名字名前は北信介という男の子を尊敬の眼差しで見ていたけれども、相容れないだろうなぁと思っていた。

 だから、無理に関わることなくクラスメイトという関係を平和に保っていたはずだった。でも、人生はそう上手くいかない。寝坊して教科書を忘れた。友達に借りに行くことも忘れた。そして、こんなときに限って当てられる。運が無さ過ぎる。じっ、と目力が強い北信介の視線に耐えながら、平謝りをして教科書を借りて読んだ。いっぱい噛んだ。ありがとう、ごめんなさいって頭を下げて、北くんはうんともすんとも言わずに、机をくっつけて教科書を真ん中に乗せて、「授業中やから、後」と短く言って黒板の方を向いた。

 そのとき彼女は北信介という男の子を勘違いしていたと、勘違いした。北信介というクラスメイトはめちゃくちゃ規則正しいロボットのような融通が利かない、嫌ではないけど小難しい男の子だと思っていた自分は恥だと思った。教科書をその場だけでなく、授業の間見せてくれるなんて。私から見せてって言わなきゃいけないのに、なんて気遣いのできる人なんだ。先生の何気ない言葉も聞き取って、はみ出すことも寄れることもなく、綺麗に教科書にカラーペンを引く北信介の横顔を見ながら、北くんいい人!と彼女は感激していた。このあと、すぐにそれは打ち消されることになるのだが。

「え、えっと」
「名字さんは普段からぼけっとし過ぎや。こないだも隣のクラスに教科書借りとった。宿題も当日学校でしとること多いし、こないだは予鈴ギリギリに教室入って来たやろ。」
「……はい、すみません」
「……」
「……えっと、何か」
「今うんざりして面倒やなって思っとる」
「え、そんなこと、ないです」
「名字さん言い訳せんのやなくて、面倒やから何も言わんのやろ」
「…!」

 彼女は北の厳しい言葉に動揺して視線を泳がせたあと、しょんぼりと眉を下げた。図星だったらしい。そんな様子の彼女に北は呆れることも怒ることもなく、言葉を続けた。

「これが嫌やったら、普段からちゃんとすんねん」
「……あい」
「……」
「はい」
「うん」

 「は」と「あ」の間の発音のような「はい」は長々と説教をされて気が参ったときに、出てしまう彼女の癖だった。気が逸れた彼女に北は眉をピクリとさせたので、彼女も最後の気力を振り切ってちゃんとした返事を返すと、北は満足したように頷いた。そして、丁度チャイムが鳴って、次の授業が始まった。彼女は休み時間のはずだったのに北くんの意地悪、と内心思ったが北の方へは振り向かなかった。視線でバレる気がしたからだ。

***

 尾白アランは名字の話を一通り聞いて、カラカラと笑った。学校の中庭の隅の方、木が生い茂って少しだけ寒い日陰にぽつんとあるベンチ。そこが二人の特等席だった。スリッパを脱いでベンチの上で体操座りをして、膝に顔を埋める彼女は凹んでいた。北くんの言うことは分かる。分かるけど、教科書を忘れて迷惑かけたのは私が悪いけど。でもクラスメイトなだけの、北くんにあそこまで言われる筋合い……ないと言いたいが、実際今日迷惑をかけてしまった。彼女はうーんうーんと消化不良を起こした感情を持て余してしまっていた。

「名字と北が同じクラスになったときから絶対そうなるって思っとったけど」
「……尾白くん慰めて甘やかして」
「おーよしよし」
「赤ちゃんになりたいお世話されたい」
「こないなおっきい赤ちゃんはいややろ」
「……ひど、うぐ」

 名字名前は北信介という男の子と真逆の女の子だった。彼女のモットーは『自分に甘く他人にも甘く』だ。それゆえに怒ることも基本あまりないが、『ちゃんとする』『しっかりする』『きちんとする』といったことを求められることが酷く苦手だった。彼女とて、時間やお金にルーズなわけでなく、最終的に終わったらいい、出来たらいいという人間なので、普段は人に迷惑かけない程度にゆるい。たまに、その加減を失敗する。今回はその相手が悪かった。普段の彼女を知っている尾白アランや、友達だったら、「仕方ない」の一言済んだことだった。

 やはり、彼女はゆるいので怒ることはしないが、ぐちぐちと不満を漏らした。その不満に栓をするように、尾白は彼女の口に紅茶のパックのストローを突っ込んだ。彼女はそのまま、ちゅーと飲み始めて、尾白はまた呆れながらも笑っている。「自分で持ちなさい」と尾白がいっても、彼女は無視をした。甘えたいらしい。尾白自身は彼女のゆるい性格が気に入っていた。普段から、バレーを通して日常的に少なからず緊張を感じている尾白はこのゆるい彼女の雰囲気に癒されていたのだ。

 彼女と尾白は気の知れた友達だ。彼女が中学入学と同時に引っ越してきて、馴染みのない関西弁に四苦八苦していた頃に面倒みてもらって、そのまま彼女は尾白に懐いたし、尾白もそんな彼女を可愛がった。転校当初心細そうに肩を小さくしている彼女を知っている尾白はついつい彼女を甘やかしてしまうのだ。甘やかし過ぎたかもしれないと、と思っていたら、その声は現れた。ほんのり寒い日陰の空気を震わせるしっかりとして、そしてひんやりした声。

 彼女は反射的に自分で紅茶のパックをもった。

「そうやって甘やかすからいけへんのや」

 生い茂る木を軽く避けて現れたのは尾白に部活の業務連絡を伝えに来た北だった。彼女は居心地悪そうに視線を泳がせた。淡々と業務連絡をつげる北の言葉に頷きながら、尾白は笑うのを耐えていた。彼女は北が去ったら、尾白の脇腹を突くことを決意して、ストローを噛んだ。

「名字さん」
「……」

 彼女は呼ばれることを予想していなかったため、肩をびくびく震わせながらも、北をうかがう。クラスメイトの男子よりも、比較的に尾白としか話さない彼女は改めて北を見て、大きいなぁと場違いなことを思った。すぐに気が逸れる、彼女の悪い癖だった。

「ストローから口離して」
「……はい」

 行儀が悪い。そんな理由で説教されたくない。彼女は素直に従った。北の視線は彼女の咥えていたストローにあった。そして、ぽつりと言ってしまった。何も考えていなかった。ああ、そう言えば聞いたことあったなぁと思ったから、そのままつい言ってしまった。他意も、深い意味もなかった。

「ストローを噛むのって欲求不満らしいねん」
「……」
「……」
「へ、へんたいっ!」

 呆然としていた彼女は我に返って、反射的に言い返した。そのままスリッパに足を突っ込んで、逃げ出した。尾白は見守りながらも、彼女が珍しく顔を赤くして怒ったなと呑気に思った。

「お前もそないなこと言うんやな」

 北は尾白に勘違いされていることに気付いていたし、訂正しようと思ったし、けれどもそれ以上に彼女の声量と、動きの素早さが衝撃的だった。思わず笑ってしまうくらいに。

「名字さん普段ぽやぽやしとるのに、あないに動けるんやな」

 尾白はまた今夜は彼女から電話がかかってくるだろうと、目の前で口を開けて笑う北を見上げながら、頭の隅で思った。きっと彼女は思いもしないだろう。北という人間が笑うときには、あの固く無機質な表情を煮込んだシチューのような温かくほわほわとした湯気のように柔らかくすることを。実際、尾白が初めて北が笑うところを見たときは酷く驚いたのを覚えている。ケタケタ笑うのではなく、ほわほわと笑うのだ。

「……ぽやぽやってお前の口から恐ろしいほど似合わんな」

 表情を戻して、「そうやな」と彼女のよく知っている無表情で北に返された尾白は肩を大袈裟にすくめてみせた。

「相変わらず切り替えが早いねんな」

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