prologue


ニューヨークのとあるスラム街。
夜更け、ネオンの灯りが消え闇に染まる路地裏を男は駆けていた。

どこかの酔っぱらいが吐いたのだろう吐瀉物を上等な革靴で踏みつける。
料理店のゴミ箱をぶちまけ、ブランド物のスーツを汚す。
それでも男は懸命に、時折後ろを気にしながら、必死の形相で駆けていた。

そう、男は逃げていた。

その夜、男はいつものようにバーで女を捕まえて一夜を過ごそうとしていた。
バーテンダーに酒を頼み、カウンターから女を物色する。すると一人の女に目を引かれた。
金髪でグラマラス、顔は悪くなく、控えめな仕草。そのどれもが男の好みだった。

「(決めた、今日はあの女にしよう)」

そう決めた男の行動は早かった。
甘いマスクと言葉で女を陥落した男は、慣れたようにホテルへの向かおうとしていた。
だがその途中、男の我慢が利かず女を路地裏で「味見」していたのだ。

自堕落で爛れた生活、それが男の日常だ。
だが、それもここまでだった。

男が異変を感じたのは直ぐだった。
「味見」をしていた女の味が急に鉄錆のようになったのだ。
驚いた男は女から離れ様子をうかがう。すると女は口から血を流し、人形のように倒れた。
倒れた拍子に頭が外れ、あらぬ方向に転がっていく。

男は絶叫した。先程までそばにいた女がわからぬままに死んでしまったのだから。
突然起きた異常事態に恐怖した男は叫ばずにはいられなかった。
恐怖に思考を埋め尽くされた男はこの場から逃げようと踵を返す。

だが逃げられなかった。
男が来た道に「それ」がいたのだ。それもまるで男の退路を塞ぐかのように。
大きな爪をもった、形容しがたき何かがそこにいた。
その爪は先程殺した女の血で怪しく濡れていた。

「それ」を見た瞬間男は悟った。こいつが女を殺したのだと。
そして男は理解した。次に殺されるのは自分であると。

それから男は逃げ続けていた。
もうどれだけ時間がたったのか、ここが今どの辺りなのかもわからない。
とにかくあの化け物から逃げたかった。あの女のように、死ぬのだけはごめんだった。
それからしばらく逃げていたが、後ろから迫って来ていた気配がしなくなった。
うまく撒けたのだろう。安心した男は足を止め、息を整える。
しばらく休んでいると、落ち着いてきたのか、思考に冷静さが戻ってくる。
あんな化け物いるはずがない。理性はそう諭すが、口内の女の「味」がそれを否定する。
夢ではない。あの化け物は存在して、女は殺され、自分は追われていたのだ。
これは現実だ。理解はできた。だが、どうする?

「(警察に連絡するか?だが、今こちらのことを探られるのはまずい。そもそもこちらの話を信じてもらえるのか?)」

だが何もしないよりはましだ。ここで訳の解らない奴に殺されるくらいなら、刑務所暮らしの方がましであろう。
そう思った男は携帯を取り出した。警察に通報しようと番号を打ち込もうとするが、出来なかった。

男の手首から先が、なくなっていたのだ。

「え」

手首から鮮血が噴き出る。男はその血を浴びて初めて自分の手が失われていることに気が付いた。

「あ、あ、うああ゛あああ゛あああ!!!!!」

気づくと同時に激痛が走る。男はたまらずその場にうずくまった。
何だ!一体何が起こったというんだ!
男がパニックに陥っていると前方から軽やかな声が聞こえた。

「おやおや、ブライアン。こんなところで何をしているんだい?」

男ーブライアンははっとした。この声には聞き覚えがあったのだ。
知人が来たことにブライアンは安堵し、同時に戦慄した。おそらくまだあの化け物がいるのだ。
このままでは彼も襲われてしまう。急いでこの場を離れなくては!

「おい!今すぐここから逃げろ!ここにはまだ化け物・・・が・・・」

ブライアンは顔をあげ、愕然とした。
なぜ、なぜ彼はあの化け物のそばに立っているのだろう。それもまるであの化け物の主人であるかのように。
彼は穏やかに笑いながら話しかけてくる。

「駄目じゃないか、ブライアン。上等なスーツと靴を汚して。高いんだろう?」
「いや・・・お前・・・なんで・・・・・・」
「せっかく君を殺した後、僕が使おうと思っていたのに」

元々それは、僕のお金で買ったんだからね。
そう話す彼の目にはブライアンへの憎悪がにじんでいた。

殺される。自分は彼に殺される!!

「ま、待ってくれ!金なら返す!!いくらだったか!1万か!10万か!?
 ちゃんと返す!だから、だから殺さないでくれ!」
「そんだけで足りるわけないだろう。今まで大分待ったんだ。どうせこれ以上待っても返ってこないよ。
 ・・・・・・そう、もう、かえってこない。」
「ちゃんと返す!足りない分も後で返す!!だから」
「その台詞はもう何度も聞いたよ。悪いけどもう待たない」
「待っ」

「足りない分は、命で払ってもらうから」

血に濡れた爪が月夜を受けて不気味に輝く。
それが自分をめがけて振り下ろされ・・・

男の意識は、そこで途切れた。

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