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 ハイエロファントグリーンの結界に入ったDIOをたしかに仕留めたと思った。しかしつぎの瞬間、ぼくの腹はほんの少し抉られていて、いつの間にかぼくの前には、ナマエさんがいて、二人で吹き飛ばされてしまって、身体は貯水庫に勢いよく衝突し、ずるりと屋上に落ちた。生温かい液体に、ぼくは濡れていた。ぬるりと滑る肉がぼくの手に触れる。とてつもない痛みが襲うのを、瞼をぐっと瞑って、こらえた。


「ヴぃ、と」


 か細い声がした、痛みがすっと消え、身体の中から何かが出て行く感覚が止まる。目を開く。ぼくの上には倒れこむナマエさん。笑っていたけれど、その顔はすこしいびつだった。ナマエさんからは血がたくさん出ているように見えて、けれどナマエさんはそもそも血をかぶってしまっていて、これが彼女の血なのか、ぼくはどうしたらいいのか、とても混乱した。


「ナマエ、さん……?」

「……わたし、なら、大丈、夫。そんなこと、より、わかった……?」


 ナマエさんの言いたいことは、DIOの謎のことだろうと脳をフル回転させた。ぼくの「法皇」の『結界』は、触れるものが手に取るようにわかる……だが…今…『結界』はディオに全部一度に、同時に切断された…!? なぜ!? なぜ一本一本ではなく…少しの時間差もなく、一万分の一秒の差もなく、半径20mの『結界』は「同時」に切断されたのか? なぜ…? 少しの時間差もなく…時間差…時間…時間……「時」、? ──理解したと同時に、とんでもない怖気がした。


「DIOの、能力は、…『時間を止めること』…ですか…?」

「……、さあ、みんなに、教えて、あげないと」


 教えなければならない、けれど、ぼくの身体はどうにも動きそうになかった。腹をこれだけ抉られたのだ。あるいは臓器が零れ落ちそうなのかもしれない。どうにかして、教えなければ。ぐるぐると周りを見渡して、目についたものは、大きな時計台だった。エメラルド・スプラッシュを構える。狙え、それくらいは、やってみせろ。ものすごい破壊音と共に、時計が壊れた。──伝わって、ください。そう、真に願った。もう動けそうもないぼくは、願うことくらいしかできなかった。
 ナマエさんの右手に力が入り、起き上がろうとしていることがわかった。ぼくは静かに彼女を見守っていた。


「……花京院くん、意識、失わないよに、ね。財団の人、来てもらうように、言うから」

「ナマエさ、……」


 言葉は続かなかった。ナマエさんの怪我は、ぼくよりよっぽどひどかったからだ。ナマエさんは手首から先のなくなった左手を見て、あちゃあ、と明るく笑う。ばれちゃったね。そんな笑みだった。何もおかしいことなんかないのに。動かないでください、そう言おうと口を開いたぼくの頭を、残った右手で撫でてくれた。


「わたし、ちょっと、行ってくるね」


 そうしてふらふらとした足取りをヴィトに助けてもらいながら、ナマエさんは去っていこうとした。それを認められなくて名前を呼んだ。叫ぶように、泣きながらこどものように行かないでくれ、と。ナマエさんは振り返って、とても綺麗に笑った。


「だいじょうぶ」


 ぼくは、大丈夫なわけがないことをよくわかっていた。だけどナマエさんが何よりも優しい笑みでそう言うから、信じることも出来ないくせに、ただ、頷くことしかできなかったんだ。例え、彼女の腹の向こうの景色が覗かせていようとも。
 きっとこれほど悔やむ日は、二度と来ない。









 終わった、ようやくだ。時を止められることがわかったDIOと真っ向から対決し、じじいも死に掛けてはいるが、いまSPW財団を呼んだ。うまくいけば助かるかもしれねえ。ゆっくりと近づいてくる足音が聞こえて、振り返る。


「……勝ったん、だね?」

「ナマエ! 無事だったのか……ッ!」

「あは、あのね、花京院くん、けが、してるから、貯水庫の、屋上。ヘリ、よんであげて」


 ナマエはいつものように笑い、大きくへこんだ貯水庫のある屋上を指さす。おれは頷き、電話をかける。SPW財団の返事を聞いて、ナマエに向きかえった。この暗い中、しかも元々血を被っていたためわかりづらかったが、動きと声がいつもと違っていたためナマエも怪我がひどいように見える。それにしてもDIOの野郎がナマエを殺してやったなんて言うから、本気で心配したと言うのに……。よかった、本当に。
 不意にどこからかヴィトが現れた。何か赤いものを詰め込んだビニール袋を持って。それがなんなのか、気にならないわけではなかったが、ちょうどいいタイミングでSPW財団の車が到着した。DIOの死体とじじいの死体を急いで乗せ、おれも乗り込む。しかし、ナマエだけはぼうっとその場に突っ立っていた。早く来い、そう急かすと、ナマエは困った顔で首を振った。


「いけ、ない」

「ッ馬鹿野郎! 何言ってんだ……てめーだって、酷い怪我だろうが!」

「うん、そうなの、だから、」


 いけない。腹を隠すようにしていた手を持ち上げて、へにゃりと力なく笑った。身体の真ん中にぽっかりと穴が開いていて、ちぎれた臓器がだらしなく垂れ下がって、穴の周りの服は染みこんだ血でぐしゃぐしゃで、仕舞いには左手がなかった。こんなひどい状態の人間を、おれは見たことがない。生きているのが不思議なくらい、死んでいないのがおかしいくらい、ナマエはぐしゃぐしゃでぼろぼろだった。


「みえ、る?」


 ああ、向こうの町並みまでしっかりな。そう軽口を叩いてやることは、おれにはできなかった。喉の奥から迫り上がってきた嗚咽が、言葉を発することを拒否したのだ。自分でも驚くほど無様に涙が流れる。息をするたびに腹の奥がずきずきと、じくじくと痛んだ。
 崩れ落ちそうになる身体を動かして車から飛び出した。ひどい状態のナマエを無理に抱きしめ、行くなと言うと、ナマエが笑っておれの頭をいつかと同じように撫でる。温かいと、思った。ナマエは生きている。まだ、生きているというのに……!


「なきむしだなあ、」


 ふふ、かわいいねえ。そんな軽口を叩くナマエはいつもと変わらない。変わっていいはずなどない。それでもナマエはどう見ても助かりようのない怪我を負って、おれの前からいなくなろうとしていた。ナマエが小さな声でおれに言葉を呟いた。
 ありがとう、おめでとう、あとごめんね、みんなには帰れそうもないってごめんなさいって大好きだって伝えて、お母さん助かってよかったね、大丈夫だよジョースターさんなら助かるよ、きっとみんなも無事だから。ねえ、旅は楽しかったよ。命を狙われたり、痛い思いしたり、散々だったけど、それでも本当に楽しかったよ。身元もわからないわたしを迎えてくれて、どこかおかしいわたしを必要としてくれて、本当にありがとう。──わたし本当に幸せだったの。一緒にいきたかったなあ。
 ナマエは一滴も涙を流さなかった。でも声は血で湿っぽく、ひどく聞き取りづらくて、泣いてるようだった。おれにだって伝えたいことが山ほどあった。ひどく泣いていたおれはそれを言葉にする術を持たなかった。言葉の変わりに酷いことしか言わない口を塞いでやった。そうせずにはいられなかった。驚いた顔のナマエが笑う。少し泣きそうだけれど、一等に綺麗な顔だった。
 ヴィト。ナマエの声に反応して、白いスタンドはおれに恭しく礼をすると、消えた。まるで初めからそこに存在していなかったかのように、立っていたはずの場所にはナマエの血の一滴さえないほど、綺麗に消えてしまった。おれの服に残っているべき血のあとも、口の中に広がった最初で最後の血の味も。初めからミョウジナマエなんて人間はいなかったのだとでも言うように──何も、残らなかった。
mae ato

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