肆
「名前ちゃんはなんで、そないにえっちに拘るん?」
「えっ」
保健委員の彼女はさぼり……、休養に来ていた治に唐突に尋ねられて、脱脂綿を床に落としてしまった。治にとって、尾白と彼女の存在は憧れだった。自分も付き合うなら、アランくんのように相手のことを大切にしたいと思った。いつまでも幸せにいて欲しい、と周りから思われるようなふたりに、なってみたいものだ。頬を赤くして、ごちゃごちゃの棚を整理整頓している彼女の横顔はとてもかわいい。アランくんが過保護になるのも、分かるわ。
「最初は何でも良かったんだ。アランくんが困らないワガママを言えれば」
「わがまま?」
「うん。私どうしても、アランくんに会いたいとか、寂しいって言えないの。
私の、そういう性格のせいで、
アランくんが寂しい思いしちゃって、別れそうになったことがあって」
「ええ、うそやん!」
「ほんと。治くんがまだ中学生の頃だから、知らないと思う」
彼女は振り返ると眉を下げて、目を伏せる。その悲しそうな顔に、よっぽど彼女の中ではショックな出来事だったのだと治は思った。治は転がっていた身体を起こして、彼女を呼んだ。ベッドの上へ躊躇なく座ろうとする彼女を止めて、治は慌てて丸椅子へ座る。その行動に彼女は不満そうに唇を尖らせた。やめて、名前ちゃん。俺がアランくんに怒られてまう。
「なんか距離をとられた」
「そらそうや。仮にも先輩のカノジョさんと、一緒のベッドにおられへんわ」
「ええ、治くんだよ?」
「俺やけど、変なことしぃひんけど、あかん」
「もしかして、今のアランくんみたら、怒る?」
「怒ると思う」
「治くんなのに?」
「……もしかして、名前ちゃん知らへんの?」
「な、なにが」
治は最近知った尾白の一面について、彼女に話すか迷った。それはたまたま見てしまったのだ。彼女の小学生の頃の、クラスメイトという男子生徒が、練習試合の相手に居たらしく、彼女と親しそうに話していた。昼休憩にわざわざ侑はそのことを尾白へと知らせに行った。「治分かるか?恋愛にはスパイスが必要なんや」「あんなそれ大きなお世話って言うんやで?」なんて会話を続けれないほどに、楽しそうな彼女を見つめる尾白の目は冷たく怖かった。侑がそっと治の影に隠れるほどだ。それから、ときどき意識をして、よーく、よおく見てみると、その目は侑と名前ちゃんが話してるとき、俺も例外なく、アランくんは怖い目をしとった。そんとき初めて、知った。
アランくんはめちゃくちゃ嫉妬深い癖に、めちゃくちゃ臆病なんや。いや、めちゃくちゃ優しいんかな。きっとアランくんは名前ちゃんの、『楽しい』を壊したくないだけ。名前ちゃんが転校生の頃の、イメージがまだ残っとるんかもしれへん。学生にとって、教室という一つの世界はとても広くて、狭い。何が原因で、何に繋がるか分からない。アランくんは人を傷付けることも、人が傷付けられるとこを見るのも、耐えられない人間だ。自分がいじられることはあっても、人をいじったりはあまりしない。いじると、いじめるの違いは本人にしか分からないことだって、あるから。
「アランくんな、俺や侑相手でも……ヤキモチやくってこと」
「うそ」
「ほんま」
「……もしかして、こないだの内緒話も」
「多分。こうやな」
治は気まずそうに、人差し指を頭の上に立てた。彼女はベッドの上にひれ伏して、頭を抱える。
「まあ、でも、名前ちゃんがアランくんに迷惑かけずに
ワガママ言いたいのは分かったんやけど」
「うん」
「ほんとに、それだけなん?悩み」
「……なんか、その、こないだも言ったけど、アランくん絶対私の誘い断るから」
「うん」
「私の事好きだけど、その、ベッドの上のことの方はあんまりなのかなって」
「え」
「女として、こう、自信がなくなってきて」
あかんやん。悪化しとるやん。アランくんに言えない気持ちを込めたワガママが、さらに悩み増やしとる。あかんわ。
「あー……俺はアランくんやないから分からんけど、名前ちゃんやっぱりここは正攻法や」
「せいこうほう」
「素直に当たって砕けるしかない」
「くだける」
「いや、砕けんと思うけど」
「ちゃんと話さなあかんよ、言葉にしんと分からんもん。人間って」
「治くん……なに、経験談?」
「侑と俺やって、話さんと分からん事あるよ」
「うっそ」
「ほんま」
「なあなあ」
「なんや、侑ちゃん。帰ってきたら、ただいまって挨拶せなあかんやろ」
「ただいまー」
「はい、お帰んなさい」
「これ、どこまで?」
「知らん」
カラカラと笑う尾白に、侑はこっそりと胸を撫で下ろした。どうやら、尾白の機嫌は普段と変わらないみたいだ。こないだの、尾白の一面を知ってしまってから、侑はついびくびくしてしまうのだ。侑にとって尾白は頼れるエースで、大好きな兄貴分だ。そんな兄貴分を悲しませることはしたくない。侑は尾白に勉強を教えてもらいながら、ひっそりと考える。ふたりの、ために、何か出来ないだろうか。ふたりきりの、部室は妙に広く感じた。
「侑はこんくらい俺に訊かんでも、出来るやろ」
「アランくんは俺のこと買い被り過ぎやわ」
「なんや今日の侑はえらい謙虚やな」
「俺はいつも謙虚に、健やかに生きてますぅー」
「で?」
「でぇ?」
「名前のこと、やろ」
尾白はぱらぱらと教科書を捲って、ぱたんと閉じた。侑は自分の背中にびっしょりと冷や汗をかいていることに、気付かなかった。尾白は息を深く吐くと、机に頬杖をついた。侑はときどき、思うのだ。いちねん、という期間はこんなに大きいんだろうか。こちらを見て笑う尾白はいつもよりも、大人っぽく寂しそうに見えた。一年という、壁はきっと俺が思っとるよりも、デカい。アランくんには一生敵わない。侑は「あーあー」と声を出して、机に閉まっていた足を外へと大きく広げた。
「俺な、アランくんと名前ちゃんのこと大好きやねん」
「お、おー」
「最初はアランくんの彼女って紹介されて、ほんまは気に入らんかったけど」
「名前のこと?」
「だって、俺らのアランくんやったのに、
どこの馬の骨とも分からへんぽっと出の女にやられへんよ」
「ちょお待て、俺はお前らのやないんやけど」
「けど、名前ちゃんめっちゃアランくんのこと好きやん。
アランくんも名前ちゃんのことめっちゃ好きやん」
「話聞けや」
「これは、もう応援するしかないって俺は決めた。泣く泣くや」
「知らんがな」
「だからな、そんな大好き二人が上手く行ってへんかったら悲しいねん」
「……」
本当に悲しそうに侑が眉を下げるものだから、尾白はついたじろいでしまう。侑は昔から、そうだ。誰よりも自由気ままの癖に、こうやって子どもを覗かせてくる。その姿は健気だと、勘違いしそうになる。尾白は視線を逸らして、思い切り頭をかいた。その仕草は侑と治に、彼女の存在がバレたときとそっくりだった。きっと無意識のうちに、尾白は彼女への想いを隠そうとしている。この重さに、気付かれたくない。誰にも、気付いてほしくない。それこそ、小さい頃から俺を純粋な目で尊敬してくれる侑と治には、とくにバレたくなかった。
「確かに俺はアランくんより年下やけど」
「……」
「アランくんが思っとるほど、子どもやない」
「う、……ぬ」
「これほんまは言うたら、あかんと思うけど。名前ちゃん悩んどった」
「名前が?」
「アランくんが誘っても、してくれへんって。
……アランくん、名前ちゃんとえっちするのイヤなん?」
「……」
絶句。まあ、まあ……尾白と彼女がそういうことをしている仲だと、周りは予想していても、思っていても、言わない。みんなの前では二人はどこまでも、穏やかだった。侑も、その一人だったはずだ。その証拠に、尾白は彼女との、そういったことを誰かに話したことも、相談したこともなかった。誰かに話して、彼女のことを知られるのが嫌だった。想像されるのだって嫌だ。空想だろうが関係ない。名前のことを暴いていいのは、俺だけや。
「嫌やない。何も気にせずに、犯したいくらい気持ちええわ」
「お、おう」
「引くなや」
「なら、なんで名前ちゃんの誘い断るん?」
「……や」
「なんて?」
「怖いから」
「???」
尾白は今でも忘れない。初めて彼女と身体を繋げた日に、彼女が泣きじゃくって身体を震わせていたことを。怖いんじゃない、苦しいんじゃない、痛いんじゃない。尾白のことを受け入れられない、自分の身体に彼女は腹を立てて泣いたのだ。一人の女を抱くということは、想像よりもずっと覚悟がいる。彼女を傷付けることに、変わりはない。避妊はもちろん、それ以上にもっと、もっと彼女の心を大切にしたい。彼女の誰にも、親にも見せないところを、俺にだけ明かしてくれるのだから、大切にしないといけない。それでも、現実は残酷で、彼女が尾白を受け入れるには長い時間を要した。
初めて彼女が尾白を受け入れた日。彼女は深く深く眠っていた。思っているよりも、彼女の身体に負担になる行為だと尾白は知った。そして、女の子の身体は分かりやすいぐらい不安な気持ちが反映される。彼女が今までにないくらいカレンダーを気にしていることに、尾白は気付いていた。好きだから、もっと知りたいから、仲を深めたいから、なんて綺麗な言葉で飾っても、結局その行為はひとつの命を生み出す行為には変わりない。彼女の心も、身体に不安に脅かすぐらいなら、いっそのことしない方がいいとも思った。思うのに、身体は、心は彼女を求める。
「怖いねん。
俺多分……一回我慢効かんくなったら、名前のことめちゃくちゃにしそうで、
怖いねん。情けないやろ?俺超ビビりや」
「な、あらん、くん」
「の癖に、少しでも名前の傍に男がおると不安になんねん。
バレーばっかしとって飽きられへんかなとか、キリがあらへん。
だからな、たまに思うねん。名前と別れた方がお互いのた」
「ふつう、や」
「侑?」
「普通やん!好きで、相手のことめちゃくちゃにしたいとか、普通やもん!
俺やって、思うし、アランくんはびびりちゃう、優しくて、
名前ちゃんのこと大切にしとるだけやん!」
「!」
「そりゃあアランくんは慎重すぎて、名前ちゃんとすれ違っとるかもしれへん。
でも、相手のこと好きで欲しくなるのも、不安になるのも、普通で当たり前やろ?
なんで隠すん?何にも情けないし、恥ずかしくもない」
「あつ」
「そないに恥ずかしいとか気にする方が、恥ずかしいわ!
好きな女とみすみす別れるとか、アホやろ!」
ふぅふぅと息の荒い侑に圧倒された尾白はかすかに背を反らしてしまった。侑はまるで離婚する父親と母親に縋りつく子どものようだった。
「そら、一方通行でこないに思っとるならやばいけど。
二人は両想いなんやから、ちゃんとせなかあかんよ」
「あつむ」
「ちゃんと二人のことは、二人で話して……俺二人が別れるとか、絶対認めへんから!」
尾白はきょとん、として、カラカラとさっきのように笑い始めた。何がおかしいんや!と半べそでキレる侑の頭をわしゃわしゃと尾白は撫でまわして、思い切り抱き締めた。
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