01
 ──ああ、これは、夢だ。

 すぐにそう気がついた。自分が夢を見ていることに。最近はこの夢しか見ない。夢と思えないほどの悪夢をだ。まるで忘れるなとばかりに。まるで無力な己をどこまでも行き着く先がないほどに恨んでいるかのごとく。ぼくは家の廊下を機械のようにされるがまま、歩き、二階を目指す。新築の家がきしきしと音を立てることはなく、ただぼくの足音だけが谺する。ここにはぼくしかいないのだと知らしめるように。階段を上りきると、また少し廊下を歩く。そしてぼくは足を止める。これ以上は進めない。突き当りの部屋のドアの隙間、月明かりが漏れている。きいきいと音を立てて独りでにドアが開いていく。向こうに人間と、それを象徴するものが見えた。さめざめと泣く人間に象徴が寄り添う。口が形を作る。「    。」象徴もそう動かして、笑っていた。必死にもがこうともぼくの身体は動きはしない。口を動かしても声は発せない。届かない。ぼくなど、届きはしない。「   、」呼べない名前を幾度も叫んだ。喉の奥が裂けても。象徴はぼくを見る。高らかに笑って………消えた。そこには何も残さない。まるで最初から存在などしていなかったかのように。ぼくは泣かなかった。泣けるはずもなかった。記憶が蝕まれていく。呼びたい名前を思い出せない。拭いたい涙を伝う顔を忘れた。そうしてぼくは、何事もなかったかのように仕事に戻る。そして、ドアを開いて崩れる涙腺。事の次第を理解できないぼくは自分にただ戸惑うだけ。それだけだ。何も思わない。自分の涙を拭って、椅子に座り、机に向かい、ペンを持つ。もう泣いたことさえそれが当然なのだとばかりに頭の中から掻き消える。だってそうだろ。──きみのいた証など、元よりどこにもないのだから。









 勢いよく飛び起きる。ドクドクとうるさい心臓を意識して、左胸を押さえた。頭の中に張り付いたままの夢が現実と混ざっているような気がした。辺りを見渡し、自分の立ち位置を確定する。ここは……自分の寝室で、ぼくはベッドで寝ていた。
 真夜中。しんとした冷たい空気が、ゆっくりとぼくに突き刺さる。ベッド横の小さなテーブルに置かれた真っ白な薬袋に舌打ちした。夢も見れないくらい、泥に埋もれるように、ぐっすり眠れるんじゃあなかったのかよ、あのヤブ医者めッ! はっきりと冴えた眼では、今日はもう眠れそうもなかった。寝ても覚めても脳を支配するあの光景に、吐き気がした。あいつが勝手にいなくなったこと。それだけじゃない、自分がそれほど他人に入れ込んでいたということにだ。このぼくが得体も知れなかった女にここまで掻き乱されていると言うこと。
 ……馬鹿らしいじゃないか。突然現れたように、突然消えることを、想像していなかったわけじゃない。そしてそれを望んでいた。四月には出て行く予定だった。そしてそれも望んでいた。だけど。それでも。──これ以上深く考えるのはよそう。

 ぼさぼさになった髪を手櫛で梳かし、悪夢でかいた嫌な汗を流して、仕事に没頭してしまえばいい。そうして疲れ果てて、そこらへんに転がれば、きっとあんな夢も見ない。風邪は引くかもしれないが、誰に迷惑をかけるわけでも、誰に心配をかけるわけでもないのだから。まずは風呂だ。多少なりとも気分転換にはなる。真夜中に湯船を掃除する気にはなれないからシャワーだが、それでも、汗を流せば悪夢まで落ちる気がした。
 暗い中階段を降り、廊下を歩く。仕事場のドアが開きっぱなしになっていたことに気づき、頭を掻いた。いつもならそんなことはあり得ない。きっちりとしたぼくが、開けっ放しだなんて。ため息をついて身体を仕事場に滑り込ませた。

 空気は冷たい。机の前の窓は、明るすぎる月明かりを部屋にもたらしている。机の上には書きかけの原稿がある。どれも今の自分の気分と大差ない、陰惨で陰鬱としたストーリー。果たしてここから抜け出せる日が来ると言うのか。笑ってしまう、岸辺露伴ともあろう人間が、この様かと。
 だけど、そのうち忘れるのだろう。そんなこともあったと、思い出したくもないと、そんなふうに吐き捨てるだけの、些細な出来事に。……息をすると、肺が冷えた。

 ──どしゃ、

 静かに音がした。一瞬で頭を支配したあいつを思うと、振り返るのが、すこしこわかった。疲れた脳の考えた幻聴だったなら? 普段ならば絶対に想像もしなかったことを、弱りきった自分では簡単に考えてしまう。自嘲。向き合わねばならない。息を小さく吸って、振り返る。


「っ! ………ナマエ、か?」


 部屋の端に、人影が見えた気がした。月明かりの届かないそこは、たしかに何かがいる。今度は幻覚だなんて思わなかった。駆け寄り、見下ろし、今度は言葉を失った。左手がない、腸などが詰まっているべき場所がごっそりと抜け落ちている。そして間違いなく、ぼくの知るミョウジナマエであった。


「……ナマエ、これは、どういうことだよ…ッ!」


 ぼくの震えた声に返されるのはか細く浅い息だけで、言葉にはならない。口からも血が溢れ、どうしようもない状況にしか見えなかった。触れればまだ体温を感じる。ぬめりのある血液がぼくの手にまとわりついて、どうすることもできない。嗚呼、嗚呼、嗚呼、こんなことを望んでいたわけでは、ないのに。うずくまることしかできないぼくの前に白いものが現れた。マリア像のようなそれは、陶器のように見えるのに口を動かして泣きそうな声で、叫ぶ。


『助けてください、お願いします! ナマエを助けてくださいッ! ぼくじゃあダメで……、お願いです……ナマエを、助けて……っ』

「……そう、だよな、まだ、生きて………ッおい! 今から仗助を呼んでくる! 死なせるんじゃあないぞ!」


 立ち上がりバイクのキーを持ち上げると、上着を羽織ることもなく外へと駆け出した。死なせてなんか、やるものか。
mae ato

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