05
「本当に、ありがとう。露伴ちゃんがわたしを見付けてくれなくても、仗助くんがわたしを治してくれなくても、わたしは死んでた」


 座ったままではあったが、しっかりと頭を下げたナマエはいたって平静だった。ありがとう、と言葉を繰り返すナマエに向けられるべき疑問を、発するか否か、仗助とぼくの間にそういう空気が漂った。あんなことをしてしまったあとだからこそ、躊躇う気持ちがある。
 だがあの時と今、圧倒的に違うものがあった。ナマエはあの時のように内心取り乱しているわけでもなく、既に一晩が経ち、落ち着いているということだ。


「何が、あった?」


 あの時とは違うのだと、聞くべきだとそうぼくは判断した。仗助も元よりそのつもりだったのだろう、ぼくに反論することもなくナマエをまっすぐに見詰めている。ナマエはすこしだけ困ったように笑みを浮かべる。それからすこしの間を持って、たどたどしくではあるが話し始めた。


「その……わたしね、中東とかにいたの」

「中東…!? ど、どうしてそんなところに? 家に帰ったんじゃねーのか?」

「もしかして露伴ちゃん、誤魔化してくれてた?」

「……ああ」


 いつか戻ってくるかもしれない。そう思ってしまった自分がいて、いなくなった事実を誤魔化すように、ナマエは実家に呼び出されて帰ったのだと後から告げていた。だけど本当は、心のどこかで、元いた世界に帰ったのだと思っていた。
 それだけに中東は、ぼくにとっても予想外だったのだが。ナマエは、ぼくにもう一度礼を言ってから、話を再開させる。


「あのね、あんなことがあって、気が滅入ってたの。暗鬱としてたら……気付いたら全然違うところに居て、わたし、スタンド使いでしょ? だから……なんて、言ったらいいのかな……争い、闘い……そんなものに介入しちゃって」

「……それで、あんな、傷を?」

「うん……殺しに発展してしまった、というか、向こうは初めからこっちを殺す気、だったんだけど。避けられなくて、やられちゃってね。それで仗助くん助けて!って思ったら戻ってこれたの」


 ナマエは、そう笑った。あんな怪我を昨日はっきりと見ているのにも関わらず、まさかナマエが闘いなんてものに巻き込まれていたなど微塵も思いもしなかった。ナマエはそんなことを話す今でも、取り乱すこともなければ、思い出して身体を震わすこともなく、至って平静に苦笑してみせる。その様が余計に、ナマエを暴力とはかけ離れた存在として定義していく。
 だが、明るい室内でならわかる。ナマエは昨日の左手や腹だけではなく、顔や首など小さな傷が見える。右手の甲には、はっきりとした縫い痕や火傷の痕まであった。長袖の下にはもっとたくさんの傷がついているのかもしれない。顔を歪めたその時、左手の裾からちらりと白が垣間見えた。仗助もぼくとほぼ同時に気付いたようで、ナマエの左手を凝視した。包帯だ。ナマエは見つかっちゃったね、と困ったように笑う。仗助の震えた声が耳に響いた。


「まさか……治って、ないのか?」

「治ってないっていうか……うーん、パーツがほんのちょっと揃わなかったの。仗助くんのせいじゃないよ」


 ぼくたちのあまりの視線に耐えかねて、ナマエが解いた包帯の下は、ガーゼが二重に止まっていた。血がすこしだけ染みているようだ。苦しそうな顔をする仗助に、ナマエは慌てたように左手を振って見せる。それだけ振れるのならそこまでひどい状態ではないのだろう。


「大丈夫だって! ほら、ほとんどくっついてるし、皮膚が足りなくて出血がまだ止まらないだけだから」

「腹も、大丈夫なのか? 病院に行った方が……」

「本っ当に大丈夫だから! お腹も擦り傷程度の、ちょっと皮膚が足りない程度だし。ま、お風呂入ったら染みそうだけどね」


 あははと冗談交じりに笑ったナマエは、昨日とは比べ物にならないくらい元気がいい。どう見ても具合が悪そうには見えず、仗助は謝りながらも引き下がった。自分の手首だと言うのに、解いたばかりの包帯を器用に巻き付けると、ナマエは姿勢を正して真剣な顔をした。思わず自分の身まで引き締まり、背筋をぴんと伸ばした。


「二人にお願いがあるの」

「お願い?」

「他のみんなにもいなかったときのことを話すことになると思う。そのときは『わたしは実家に帰ってる間に交通事故にあって、とっさに露伴ちゃんの家に飛んで、助けてもらった』って言うつもり」


 仗助は驚いたように、目蓋を開閉させていた。ぼくもすこしは驚いたが、言わんとしていることはよくわかる。今そんな話をするということは、間違いなく口裏をあわせてほしいということなのだろう。驚いている仗助も元々誰にも連絡せずにここに来たのだろうから、昨夜のうちからなんとなく口外すべき事実ではないことを感じ取っていたのかもしれない。


「わたしはただでさえ、心配かけてるみたいだから、無駄な心配は、かけさせたくない」

「……わかったよ。仗助も、それでいいな?」

「……ああ、気持ちはわかるから」


 ふたりで頷けば、ナマエは頭を下げてもう一度礼を言った。心配したのは事実だ。その上そんなことが会ったと聞けば失神するくらいのやつが出てきても仕方ない。昨日の惨状を見ていないだけマシと言えば、マシか。……ちらりと時計に目線を向け立ち上がると、ナマエと仗助の両方から目線が向けられた。


「とりあえずナマエは身体を休めろ。仗助、お前は明日集まるようにやつらに声をかけといてくれ」

「ああ……そうだな。じゃあ、おれ、帰って他のやつらに連絡入れるわ」


 部屋を出ていく仗助にナマエが左手を振ってまた明日と笑った。ナマエもさっさと部屋で寝てこい、と告げようとしたぼくに、じいっと目線が向けられる。至極真面目な表情でぼくを見ていて、思わず身構えてしまった。


「露伴ちゃんにはあと一つ、お願いがあるんだけど……」

「……なんだよ」


 仗助の前では言えないような話なのかもしれない、と微かに緊張したぼくの前に差し出されたのは、猫だった。思わずぽかんと間抜けな顔になる。スマートな猫は色素の薄い毛と瞳を持ち、ぼくを不遜な表情で見ていた。猫にしては美しさと気品を持っていると言ってもいいだろう。しかしぼくは猫が嫌いだ。そのそもそも好きではない猫の中でもダントツに気にくわない顔をしている猫。なんだってこんなところに猫がいるんだ。思わず眉間に皺が寄る。


「あの、一緒に連れてきちゃったみたいで……飼っても……」

「はあ!?」

「あの! わたしの部屋から一歩も出さないから! 絶対に!」


 ナマエの申し訳なさそうな声は、とても断りづらい。猫は不快感丸出しな顔をして暴れていたが、部屋から出さないという条件付きでぼくは頷いた。ナマエはイエスと聞くとあからさまにほっとした様子を見せ、ソファに腰をおろしてコーヒーを飲み始めた。ぼくはその光景を受け入れそうになったが、はっとして身体を休ませろと二階へ追い払う。暴れる猫を抱えてリビングを出ていこうとするナマエ。その背中に、思わず声をかけた。


「向こうに、心残りは」


 ないのか、と最後まで言い切る前に振り向いたナマエは、その質問に対する回答として曖昧に、ただいま、と微笑んでみせた。
mae ato

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