◎たしかめたい
穏やかな日々がまた壊されていく。いや、壊れてはいない。厳密に言うなら、少しずつ均衡が崩されているのだ。手の中にあるバスケットボールを、ゴールへ向かって放る。距離も大してなければ、私の前に立って邪魔をする人も居ない。それでも、ボールが入る方が少なかった。正直、あまり凹まなかった。以前、見てしまったバスケの試合で、バスケは私が思っているよりも、難しくて複雑なものなんだと知っていたからだ(どのスポーツもそうだろうけど)。私みたいな初心者が、そうぽこぽこゴールへ入れれるはずもない。
傍から見る試合よりも、大きく感じるバスケットボールに触れることが不安だった。きっと、どうしてもあの人を思い出してしまう。でも、夜な夜な睡眠不足で青白い顔をしている私に、「スポーツ…てか、バスケだけど、してみるか?身体思い切り動かすの、気持ちいいぞ!」と眩しい真夏の太陽のような笑顔で言われたら、もう頷くしかない。
私はベッドで寝れなくなっていた。いや、少しだけなら、寝れる。でも、あの人と出会う前のように、寝れなくなった。留学前は、ベッドから布団へに変えて対処していたが、留学中はアレックスさんの部屋を借りているし、布団はない。ベッドで、寝なくていけないのだ。ベッドで寝ることはこれから少しずつ、慣れていくとして…、この熱はどうしたら、いいんだろう。
「…」
まただ。まだ、夜中に起きてしまった。身体が熱かった。ベッドの中へ潜って、そっと手を寝間着のパンツ中に入れてみた。下着の上からでも、分かった。
以前なら、あの人と会う前なら、こんなこと絶対無かったのに。変えられてしまった身体、熱を知ってしまった身体、私はどうすればいいんだろう。ただただ熱を覚える身体を持て余しては私は、言いようがない罪悪感と、どこにぶつけたら分からない焦燥感に襲われた。
何もしていない時間が嫌だった。常に、何かしていないと不安だった。家事も勉強も全部し終わって、アレックスさんも居ない時間、私はひたすらボールに触れて、ずっと放り投げていた。どうすれば入るか、それだけを考えていたかった。…全部、忘れてなかったことにしたかった。
それが、私の、せめてもの願いだった。
***
ナッシュさんに対して、嫌悪感、不快感、恐怖感…とキリのない、マイナス感情を全面的に出す私に、アレックスさんは首を捻って黙り込んでしまった。その間も、ナッシュさんは私を見下ろしてくるし、私は私でアレックスさんの背中にへばり付いていた。アレックスさんが小さな声で私に尋ねる。ナッシュの言っていることは、本当か?って。私はその問いに、首を縦にも横にも振れず、困った顔になってしまった。だって、ナッシュさんの言う事は確かに嘘ではないけど、百パーセント本当でもない。
「…確かに観光案内はしましたけど…ナッシュさんの距離感に慣れないと言うか、結構…スキンシップが、こう…激しくて…逃げるじゃないですけど」
しどろもどろに言える範囲で言ってみれば、アレックスさんの目が途端に輝く。なんだろう、…私、今すごい間違ったこと、言った気がする。そして、このアレックスさんの勘違いが私とナッシュさんの今後を大きく左右するものになった。
「ナッシュ…お前」
「…」
「名前に一目惚れして、フラれたんだろ!」
私もナッシュさんも固まった。アレックスさんはとても楽しそうに、ニヤニヤしている。普段から可愛くないと言っている悪ガキの、年相応かどうかは知らないけど、可愛らしい一面を知ったと思っているからだろうか。ナッシュさんのプライドを刺激しかさせない言葉に、態度に、私は顔を真っ青にしていた。ナッシュさんも怒りを表すように、眉間に深い皺を作り、口を開こうとする。最悪だ。その瞬間を上手く突いて、アレックスさんがナッシュさんの首に大胆に腕を回して、何か耳打ちをした。残念ながら、私には聞こえなかった。
「よし、ナッシュ…ここは私が一肌脱いでやるから、名前がこっちにいる間に頑張れよ!」
「ハァ…?」
「お前みたいな不良少年が、名前みたいな子を好きになるのは学園アニメでは定番だろ!」
「…(いや、知らねぇし…、でも…)」
「…ナッシュ?」
「…いや、…アレックスの協力が有難いと思ってな」
「お、おお?…珍しく可愛い事言いやがって!このやろー!」
「やめろ!撫でんな!」
「…でも、名前は私にとって大切な子だからな…そこは覚えとけよ?」
***
どこまでも甘ったるい声を鼻で笑っていると、不意に鋭いナイフのような声に変わって俺はアレックスに視線を向ける。アレックスは彼女に見られないように俺を見上げるが、その瞳の奥にある、一種の凶悪性を秘めた色に俺は思わず目を逸らした。怖いとか、そう言うものではなく、俺の本心を探らせそうになったからだ。俺の様子にアレックスはにんまりと笑顔になって、ぐしゃぐしゃと乱暴に俺の頭を撫で回す。俺はその手を振り払いながら、改めで彼女に視線を向けた。
そこにはぽかん、と間抜けな顔をして、俺とアレックスを見上げる彼女が居た。まあ、俺とアレックスのじゃれつきを信じられないのだろう。俺も気にくわないが、どうしても年上の前ではこうなってしまう。年齢で上や下を言うつもりは、端からないが…それでも、分野が違えば嫌でも経験の差は出てしまうのだ。
「よし、飯にするぞ!名前の作った料理が冷めたら勿体無いからな!」
空気を変えるようにアレックスが手を軽く叩いて、俺と彼女の背中を押して、リビングへ連れて行く。そのとき、彼女が俺を伺うように見上げて来たので、わざと目を合わせば、彼女は大げさに視線を逸らして、俯く。その丸い後頭部を見下ろしながら、俺はこれからどうするかと考えていた。
***
彼女は予想通り過ぎるぐらいに、大人しく座って、ただただ聞き役に回っていた。俺はボロが出ない程度に、彼女の情報を集めていく。彼女は俺と同じ大学生で、語学留学のためこちらへ来ていること。その間、トラブルがあって、アレックスに世話になっていること。そして、日本で行った親善試合で初めて、バスケの試合を見て、俺について知ったこと。まあ、ここら辺は彼女なりに誤魔化していた。
「へえ。ナッシュの行きつけの店で知り合ったのか。じゃあ、名前は元々バスケ好きだったのか?」
「え、いや…ナッシュさんがきっかけで知って…そのときの、試合で色々と…」
「なるほどなぁー。まあ、バスケやってるヤツが全員こんなじゃないからな!」
「は、はい」
「どういう意味だ、アレックス」
俺は別に、日本であったことがバレても…いや、そうなると彼女に近付くことが難しくなるかもしれない。あのとき、と状況も違う。あのときは暇つぶしだったし、限定された時間があった。今は俺も、彼女も互いに自分の時間がある。俺も彼女に入れ込んで、時間を惜しまず使うほど暇ではない。そう言ったことを考えた上で、彼女に近付くとなると…な。アレックスに少しでもバレることがあれば、俺は間違いなくアレックスに殴られるだろうし、いや、これは左程問題ではない。…間違いなく、俺は出禁を喰らう。そっちの方が俺的には困る。
目の前で、困った顔をしながらも、人を良さそうな笑みで話を聞いてる彼女を見つめながら、何が、こうも、俺を引き留めるのか。今までの、女とタイプと違うそれだけなのか。もっと違う、ものがあるのか。行き付く結末が、もし吐きたくなるほど甘ったるいものでも、…だとしても、まだ俺の中で決定打がない。どうして、彼女に執着してしまうのか。
「…」
「え…おかわりですか?」
「…」
分かったなら、ささっとしろ。俺が頷いて見せると、彼女は渋々頷きながら、俺の手からお椀を受け取る。彼女がキッチンへ行く後ろ姿を眺めていると、またアレックスがニヤニヤして俺を見つめてくる。せっかく彼女の料理で気分が良くなったのに、台無しだな、コイツ。
「何だよ」
「いやいや…胃袋捕まえられてんだなって、思ってな。なあ、ナッシュ」
「…ハァ?」
俺がアレックスの言葉に、これ以上もなく顔を顰めていると、何とも気の抜ける足音が近づいて来た。彼女がお椀を両手でもって来て、俺のスペースへ置いている。その何でもない、何気ない…それこそ、日常を体現したような姿から、目を離せなかった。
「…具と汁の配分が気に入らねぇ。やりなお…」
思わず吐いてしまった悪態はアレックスの琴線に触れたらしく、俺は思い切りアレックスに頬をつねられた。
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