秘密の扉を開けて


気になる匂いがある。その屋敷に行くと、炭治郎はいつもそう思う。なんて言えばいいのだろうか。一見穏やかそうに感じる匂いだが、根底では、苦しそうで、助けて欲しいと訴えかけてくるような匂いだ。

「炭治郎、お茶でも入れてこようか」
「ありがとう、時透くん。大丈夫だよ」

漆黒の長髪をゆらりと揺らして、その屋敷の主――霞柱・時透無一郎は炭治郎の横に座った。2人で、戦闘の時に刃こぼれをしてしまった刃の手入れをする。静かな時間だ。太陽を克服したばかりの禰豆子もぐっすり眠っている。


随分前に刀鍛冶の里で共闘してから、2人は親しくなった。「炭治郎、僕の屋敷に来てよ」とニッコリ笑う時透に誘われ初めてここにやって来たのはほんの少し前だ。記憶が戻ってから炭治郎を気に入っている様子の時透に、何回もお呼ばれするので、ここにお邪魔する回数は意外と多い。おや、と炭治郎が思ったのは、初めて屋敷の中に入った時だ。くんくん、と鼻を鳴らし、辺りをキョロキョロと見渡す。時透はそんな炭治郎の様子に何も言わない。あれ、気づいていないのかな。不思議に思いながらも、無邪気に「僕の部屋はこっち」と笑う時透に着いて行った。時透の屋敷では禰豆子をあやしながら2人で当たり障りのない話をしたり、柱である彼に鍛錬をつけてもらったりする。時透の屋敷は、他にお手伝いのお婆さんが1人いるだけだ。大抵いつも台所から昼餉や夕餉を作っている匂いがする。随分と穏やかな屋敷は、禰豆子も気に入っている様子である。だからこそ、その匂いがいつも気になってしまうのだ。

「時透くん、この屋敷って他にも誰かいるよね?」

そう炭治郎が時透に聞いたのは、この屋敷を2回目訪れた時。気がつくと、時透はハッと目を見開いていた。別に気になったから聞いてみただけで、時透を責めてるつもりなんて、1ミリもないのに。その一瞬の表情は、見たこともないように歪んでいた。

「―――ううん、いないよ、誰も」

炭治郎にだけ見せる、穏やかな笑顔。嘘の匂いがまとわりついていて、炭治郎は言葉を失う。柱である時透は感情を隠すのが格段に上手いのに、抑えきれない苦しみの匂いが、嘘のそれに隠れている。だから、炭治郎は何も言えなかった。言うべきではないと、本能が訴えていた。


「炭治郎、司令が入ったからちょっと行ってくるね。昼餉先食べてて」

刃の手入れを終えた時透が腕を伸ばすと、その腕に鎹鴉が止まった。柱の任務の量は多い。「コノ子ダッタラ夕方マデニハ終ワルカラネ!イイ子ニシテルノヨ!」相変わらず炭治郎に対して悪意を隠さないその鴉に思わず苦笑してしまう。「適当に寛いでて。僕が帰ったら鍛錬しよう」そう言って颯爽と屋敷を出ていった時透の後ろ姿に手を振りながら、炭治郎はこちらも手入れを終えた日輪刀を手に、庭に降り立った。今日こそ、時透くんの軽やかな攻撃を躱したい――。炭治郎は心から強く思う。訓練は、どれだけしていても足りないのだ。

気がつくと、屋敷には夕日が差し込んでいた。台所からは夕餉を作っている匂いがする。先程昼餉を食べたばかりのような気がするのに、気がついたらあっという間に進んでいた時間の速さに炭治郎は驚いた。手ぬぐいで汗を拭う。そろそろ時透くんが帰ってくる頃かな……。

「お、おは、よう?」
「禰豆子、目覚ましたのか。おはよう!」

いそいそと布団の中から出てきた禰豆子が、炭治郎の傍にてくてくとやって来る。たっぷり寝たのか、表情が心做しか生き生きしているように見える。「元気になってよかったなぁ」そう笑う。

「禰豆子、時透くんも多分もうそろそろ帰ってくると思うぞ」
「か、かえって、くる?」
「あっ!禰豆子!」
「!!」

辺りを見渡した禰豆子が不意に部屋を飛び出して行った。突然の出来事に、炭治郎はその姿を追いかける。「ダメだって禰豆子! 時透くんいないんだからウロウロしたら!」大きな声で禰豆子にそう言っても、鬼である妹の速さになかなか追いつけない。「禰豆子! どこ行ったんだ!」

「…………」
「こんな所にいた! ダメだろう禰豆子、人のお屋敷だぞ」
「………」
「聞いてるのか、全く…。勝手に襖を開けてる、し…………」

禰豆子が立ちすくんでいた部屋。炭治郎はその赤い瞳を丸くした。広い屋敷の奥、目立たない場所にひっそりと。気になる匂いが、する場所。禰豆子が不用意に開けてしまった襖の奥を、ゆっくり見る。時透に申し訳ない、そう思っても、まるで引き付けられるかのように、炭治郎は部屋の奥に入っていった。

「この子…………」

薄暗い部屋の中。布団が1枚敷いてある。そこに、1人の少女が寝ていた。やけに色が白く、正気がない。しかし、生きている匂いはしっかりと分かる。儚い、小さい、そんな言葉がしっくり来るようなその少女。時透や、自分らと同い年くらいだろうか。穏やかそうに見えるが、炭治郎には分かる。気になっていたあの匂いの元は、この女の子だ。苦しそうな、匂い。どうして……。

「………炭治郎」
「っ?!」

考え事をしていたからか。それとも相手が霞柱であったからか。気配なく現れた時透に、炭治郎は言葉を失う。「あ……えっと、ごめん、禰豆子が勝手に開けちゃって……ほんとすまない!」土下座をする勢いで、時透に謝る。何も言わない彼の表情を見るために、おそるおそるその顔をあげる。そして、絶句した。

「時透くん………」
「…………」

何もうつさないかのように、目に輝きがない。怒っているのか、そう思ったけれど、そうではない。そこにいたのは、天才剣士でも、最年少柱でもなかった。ひどく泣きそうな顔をした男の子が、そこにはいた。





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