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彼女と木葉は互いの気持ちの核心に触れるために、二人でその周りをゆっくりと歩いた。それはとてもとても、長い道のりように見えた。
緊張して腹痛くなってきた。木葉は首にかけたタオルで口を隠して、緊張からくる吐き気に必死で耐える。自分で歩き方がぎこちなくなっているのが、分かった。遠くもない距離を歩くと、夜の校舎独特の寒さに素足が震えた。渡り廊下について、視線を先に向けると木葉は緊張も吐き気も忘れて、名字にすぐ駆け寄った。まるでバレーボールのように、まるく、小さくなっている彼女の姿に心配と不安でいっぱいになる。体調を崩したのだろうか。お腹が痛いのか。木葉は彼女の傍にしゃがみ込むと、彼女の肩に触れる。揺らそうか、迷ってやめる。体調が悪化したら、俺はしんでしまう。
「名字さん名字さん……、だいじょうぶ?」
「……このはくん?」
「うん、木葉だけど。どうしたの、気持ち悪いの?」
木葉の声に顔を上げた彼女の顔色は青く、木葉は無意識のうちに彼女の肩を抱こうとしていた。彼女は血色の悪い唇を両手で隠して、木葉の胸に顔を埋めるように身体を倒しかける。木葉は彼女の肩を掴んで、背中を撫でた。
「名字さんやばい?と、お手洗い行く?」
「き、んちょう」
「きんちょう?」
「緊張して気持ち悪い」
彼女の言葉に、木葉はきょとん、としてから思わず笑ってしまった。ああ、そうだ。名字さんは人と関わること、人と話すことが苦手だった。それでも、勇気をだして俺の所に来てくれた。
人の輪に、彼女は入れない。どうしても、抵抗がある。木葉は思う。少ししか、彼女のことは知らないけど、彼女は苦手という気持ちの裏に、彼女の優しさも隠れている気がするのだ。目の前で楽しそうに盛り上がっている雰囲気を壊せない、水を差せない彼女の優しさ。人によっては優しさと言わないかもしれない。でも、木葉にとっては間違いなく優しさだった。木葉はときどき優し過ぎるとか、八方美人とか、言われる。その度に、へらりと笑っているが、少しだけ胸が痛い。俺は良い格好しがちで、人に良い顔ばっか見せて、それって……悪いこと、なのだろうか。優しさ、ってなんだよ。
「木葉くんありがとう」
自然と彼女の笑顔が思い浮かぶ。その笑顔は温かくてかわいい。擦り傷でも、痛いもん痛い。男の子だって、痛かったら泣きたい。彼女は人の優しさを、好意を素直に受け止められる。そして、ありがとうと、返してくれる。温かい気持ちが、温かい気持ちで帰ってくる。彼女と木葉は少しだけ、似ている。なるべく人を傷付けたくない。いい子ぶっている、つもりもない。ただ単純に、そう思うのだ。
名字さんと一緒なら、俺幸せになれる気がする。俺の本当に嫌なこと、痛いこと、嬉しいこと、泣きたくなることに気付いて、笑わずに耳を傾けてくれる。そんな根拠もない、確信があった。
「名字さん、俺も緊張して吐きそう」
「えっ」
彼女の上げた顔から気分の悪さはない。木葉のシャツを皺になるくらい彼女は掴んで、木葉の顔を覗き込む。木葉はほんのり赤い頬を隠すように、笑っていた。
「このは、くん」
「名字さん今日ここに来てくれて、ありがとう」
「え、えっと、ちがうの……、木葉くんこそ、来てくれて」
「うん」
「あっ」
彼女は生まれて初めて、異性に抱き寄せられた。しゃがみ込んだ不格好の姿勢で、木葉にもたれかかる。木葉の鎖骨に彼女の額が触れて、木葉の匂いを近くで感じた。ぎゅう、と。木葉は彼女を抱き締めて、手汗が酷い手のひらに彼女の背中の温もりを感じた。背中に触れているはずなのに、心臓の鼓動がよく聞こえて感じ取れる。彼女の身体はとてもあつく、今にも溶けてしまいそうだった。
「ど、どうして」
「うん」
「木葉くんは私に、あんなことしたの……?」
彼女は重くて舌触りの悪いものを、口から無理やり吐き出しているような気分だった。言葉だけなのに、音を出して空気を振動させているだけなのに、喉の奥に指を差し込んで、吐き出している、みたい。中学の頃から、自分の中に溜まっていたものを吐き出すことはそう簡単じゃない。嬉しいことも、悲しいことも、全部吐き出しそう。人に本当の気持ちを見せることは、無防備になることと似ている気がして、彼女はとても苦手だった。痛いこと、怖いこと、気持ち悪いこと、たくさん嫌なことがある。彼女はその中でも、怖いことが一番苦手だった。はらはらして、心臓の鼓動が早くなることが苦手だった。木葉の腕の中にいても、彼女は怖かった。木葉が彼女を一番強く抱き締めて、彼女の頬に触れる。木葉と目が合って、彼女はすぐ逸らしそうになった。
「やっぱり」
「?」
「名字さんがかわいいから、キスした」
「……」
彼女は木葉から言われた『かわいい』を上手く噛み砕けずに、木葉を見つめ返すことしか出来ない。かわいいって、好きってこと?好きって思うから、かわいい?『好き』と『かわいい』ってなに?イコールなの?違うの?不安で瞳を揺らしてイマイチ状況を飲み込めない彼女に、木葉は眉を下げる。抱き締めても、彼女に俺の気持ちは伝わらないらしい。
「わたし、かわいいって思っても、キスしない」
「え」
「木葉くんにキスされて、よく分からなかったの。嬉しいとも、嫌だとも、分からなくて、もやもやしたの。どうして、木葉くんは私にキスしたんだろうって、それでいっぱいだった」
彼女の言葉に、木葉は冷たい床に尻もちをついて、さらさらとすぐに元に戻る髪をぐしゃぐしゃと乱す。彼女は木葉の腕が解かれても、大人しく木葉の足の間に納まっていた。ぺたん、と女の子座りをして、木葉の髪に手を伸ばした。ずっと触ってみたかった。予想よりもずっと細く柔らかい髪の感触に、彼女は思わずため息がもれた。汗で湿っていて、木葉くんも人間なんだなぁと変な感動があった。彼女の前の木葉は常に涼しい顔で、彼女にできないことをやってのけていたから。
木葉が思っているよりも、ずっとふたりの人間の気持ちを一緒にすることは難しい。ことばとふれあい。その二つを駆使して、分かち合う。一ミリともズレがないなんて、難しい。不可能に近いとも言える。
「ちょっと待って。今俺すっげえ自己嫌悪ちゅう」
「……だから、頭くしゃくしゃって?」
「うん」
「一緒だね」
彼女の穏やかな声に木葉は乱れた前髪の隙間から、彼女を見上げる。彼女は自分の髪を撫でつけて、「私もだよ」と繰り返した。
「なんか、焦ったりとかすると、すぐ髪ぐしゃぐしゃって、しちゃうの。
あのときも、そうだった」
「……」
「木葉くんと先輩がキスしての、見ちゃったときも」
あの閉まったカーテンの向こうで、彼女は今の俺みたいに一人で髪をぐしゃぐしゃと乱して、どうしようもない気持ちに耐えていたのだろうか。そして、手の甲が白くなるまで、彼女にはデカい地図抱いていたときも。彼女は苦しかったのだろうか。それは彼女にしか分からない気持ちで、彼女だけのものだ。俺はどうして、彼女にキスをしたのか。かわいい、と思ったからなんて、可愛い理由だけではない。そこには、もっとずるい俺の弱さがあった。
「俺名字さんが、俺のこと好きって知ってた。知ってたから、キス出来た」
「い、いつから?」
「こないだ掃除の時間、俺の噂話してたとき」
「あ」
「聞いちゃった。ごめん」
「う、ううん、あんなところで話すこっちが悪いんだよ」
「可愛いって思ったのは本当。
でも、可愛いって思ってキスできたのは、名字さんが嫌わないって思ったから」
「……」
「ごめん。キスされて名字さんがどう思うか、俺ちゃんと考えてなかった」
ちゃんと、かぁ。彼女は泣きそうな顔で頭を下げる木葉を見ながら、頭の中でそう繰り返した。ちゃんと、は難しい。そのちゃんと、することの誤魔化し方や抜け出し方は年々上手くなるのに、ちゃんとすることっていつまで経っても、難しくて一筋縄ではいかない。
「じゃあ、ここでちゃんと教えて欲しい。
私もちゃんと、する」
「名字さんも……?」
「うん。
私木葉くんがキスしてるとこ、されてるとこ見て、すっごく嫌だったの。
木葉くんが彼女出来たって聞いて、やっと木葉くんのことすっごい好きって、思った……
けど、木葉くんに好きになって貰おうとか、付き合う努力とかしてこなかった。
最初から無理だって決めつけて、何もしないで逃げてたの」
彼女は木葉の乱れた前髪を直して、木葉を下から真っ直ぐと見上げる。さっきと違って、木葉には彼女がよく見えた。緊張で強張った頬も、軽く潤む瞳も、全部丸見えだ。彼女は今、まるはだかだった。
「でも、ちゃんとするって決めたから。
木葉くんが好きです。どうして、私にキスしたんですか?」
木葉は彼女に触れたいと思ったときの自分を思い出した。俺のこと、どう思っていますか。彼女に内緒で、問いかけた。その答えを聞いて、俺はどうしたいと思った?
「……名字さんが俺のこと、考えてくれてるって知ってすっげえ嬉しかった。
気になって、知りたいって思って、でも自分から好きって言う勇気もなかった。
俺自分から告白とか、したことなくて、……多分そういうの、すっげえ苦手で。
でも、名字さんが勇気出して、ちゃんとしてくれたから、俺もって」
「うん」
「俺、名字さんのことが好き。こんな俺でも、名字さんは俺と付き合ってくれる?」
木葉の声は震えていた。情けないと唇を噛む。彼女は木葉のぐっときつく作った握りこぶしを両手で包むと、「はい」と迷いもなく頷いた。今度こそ、彼女は木葉の腕の中で安心した。木葉は自分の背中に触れる小さな温もりに、やっと彼女と同じ気持ちになれたと深く息を吐いた。
「名字さん」
「うん?」
「キスしていい?めっちゃしたい」
「う、うん」
木葉と彼女は互いの身体を離すと、じっと見つめ合って自然と目を閉じてキスをしていた。ゆっくりと唇が触れ合って、木葉は彼女の腰を引き寄せる。そうすることを知っていたように、彼女は木葉の首を腕を回して、唇をもっと強く押し付けた。離して、見つめ合って、また重ねる。触れ合っていた木葉の唇が少し開いて、大人しく閉じている彼女の唇を戯れるようにはさんだり、突いたりした。慣れないキスの生々しさに、思わず彼女は照れて唇を離してしまう。伏目がちに視線を逸らす彼女の仕草が可愛くて、木葉は彼女の後頭部を捕まえてもう一度彼女の唇を塞ぐ。
唇を伝い感じる木葉の熱に、彼女は熱中症をおこしそうだった。でも、彼女は動けなかった。だって、知らなかった。唇を塞がられるだけで、こんなに呆気なく人間が動けなくなるなんて。それでも、動き続ける心臓はすごいと頭の片隅で彼女は思っていた。そのとき木葉の手が腰から下がっていって、プリーツスカート越しに触れられて、彼女は驚いて腕を絞めてしまった。色気のない木葉の息遣いと、彼女の悲鳴に一気に雰囲気が変わってしまう。
「あああ、ごめ、ごめん、このはくん、だいじょうぶ?」
「ッホ、ゴッホ、エホ」
「ど、どうしよう、何かのみもの」
「う、ンンン……だい、だいじょうぶ」
「本当に?」
彼女から心配そうに覗き込まれて、木葉はうぐっと内心呻きながらも無理やり笑う。名字さんマジでかわいい。彼女を安心させるために笑って、彼女の髪を撫でつけた。
「うん、本当に大丈夫」
「良かった。……木葉くんいきなり触るんだもん。びっくりした」
「あー……ごめん。思わず」
「嫌だったわけじゃないよ。でも、……あーゆことは、その、……」
彼女はプリーツスカートを整えるように、伸ばしながら立ちあがる。木葉も腰をあげて、未だに言い淀んでいる彼女の顔を覗き込んだ。
「あーゆことは?」
「ふたりきり、じゃないと……いけないこと、だと思う」
真っ赤な顔をして、そんなことを言う彼女に木葉は天を仰いだ。そんなこと、言わんでください。名字さん。さっき俺ちゃんとする、って決めたばかりなのに。
早々にちゃんとした道から脱しそうになるふたりに、痺れを切らしたお節介な仲間たちが突撃するまで、あと四十五秒。
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