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胸の奥に沈んでいたものが、ひとつずつ浮かび上がってくる。

眠れない夜の心細さ。
ひとりでいるには少し広すぎる静けさ。
扉の向こうに人の気配があるだけで、少し息がしやすくなったこと。
足音が近づくたび、胸の奥の強張りがほどけていったこと。
 
少女は息を詰めた。
 
カップを持つ手が震える。
熱いはずのぬくもりが、今はひどく遠い。
胸の奥で開きはじめた扉の向こうから、次々に感情が流れ込んでくる。
 
怖かった夜、不安で眠れなかったとき、何も言えないまま、ただ気配を探していた自分――そのそばに、いつもキルアがいた。
 
断片が、繋がる。
 
最近になって、ようやく気がついた。
最初の頃のキルアは、守るというより、離さないことに必死だった。
 
自分の不安を押し殺せず、少女の呼吸より先に、自分の恐れで動いてしまうような危うさ。
失いたくない気持ちがそのまま触れ方に滲んでしまうような、不器用で切実な執着。
 
それはきっと、愛情と恐怖がまだうまく分かれていなかった頃のもの。
守りたい気持ちと、失いたくない気持ちが、まだ同じ熱を持ったまま、まっすぐ表に出てしまっていた。
 
少女の目の奥に、いくつもの場面が滲む。
 
ひとりにしないために、理由を探してでもそばに置こうとする不器用さ。
大丈夫かと聞きながら、自分のほうが全然大丈夫ではない目。
安心を得るために、行き先を先回りする背中。
触れる手のひらに滲む、言葉にならない焦り。
 
ああ、と少女は胸の奥で思う。
 
あの頃のキルアも、ずっと必死だったのだ。

守りたいのに、どう守ればいいのか分からなくて。
そばに置きたいのに、それが相手を縛ることと紙一重だと、たぶんどこかで分かっていて。
それでも怖くて、手放せなかった。
 
けれど、少女は一度だって苦しくはなかった。
そこにある想いそのものが嫌だったことなんて、一度もない。
近くにいてくれることも、離したくないと思ってくれることも、ちゃんとうれしかった。
 
記憶はさらに繋がっていく。
 
そこから少しずつ変わっていったこと。
最初から上手くできたわけではない。
何度も迷って、何度も立ち止まって、それでもキルアは選び直してきた。
 
無理に閉じ込めないこと。
不安をそのまま相手に押しつけないこと。
“守る”を理由に、相手の選ぶ余地を奪わないこと。
 
その変化は、劇的なものではなかった。
ほんの少しずつだった。

自分の手で全てを整えることはせず、でも届く場所には必ずいること。
ぶっきらぼうなまま、相手が息をしやすい距離を覚えていったこと。
 
それら全部が、愛情だった。
 
少女はそこでようやく気づく。
記憶がない自分がこれまで感じていた安心は、偶然そこにあったものではない。

キルアが何度も迷って、何度も選び直して、積み重ねてきたものだった。
 
その事実に、痛いくらいに胸が熱くなる。
 
彼がくれた数えきれないほどのやさしさを、思い返す。
記憶が無くなった後も、二人の日常を守るように、そばにいてくれたこと。
眠れないときに、安心できる距離を自分に委ねてくれたこと。
自分が自分を見失いそうなとき、うまく言葉にできなくても、そこにいてくれたこと。
 
その間、彼はどんな思いだったのだろう。
どれほどの思いを飲み込んできたのだろう。
 
それは派手な愛情ではない。
でも、何度も繰り返されてきた、確かな愛だった。
 
少女の頬を、静かに涙が伝う。
 
視界の端で、キルアがじっとこちらを見ている。
心配そうで、でも不用意に声をかけずにいる顔。
その表情さえ、もう知っている。
何度も見てきた。
何度も、自分のために思いを飲み込み、曇らせてきた顔だ。
 
少女はカップを持ったまま、ゆっくりと彼を見上げた。
 
記憶が戻った。
全部ではないのかもしれない。

でも、大事なものはもう繋がっている。
 
怖かった夜。
そのそばにあったキルアの執着。
あたためたいと願った傷だらけの手。
そこから少しずつ変わっていったこと。
積み重ねられてきた愛情。
そして、自分が帰ってきたこと。
 
全部が、一本の線になる。
 
少女の唇がかすかに震える。
何か言いたいけれど、まだうまく言葉にならない。
 
ただひとつ、胸の奥で確かなことがあった。
 
前の自分と、今の自分は、もう切り離された別人ではない。
不安だった時間も、帰りたいと願った時間も、全部自分のものだ。
ここへ戻ってきた自分が、自分なのだと分かる。
その実感が、涙と一緒に静かに胸へ満ちていく。
 
そして同時に、どうしようもなく思う。

この人は、ずっとここにいてくれたのだと。
 
自分が思い出せなくても。
自分が揺れていても。
帰ってこられるか分からない時間の中でも、ずっと。
 
そう思った瞬間、少女はようやく知る。
自分が取り戻したかったものは、記憶だけではなかったのだと。
 
帰りたかったのだ。
この人のいる場所へ。
ずっと、ずっと。






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