まだ世界が闇に覆われている時間帯。まだまだ朝日が昇るまでには時間がある。唐突に目が覚め、わたしはモゾモゾと寝返りを打った。
温かい体温が広がる。ゆるゆる、と瞼を押し上げると、綺麗な寝顔が見える。無一郎くん。綺麗な綺麗な死神さん。わたしにはじめての感情を教えてくれた、大切な人。
魚になりたい。
はじめてあの光景を見た時、目に焼き付けながらそう思っていた。
自由に水槽の中を行ったり来たりして、太陽の光に照らされた明るい場所で、思うように泳ぐその姿に、わたしは自分とは全くの真反対な存在だと思った。ただ普通に生まれただけだったのに、自分の意思とは関係のないところで運命が決まっていて。そういうものだ、仕方ないと諦めていた自分が、すごく惨めに感じた。
「……ん、名前?」
無一郎くんの綺麗な顔を見ながら物思いにふせてると、わたしのわずかな気配を感じとったのか、彼が身じろいだ。重たいであろう瞼をなんとかこじ開ける。出てきたのは、エメラルドグリーンの綺麗な輝き。そこに、ゆらりとわたしが映る。
「今、何時…?」
「まだまだ夜中だよ。ごめんね、起こしちゃったよね」
「ううん、大丈夫。…どうしたの?」
ふにゃふにゃの声。ゆらりとわたしの頬を彼の指先がなぞる。半分夢の中にいる無一郎くんが可愛くて、その指先に自分の物を重ねる。「怖い夢でも見た…?」優しい、優しい、大好きな死神さん。「ううん」そう言うと、安心したようにもう一度瞳を閉じた。そうだよ、怖い夢を見たの。隣にあなたがいるのに、その温もりに確かに安心していたのに、わたしは恐ろしい恐ろしい夢を見たの。
寝顔を見つめる。そうしていると、もう一度その瞳が開いた。「どうしたの?」そう聞くと、彼の口元がやんわりと和らいだのが分かった。
「…好きだなあって思ってたんだ」
エメラルドグリーンに、捕らわれる。
彼も、わたしも、夢心地のようだ。爆弾発言だけ残して今度は完全に寝に入った無一郎くんをしばらくフリーズしながら見つめていた。「わ、わたしもっ」上擦った声で咄嗟に呟いたそれは、もう彼の耳には聞こえていないだろう。もう、なんて心の中で文句を言いながら彼の頬に触れた。
あなたのエメラルドグリーンを見る度に、思っていたの。わたし、魚になりたかった。エメラルドグリーンの大きな海で、自由に泳いでるわたしは、きっとどんな女の子よりも輝いているんだろうな、そう思っていた。
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「わたし、無一郎くんの命を奪ってまで生きたくない。わたしが死ぬことは、産まれてきたときから決まっていたの」
無一郎くんを見ながら、言葉を紡いでいく。ボロボロととめどなく溢れる涙を拭う暇もない。伝えないと、いけない。絶対に止めないといけないことだから。
「そんなことしてほしくない。無一郎くんの命を使ってまで生きることに、なんの意味もないんだよ。わたしのお願い、聞いてくれるんでしょう? 無一郎くんと生きることができないなら、わたしはあなたの隣で死にたい。お願い、叶えてよ。無一郎くんはそのためにわたしの所に来てくれたんでしょう…?」
朝靄に包まれてる上、涙で視界が悪い。無一郎くんがどのような表情をしているかが分からない。上手く伝えられてるかなんて、わたしには分からない。でも、それでも伝えるしかないんだ。
夢に出てきたみんなが、わたしに伝えてきたのだ。救ってほしい。この、本当に本当に、やさしすぎる、死神さんを。何百年も積み重なってきた、苗字家の願い。呪いでも、運命でもない。みんなが次へ次へと託してきた。託されたものを、大事にしたい。目の前の優しすぎる彼を、大事にしたい。叶えたいことが増えすぎてしまった。ワガママなのは百も承知だ。でも、こんなわたしのどうしようもないところでさえ、あなたは優しい愛で包んでくれたから。だから、あなたのためなら、命だって、いくらでもくれてやる。
「わたしは自分の運命を受け止める。誰かの運命をねじ曲げてまで、叶えたい願いなんてない。無一郎くんは無一郎くんのやるべきことをやってほしい」
「あなたを守りたいの」
「無一郎くんに生きててほしい」
朝靄が晴れて、太陽が射し込む。キラキラと輝いた川辺で。涙の狭間で、ようやく彼の顔が見えた。エメラルドグリーンが、わたしを見据える。――ああ、きれい。この瞳が、世界で一番大好きなんだよ。くしゃり、その顔はひどく苦しそうで。彼も大粒の涙を零していた。「名前」大好きな声で、わたしの名前が一度紡がれる。その涙を拭ってあげたい。彼が、苦しい思いを二度としないように。「やめてよ」その口がそう言っているように見えたけど、気が付かないふりをした。
ねえ無一郎くん。わたしが憧れた魚はね、結局水槽の中でしか生きられないんだよ。見に来てくれたお客さんを楽しませるために、日の入り方まで計算された水槽の中を、人工的に作られた輝きに包まれながら、泳いでいるの。わたしは魚たちに憧れた。自由に憧れた。でも、そこには本当の自由なんてなかったんだよ。それでも、限られた世界の中で懸命に泳いでいるんだよ。決められた運命の中にも、自由はあるんだと気がついた。だからわたしは、魚になりたかったの。