◎かくしん
その日の私は相変わらず、アレックスさんの家にある庭のコートで、ひたすらボールを放っていた。アレックスさんも、あの人も居ない、私だけの時間。ただどうすれば、この手にあるボールがあのリングをくぐるのか、について考えていた。平和で、穏やかで、私だけの、落ち着く時間のはず…だった。
「おい」
聞こえてはいけない、声がした。見ちゃいけない人に、見られてしまった。私はボールを拾って、すぐに後ろを振り向くと、そこにはラフな格好をしたあの人が…ナッシュさんが、居た。怖くて、ナッシュさんの顔は見えなかった。ナッシュさんは玄関へ行く途中だったろう足をこちらに向けて、私に近付いて来た。
心臓が嫌な音を立てる。手の温度が下がっていく。私の頭の中には、私の、下手な発音に、英語に、腹を立てるナッシュさんしか居なかった。ナッシュさんは自分がプライドを持ってるものに対して、下手なものを見せると、怒る。怖いくらい、怒る。きっと、もっとちゃんとした理由があるんだろうけど、私はナッシュさんのことを知らないし、ナッシュさんの感覚も分からないから、そのくらいしか把握していない。
でも、今のこの状況が今までで、一番怖いって、ことは分かる。
だって、ナッシュさんにとってバスケットボールは…。そう考えている間に、ナッシュさんは迷いもなく、足をこちらへ向けて、歩いて来た。腕の中のボールが落ちる。
怖い、怖い、怖い。
殴られる?
また、あの目で見下ろされる?
私は少しでも逃げようと、足を、動かない足を、無理やり動かそうとしたのが、いけなかった。
次の瞬間、勢いよく視界が回って、一瞬何が起きたか分からなかった。でも、身体中に走る痛みに、ああ、私今転んだんだと思った。
ころころと、ボールが転がる音がして、恐らく私は自分で落としたボールに足をもつらせたんだ。
「…」
「…あ」
頭を押さえながら身体を起こすと、気に入らないと眉を顰めたナッシュさんが私を見下ろしていた。座ったままで、情けないけど、私はそのまま後ろへ下がって、逃げようとした。ガンッ、と音がして、バスケットゴールの柱に背中を当たってしまった。打ち身の痛みに顔を歪ませてると、ナッシュさんがしゃがみ込んで、私をじっと見つめる。もうその目線ですら、怖くてまた逃げようとすると、鈍い音が響く。頭の上で、した。思わず瞑った目を開けると、ナッシュさんが怖い顔をして私を見下ろしていた。辛うじて、視線を動かせば、ナッシュさんの腕が私の頭の上にあって、ゴールの柱に手を思い切りつけたのだと、理解した。
「逃げようとするな」
「……」
「…動くんじゃねぇぞ」
完全に固まってしまった私に、ナッシュさんは逃げないと判断したのか。頭の上にあった手は呆気なく外れて、ナッシュさんの両手は私の右足首へ。優しく触れられて、戸惑っていると、油断している所に痛みが走って、見っとも無く私は涙目になってしまった。ナッシュさんは見たこともないくらい、眉を顰めて、私の様子を見て、舌打ちをした。ナッシュさんは初めて会ったときのように、私の身体に触れて、持ち上げる。私は急に感じる浮遊感に戸惑いながらも、ナッシュさんの服を掴みそうになった手を胸元に無理やり留める。
相変わらず、ナッシュさんの腕の中は居心地が悪い。不安定で、疲れる。
…でも、あのときは逃がさないと覚えた痛みはなかった。それだけだった。それ以上もそれ以下も、何も変わってない、はずだ。
***
俺は彼女をリビングへ連れて行き、ソファへおろす。俺が離れると、彼女は安心したように息をついた。それが気に入らなくて、舌打ちでもしそうになる。テーブルの方から、イスを持って行って、彼女の前へ置く。
彼女は一々、俺の行動に怯えているが今は気にしている暇がない。彼女の足を遠慮なく掴み、イスに乗せて、動かすなよと念を押せば、彼女は何度も頷いて見せた。冷蔵庫を開ければ、意外にも整頓されていて、…ああ、彼女が居るからかと頭の隅で思う。氷を袋に詰めたり、包帯を探したり、何とか応急処置出来るものを揃える。
「…」
「…」
俺が処置している間、彼女はずっと大人しくされるがままだった。セックスのときは、最後まで抵抗して来たので、ある意味ここまで素直な彼女は新鮮かもしれない。俺はひと段落ついて、どうするか迷ったが、まあいいかと彼女の身体に触れた。
「…え、なに…」
「いいから、…足をここに乗せろ」
「…」
彼女のサイズならソファの肘掛けでも、問題はないだろう。そこに足を置かせて、頭を持ち上げると、彼女が面白い顔になった。ソファに座って、彼女の頭を膝に乗せれば、彼女は俺を見上げなら、口を大きく開ける。
「…酷い顔だな」
「…」
誰の所為だよ、誰の…とでも言いたげに、彼女は眉間に皺を寄せた。
***
いきなり大きな音がして、俺も彼女も肩を揺らす。カーテンを引いていない窓に容赦なく打ち付ける雨と、低い地鳴りような音に俺は今日の天気予報を思い出していた。そう言えば、今日は夕方から雲行きが怪しいって言ってたか。彼女はびびりながらも、外が気になるようで、窓の向こうを覗こうと体を起こそうとする。俺は彼女の頭を膝に押し付けて、安静にしとけって言っただろ、と目で言えば、彼女は大人しく小さくなった。意地でも顔を見られたくないのか、顔の上に腕を交差させている。気に入らない態度には変わりないが、取り敢えず彼女が大人しくなるなら、なんでもいい。
「…」
「…」
暇だな。俺はスマホで時間をつぶしながら、一応彼女の様子を見ているが、微動だにしない。彼女の予想もつかない怪我のおかげで、すっかり彼女への苛立ちは何処かに行ってしまった。何故、彼女がバスケをしていたのか。いや、バスケとも呼べない。ボール遊びと言った方がお似合いだろうか。…まあ、大方アレックス辺りにでも誘われて、断れなかったんだろう。
「…名前」
「……」
「…」
「…いたい」
「起きてんなら、返事しろ」
彼女の腕を軽く抓れば、彼女は声を上げる。バレる嘘なら最初からつくな。彼女は納得のいかない顔をして、俺を睨み上げる。彼女に睨まれるのも、そろそろ飽きた。
「お前暇なのか?あんなことして」
「…」
彼女は俺から目を逸らし、意地でも目を合わせるつもりはないらしい。次の瞬間、身体を本能的に震わせてしまうくらい、大きな音と振動が俺たちを襲った。そして、追い打ちをかけるように視界が一気に暗くなる。
「…!」
「…」
飛び起きる彼女を膝の上に乗せて押さえつけながら、俺は停電かと慣れない暗闇の中で目を凝らす。彼女に悪化するから動くな、と短く伝えるが、彼女は尻尾を踏まれた子猫のように暴れようとする。驚いている所為で、足の痛みを感じないのだろうか。雷が苦手だとか、暗いのが嫌いだとかは知らない。俺は本当に彼女の何も知らない。そのことを改めて実感しながら、俺は彼女を膝の上から降ろす。とりあえず、ブレーカーでも見に行くか。
「…え」
「…ブレーカーの」
「やだ…!」
「名前」
ソファから立った瞬間に力任せに腕を引かれて、眉を顰める。
「まって、どこに」
「おい、落ち着け」
彼女に力任せにされようが知れている。だが、俺だって自分の身体に無頓着なわけではない。引っ掻かれそうな勢いの彼女を落ち着かせようとするが、一度彼女から離れた所為で上手く距離感が掴めない。見えねえ。
ざあざあと耳障りな雨の音がうるさい。また暗い部屋の外で雷が光った。彼女のか細い悲鳴が上がった。
「ナッシュさん行かないで」
凝らした視界の中で薄っすら、彼女の切羽詰まった顔が見えた。うるさい雨と雷が音を立てて耳障りなのに、俺のことを求めて呼ぶ声がはっきりと聞こえた。痛くないはずなのに、彼女の掴まれた腕が熱い。掻き抱きたい衝動に襲われる。なんだよ、今までそんな顔を身体を好きに暴かれても見せなかったくせに。ベッドの上で見た乱れた顔よりも、泣かせた顔よりも、一番俺を揺さぶった。
女に縋られても、いい気なんてしない。…それは他の女だからか。彼女のなら、いいのか。いや、良いとか悪いとかではなくて、もっと……。
「……行かねぇから、その顔やめろ」
俺の傍に居る癖に、不安で死にそうな顔なんて気に入らない。もっと俺を頼ればいい。彼女の足を気遣いながらも、俺は彼女を抱き締めた。小さな手が俺の背中に触れた。服越しに必死に掴まる小さな温もりが無償に愛しいと思った。
もっと俺を……?その先の欲望に気付いてしまった。彼女にしか望まれたくなくて、彼女しか満たせれない欲に気付いてしまった。
「天気本当に酷かったな…名前帰ったぞ!大丈夫だっ…ん?」
リビングを覗き込むと、タオルケットに包まって寄り添う可愛い居候と悪ガキが居た。普段なら絶対ナッシュの膝の上なんかに乗らないだろうに。珍しい光景に私は頬を緩めて、携帯を取り出した。
「後でナッシュに送ってやるか」
prev もどる next