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手の中のカップはまだ温かくて、そのぬくもりだけが、今の自分を現実につなぎとめている気がした。
もし何も持っていなかったら、溢れてくる記憶と感情に、そのまま呑まれてしまっていたかもしれない。
胸の奥はひどく熱かった。
泣きたくなるほどのやさしさも、今さら気づいてしまった愛しさも、全部いっぺんに押し寄せてきて、うまく息ができない。
キルアは少し離れたところに立ったまま、少女を見ている。
必要なら支えられる距離で、じっと待っている。
その待ち方が、もう痛いほど分かる。
昔の彼なら、きっともっと早く手を伸ばしていた。
大丈夫かと何度も聞いて、答えを急いで、安心できる形をすぐ欲しがっていたかもしれない。
怯えが全面に出てるような、ただただ手探りだったあの頃。
でも今は違う。
自分が言えるまで待ってくれる。
自分の足で立って、自分の言葉で戻ってくるのを、ちゃんと信じて待っている。
その変化を知っている。
知ってしまったからこそ、胸がいっぱいになる。
少女は震える息を吐いた。
涙が頬を伝うけれど、もうそれを恥ずかしいとは思わなかった。
今ここで泣いているのは、弱いからではない。
戻ってきたものがあまりにも大きくて、抱えきれないだけだ。
「……思い出した」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
その瞬間、キルアの肩がほんのわずかに揺れた。
張りつめていた糸が、切れる寸前でどうにか持ちこたえたような、そんなかすかな揺れだった。
それだけで、分かる。
彼がどれだけ長く、この瞬間を待っていたのか。
どれだけ怖くても、口にせずに飲み込んできたのか。
少女はカップを抱えたまま、ゆっくり続けた。
「もしかしたら、全部じゃないかもしれないけど……でも」
喉が詰まる。
言葉にしようとするたび、胸の奥が痛んだ。
それでも、今はちゃんと伝えたかった。
「わたし、覚えてる」
力がなくなった自分の存在を肯定してくれた言葉。
わざと響かせてくれた足音。
怖い夜に、そばにいてくれたこと。
言いたいことを飲み込んで、それでも必死に守ろうとしてくれたこと。
少しずつ、選び直してくれたこと。
その全部を、少女は胸の中で抱きしめるみたいに思い出していた。
そして、その瞬間。
ばらばらだった感覚の中心に、ようやくひとつの名前が戻ってくる。
少女――ナマエは、ゆっくりとキルアを見上げた。
記憶の中の彼と、今目の前にいる彼が、ようやくひとつに重なる。
ずっとそばにいた人。
ぶっきらぼうで、不器用で、でも何度でも選び直してくれた人。
自分が自分を失いそうなときも、帰る場所を閉じないでいてくれた人。
胸がまた熱くなる。
「怖かった夜も、ちゃんと覚えてる」
ナマエはぽつりと零す。
それは説明というより、確かめるための言葉に近かった。
彼がどれだけ自分のために変わろうとしてくれたのか、それが分かった今だからこそ、伝えたかった。
「でも、キルアも……怖かったよね」
その一言に、キルアが目を見開く。
ほんのわずかに、息が止まる。
図星を突かれたから、というだけではない。
たぶんそれは、ずっと隠してきたものに、ようやく触れられてしまった顔だった。
「わたしを怖いものから守ろうとしてくれて……でも、どうしたらいいか分からなくて」
ナマエの声は震えていた。
でも、もう止まらなかった。
「ずっと、必死だったの……今なら分かる」
キルアの喉が小さく動く。
何か言いかけて、でも言えないまま、飲み込んだのが分かった。
その沈黙の中に、隠しきれない動揺があった。
ナマエは少しだけ笑おうとして、うまくできなかった。
涙のせいで、表情は歪んだままだ。
「でも、苦しくなかったよ」
静かな声だった。
言いきかせではなく、本心から出た声。
「泣いちゃうくらい、まっすぐだったから」
その言葉に、キルアの睫毛がかすかに震える。
「近くにいてくれることも、離したくないって思ってくれることも……ちゃんとうれしかった」
ナマエはしっかりとキルアを見る。
「いっぱい寄りかかっちゃってごめんね」
一度、涙を拭う。
「今なら分かるよ」
キルアが、ほんの少し目を伏せる。
「あの頃のキルアも、ずっと必死だったんだよね」
「……うん」
「守りたかったんだよね」
それだけ言って、ナマエは泣きながら笑った。
扉の前で一拍置くこと。
無理に踏み込まないこと。
でも、必要なときには必ず届く場所にいること。
それは、彼がくれた、大きな愛だった。
「……ありがとう」
言い切った瞬間、ナマエの目からまた涙が落ちた。
でも今度の涙は、ただ苦しいだけのものではなかった。
キルアは何も言えないまま、ナマエを見ている。
泣きそうなのに、泣くまいとしている顔。
今ここで自分が崩れたら、ナマエの言葉を受け止めきれなくなるとでも思っているみたいに、ぎりぎりのところで堪えている顔。
そんな彼を見て、ナマエは胸の奥にある最後の言葉を、そっと抱えた。
これを言えたら、たぶん本当に戻れる。
記憶だけじゃなく、自分自身も。
喉が震える。
胸の奥が詰まる。
言いたいのに、言葉にしようとすると涙が先に溢れそうになる。
それでも、逃げたくなかった。
「わたし」
カップを持つ手に、少しだけ力が入る。
指先が震える。
たったそれだけの言葉の続きを言うのが、どうしてこんなに苦しいのか分からなかった。
「忘れてても、帰りたい場所は何にも変わらなかった」
不安だった時間も、記憶のない時間も、帰りたいと思った時間も。
全部、自分の一部だ。
「あのね」
ナマエは涙で滲む視界のまま、キルアを見つめる。
ちゃんと見て、ちゃんと届けたかった。
この人がずっと待っていてくれた言葉を、今度こそ自分の意志で返したかった。
「キルアの隣に、帰ってきたかったんだよ」
その一言に、キルアの表情が大きく揺れた。
息を呑む音が、静かな部屋に小さく落ちる。
目を逸らすこともできないまま、ただまっすぐナマエを見ている。
きっと何より聞きたかったはずの言葉。
でも彼は、自分からは言わせなかった。
怖くても、苦しくても、ずっと待っていた。
そのことまで伝わってきて、ナマエの胸はまたいっぱいになる。
震える唇で、最後の言葉を口にする。
「……ただいま」
静かな部屋に、その声が落ちる。
たった一言。
でも、それは二人の中でいちばん長い帰還だった。
記憶を失う前の自分へ。
記憶を失ってからの自分へ。
そして、キルアのいるこの場所へ。
全部に向かって、ナマエは今、ようやく帰ってきたのだ。
キルアの青い目が揺れた。
堪えていたものが、もう隠しきれなくなったみたいに。
次の瞬間、睫毛の縁に溜まっていた雫がひとつ、頬を伝って落ちる。
泣き顔を見せまいとするみたいに、少しだけ俯いたけれど伏せたその瞳から、涙が床に落ちるのだけは、どうしても止められなかった。
「……おせーって」
ずっと待っていた。
ずっと怖かった。
戻ってきてほしいと願いながら、もし戻らなかったらという想像も、何度も飲み込んできた。
その全部が、たったひとつの言葉でほどけてしまったのだと分かる。
「おかえり」
返してくれたキルアの声は、ぶっきらぼうなままなのに、どうしようもなくやさしかった。
この言葉が、どれだけ待たされていたのか。
どれだけ何度も、心の中で繰り返されていたのか。
今度は、意味が分かる。
ナマエは泣きながら、小さく笑った。
その笑みはまだ不安定で、涙に濡れていたけれど、確かに今まででいちばんやわらかかった。
ほどけた先で、やさしく結び直されたものがあった。
大切な居場所へ、帰ってきた。
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