残した男は医者を連れて部屋を出て行ってしまった。
様子からして保護者であることは間違いないのだろうが、鋭い目に男性にしては珍しい長髪、上から下までまっくろくろすけな装いはなんだか怪しいというかヤバいものを感じる。
多少警戒しながら袋を開けてみると、とてもかわいらしいワンピースが入っていた。
先程の男の恰好とはあまりに不釣り合いなこの小さなワンピースに一瞬フリーズしてしまう。しっかりタグが付いたこれをあの男が買ったのか?レジに並んで?…実はあんまり怖い人ではないのかもしれない。
どんなに引っ張ってもタグは取れなかったので諦めてタグごと服を着ることにした。最新ファッションと強がってみたがちくちくして邪魔なので無理がある。
サイズ感のちょうどいいワンピース。彼が自分をここへ連れてきたことは間違いないのだろう。子供の服のサイズは変わりやすく、特にこの時期はあっという間に成長しサイズが合わなくなってしまうのだから絶妙なのだ。
数分もしないうちに男が戻ってくる。私のスカートの裾からぴょんと飛び出たタグを無言のままいとも簡単に左右の人差し指でちぎってみせた。なかなかワイルドだ。
「行くぞ。」との前置きはあったものの、突然の浮遊感にびっくりして「わ!」という声が漏れてしまったのはしょうがないと思う。両手を脇の下に入れて私を持ち上げた男は、小さく上げたり下げたり傾けたりして抱き方を考えているようだった。その後決まったというように小脇に抱えられた拍子に「ぐえ」と声が漏れてしまい、最終的には腕に座るような抱っこで落ち着いた。俵抱きだとぴったりとくっついてしまうのでちょっと恥ずかしくなりいやいやと意思表示をすると意外にもあっさり従ってくれたのだ。
帰り際、長い脚で颯爽と歩き出したまっくろ男は「また何かあれば頼む。」と言い、思い出したように分厚い封筒を医者に渡していた。もしかしてあれってお金…もしかしてどころか確実にそうとしか見えないそれに、ぶわわと冷や汗が浮かんだ。そろりと男の顔を見上げると、ぱちりと目があった筈なのになんでもないように逸らされてしまった。ええ…
車の助手席にポンと乗せられシートベルトを装着してもらう。ありがとうと言ってみたが無視された。ひどい。
運転席に乗り込んだ男は、「それで?」と唐突に言ってくる。今度は語尾が上がっていたがなにがそれでなのか分からない。
「?」
「うまく覚えてないふりをしているということは記憶があるんじゃないのか?」
じっとこちらを見つめるモスグリーンの瞳は、感情が全く映し出されていない。
記憶障害という医者の発言を疑っているようだった。それにしても2歳児に対しての話し方のようには感じない。
「あの…わたしのこと、しってる?」
「俺を謀ったところで行く当てなんてあるのか?」
「あて…あ、なまえは?わたしの…」
「ベレッタ」
「え?」
明らかに日本の名前ではない名前にぎょっとしてしまう。え、私日本人じゃないの?なんだかんだあって鏡を見ることが出来ていないため、見た目での判断ができない。目の前の男も外人…というよりはハーフのように見える。
「わたしもみどり?」
「…何の話だ。」
「あ、えと、めが…がいじんかなって、だってなまえ…」
そう思ったことを言っただけなのに、何かが頬を滑り落ちていくのを何となく感じた。
あれ、なんだこれ、勝手に出てくる。
ぽろぽろと落ちる涙に、ごめんなさいと出てきた声も震えていた。
自分がだれか分からない。自分のことを知っているような素振りの男は何かを疑っていた。味方がいないこの状況が、こわくて、寂しくて、不安で、どうしようもない。
なんてことないと思っていたはずだったのに、一度気づいてしまうと怖くて仕方がなかった。
医者は「誘拐か」と私に聞いた。もしそうだとしたらこんな体じゃ逃げるに逃げれない。
涙の膜の向こう側に、男の困惑した顔が見えた。
分からない。分からないから、口からはごめんなさいという言葉しか出てこなかった。
黙ったままの男から伸ばされた手に、大げさに体がビクついてしまう。
その様子を見て、その手は引っ込んでいった。
静かに息を吐いたあと、男の声は驚くほどに柔らかいものに変わっていた。
「…悪かった。そうか…覚えてないのに、怖かったな。」
さっきのことは忘れてくれと言いながら、エンジンをかけた車は発進した。
しばらく運転をしていたが、緩急に合わせてぐらぐらと重い頭に振られる私を見かねて男はまたこちらに腕をのばし、私の体を自分の膝の上に降ろした。先ほどの優しい声のおかげか、今度は怖くなかったのでビクつくことは無かった。
ポンポンと頭を押さえる手に従って、遠慮なく寄りかかるとやっと体が安定する。それが分かったのか、男は言葉を続けた。
「俺は赤井秀一。FBI捜査官だ。先ほどの君に伝えた名前”ベレッタ”は、そうだな…ニックネームのようなもので、俺と君はニックネームで呼び合うくらいの関係性でな。深い仲と言うわけでもないから、本名は分からない。今回君は…事故によって記憶が曖昧になっているようで、君の細かい身元が分からないからしばらくは家に帰してやることは出来ない。もちろん探すために手は尽くす。」
探す様に紡がれたこの言葉たちは、なんとなく嘘ではないように思えた。
知り合い程度にここまでしてくれるなんて、優しい人だ。というか、FBIって言った?え、アメリカの?
「君の家が分からないし、他に身寄りも知らないとなると今後の君の身の置き場所となるが…とりあえず今、俺も安全とは言えない身でね――」
続きを話してくれているのに、男の、赤井さんの低く落ち着く声が耳と寄りかかった胸からダイレクトに響いて、なんだか心地よかった。たくさん寝て眠くなかったはずなのに、うとうととする感覚に抗えず、意識はそこで途切れてしまうのだった。