参
暑い暑い田舎の道に、道路のど真ん中に、小さな向日葵が咲いていた。尾白はついに自分の頭が熱さにやられたのだと、目元に手をかざして目を細める。その向日葵はこちらに寄って来て、尾白を下から不思議そうに見上げる。ゆらゆらと、白いリボンが揺れていた。ちゃうわ、向日葵ちゃうわ。
「アランくん?」
「名前やないか」
「名前以外の何に見えるの」
大きな向日葵のように彼女の頭には、涼し気な麦わら帽子が乗っかっていた。あれやなぁ、満開やなぁ。ぼーっとしている尾白に彼女は本格的に尾白の体調を心配して、汗ばんだ手のひらをスカートでさっと拭いて、尾白の大きな手を引っ張った。ざくざくと草むらが生える道を横切って、彼女は突き進む。七分袖から伸びる彼女の腕は相変わらず白い。小さな手に引っ張られながら、尾白はふわふわとしていた。なんだか、終わった気がしなかった。何もかも。中学の最後の大会も、部活も、全部全部。
「名前手ちっさ」
「アランくんが大きいの」
「生きとる?小さ過ぎて握っとる感じしぃへんもん」
「生きてますーあめんぼだって、頑張って生きてますー」
「せやなぁ、みんな頑張っとるよなぁ」
俺が勝った相手も、俺に勝った相手も、俺に負けた相手も、俺が負けた相手も。みんなみんな頑張っていた。その頑張りがあろうかなかろうが、結果というものは目の前に来てしまう。
「名前」
「んー」
前を進む小さな背中に伸びる髪は随分と長くなっていた。二人が一緒になって、一年経った。一緒に夏祭り、花火、秋には紅葉、冬にはクリスマスや年越し。家族と過ごすはずだったイベントに彼女がひょっこりと混じって、いつもより楽しくときには慌ただしく、時間は過ぎていた。そして、季節は巡ってまた夏だ。
「一年ってあっという間やなぁ」
「おじいちゃんしっかり」
「誰がおじいちゃんや」
「アランくんが」
「失礼やなぁ」
人が思い出を感じているのに、失礼な奴だ。彼女が振り返る。スカートから伸びる彼女の無防備なふくらはぎは平気なんやろうか。めっちゃ草刺さっとるけど。温い風がゆらゆらと緑色の葉を揺らして、尾白は自分が日陰に居ることに気付いた。彼女の首筋から鎖骨にかけて、汗が流れる。えっろ。尾白は無意識のうちに、彼女の腰へ手を回そうとしていた。
「アランくんがおじいちゃん」
「しつこ」
「アランくんがおじいちゃんになっても」
何回言うねん。そんな失礼なお口はちゅーして、塞いでまうよ、名前さん、なんてとぼけていると、彼女が穏やかに笑う。随分と大人びた笑顔に尾白はどくり、と自分の心臓が音を立てたのが分かる。
「一緒に居れたら、いいね」
「……」
「あ」
彼女は木に身体を押し付けられながらも、くすくすと楽しそうに笑っていた。尾白は彼女の本気なのか冗談なのか分からない言葉に、自分の卑しい欲求が恥ずかしくなって、消えて行く。彼女の大きな麦わら帽子に、尾白の頭がぶつかる。しょっぱいキス。薄手のワンピースはさらさらとして、手触りがいい。滑るように尾白の腕が彼女の背中に回る。彼女も頑張って、尾白の首に腕を回して尾白のキスに応える。触れ合うキスをして、唇を開ければ、尾白の熱い舌先が彼女の中へ入り込んでくる。待ち望んだ熱が暑すぎて、彼女は眉を寄せた。舌を絡ませようとしても、尾白の舌は彼女の口内を隅から隅まで確かめないと、絡ませてくれない。彼女は待ちぼうけをくらう。頬の内側を撫でられると、少しだけくすぐったい。
「んんっ……」
「……名前もうちょい口開けて」
「う、ん」
「あーん」
「ぁ、あーん」
唇を開ければ、飴ちゃんを放り込むように尾白の大きく熱い舌が差し込まれた。熱くても溶けない彼女のためだけの、飴ちゃんはいつも彼女の心も身体もどろどろに溶かしてくれる。それはとても気持ちがいい。切ない将来への不安も、全て忘れさせてくれる。彼女の麦わら帽子はいつの間にか、ぽとりと落ちていた。
昔よりも綺麗になった和菓子屋の近くにある小川に腰を下ろして、彼女は勝手に尾白の靴下も、靴も脱がせてしまう。尾白は相変わらずぼーっとしていて、彼女の好きにさせた。ジャージを捲って、尾白の足は冷たい川の中へと投げ出された。彼女はアイスを買って来る、と言って、パタパタと騒がしく足音が遠くなる。「防御力低すぎ」と言われた所為で、尾白の頭には彼女の麦わら帽子が乗せられていた。尾白は身体を倒して、麦わら帽子で顔を隠した。薄暗い隙間から、星のように日差しが散ってきらきらとした。
高校でもバレーはもちろん続ける。でも、中学のバレーは終わってしまった。とっくに前を向いているはずなのに、少しだけ尾白の心は寂しさと、喪失感が居座り続けている。
「アランくんアイスだよ〜」
とてもゆるい声に、尾白は自分の情緒がふにゃふにゃと滲んでしまった。彼女は良くも悪くも、俺の心に風穴を開けるのが得意だ。ゆっくりと身体を起こすと、水の跳ねる音がして、彼女も小川に足を突っ込んだらしい。昔ながらの、二つにわけるソーダ味の片方を尾白の唇に彼女は勝手に押し付ける。冷たい刺激に、尾白はびくっとしてしまう。彼女はケラケラと笑って、美味しそうにアイスを口に含んだ。
「なぁ、名前」
「うん」
「セックスしたいわ、名前と」
「……」
「……」
「いま?」
「ちゃう。もっと未来のお話や」
「そっか。私もアランくんとしたいなぁ」
「なぁ。俺らはまだまだ子どもやもんなぁ」
「そうだよ、まだまだ子どもだよ」
そうだ。まだまだ、なのだ。まだまだ、これからだ。今にもきっと、あの懐かしい焦燥感も、歯がゆさも帰ってくる。こんな時間はすぐになくなってしまう。彼女よりも先にアイスを食べ終わった尾白は垂れないように、頑張っているのに既に指先にアイスが垂れている彼女を見て眉を上げる。甘く冷たい。彼女の指先を舐めて、そのままぱくりと一口だ。残り全部食べられた彼女は文句を言おうと口開けた途端、アイスが入ってきた。冷たいアイスと、熱い尾白の舌が彼女をいっぱいいっぱいにする。ちくちくする草の上に押し倒されて、彼女は頬を赤くした。
「えっちな、ことするの?」
「うーん」
「迷わないでよ、だめだよ」
「うん、じゃあ、これで我慢しとくわ」
無防備な首元に尾白は吸い付いて、顔を上げる。彼女は怒らずに、困った顔をしているだけだった。夏休みだ。誰にも会わない。なら、と尾白は彼女の身体にたくさんの独占の証をつけた。
「アランくんその子だれ?」
昔から馴染みのある双子の一人に、恋人との逢瀬を見つかってしまい内心舌打ちをした。腕の中の彼女は気まずそうに、尾白の背の方へ移動を試みる。丸見えや。ちょこちょこと好奇心旺盛に向かってくる侑のシャツが思い切り伸びている。壁から、ひょっこりと……いや、ずるずると侑を抑えられずに治までも顔を出してしまった。急遽現れた宮双子に、尾白は頭をかいてため息をつく。「侑のあほ!ほんまにあほ!最低や!」と治は必死で侑を引っ張ったり、叩いている。侑はじーっと遠慮なく、彼女のことを見つめている。
尾白は彼女の肩を思い切り抱いた。
「俺の可愛い可愛い彼女ちゃんや。ほら、挨拶」
「あ」
「アランくんの彼女!?アランくん大人やん!」
「……ほんまに?彼女?アランくんに?」
「疑うなや」
「俺は宮侑!こっち治!」
「なんでお前が言うねん」
そこら辺の中学生よりも元気な二人に、彼女は目を大きくして眉を下げる。二人とも彼女より背が高いはずなのに、何だか小さく見えた。彼女が名前を名乗って頭を下げると、侑も治も慌てて頭を下げる。なんやろ。この微笑ましい光景。それから侑と治は合同練習や練習試合で、彼女のことを見つけるとこれまた遠慮なく声を掛けてきた。最初は戸惑っていた彼女も、だんだんと怯えずに寧ろ楽しそうに話せるようになっていた。尾白は思う。きっと自分の知らなかった性格を自覚し始めたのはその頃だ。
ひどく懐かしい夢を見たと尾白は身体を起こして、時計を確認した。明け方だ。まだ眠れる。横にはすやすやと彼女が安心しきって寝ている。可愛い寝顔にキスをひとつ。彼女の髪を払うと、背中にはくっきりと自分の証があった。誰も知らない。俺だけが知っている。酷いと、彼女の本来の肌色からかなり変色していた。尾白は今日も罪悪感を見ないフリをして、彼女の背中へ自分を刻む。
名前が他の男と笑っていると、心が落ち着かない。イライラする。最初はヤキモチだと済ませていた。拗ねている尾白に彼女は不思議そうに首を傾げる。彼女は尾白がヤキモチをやくという発想がなかった。尾白はバレーうんぬんを差し引いても、魅力的なヒトで、常にだれかに囲まれていた。優しくて穏やか、そしてノリもいい。そんな尾白に好きと言われただけでも、今でもときどき嘘じゃないかと思う。尾白の様子が変でも、いつもより可愛いく寄り添うぐらいしか出来なかった。アランくんは何を思ってるの?怖がってるの?私に何を、隠しているの?
ヤキモチが嫉妬へ変わって、彼女への想いが日に日にどろどろと、重くなっていくことに尾白は息が苦しかった。高校へ進学して、今まで以上にバレーに打ち込んだ。バレーに打ち込めば打ち込むほど、強くなれた。きっとバレーボール選手としては充実とした日々だった。恋人のいる男子高校生としては最悪だった。クラスが別れて、部活で忙しくて、彼女とまともに会えない日々が続いた。そんな中でも、彼女から「会いたい」とも、「寂しい」とも言われなかった。中学の彼女と部活が原因で別れたと、五月や六月あたりにその話題で持ち切りになった。その中でも、文句の一つも言わへん彼女ってええなぁと尾白は多くのチームメイトに言われた。その頃、尾白と彼女も例外なく別れ話をしていたことも知らずに。
「な、なんで?」
「……会えへんのに、付き合っとる意味が分からん」
「……」
寂しい錆びた音が響く。二人で何度も遅くまでお喋りをしていた公園のブランコに、尾白だけが座っていた。久々に尾白に呼び出された彼女は精一杯オシャレをして、会いに行った。慣れないコテを使ったせいで、火傷をした。マスカラをつけた目元は違和感もいっぱいだ。見ない間に大人っぽくなったなぁ、なんておどけて笑ってくれると思った。鎖骨や胸元が好きなくせに、肌が見えると分かりやすいぐらいに心配をする。心配だけじゃなく、機嫌もそんなによろしくない。そんなアランくんでも、可愛いって言ってくれるワンピース選んだのに。なんだ、この仕打ちは。
「私は会えなくても、アランくんのことが好きだよ。バレーに夢中なアランくんも好き……、
私なりに邪魔にならないように応援して」
「ほんまに、俺のこと好きなん?」
「え……」
「あんまりメール来んし、電話もや……、デートとかドタキャンしても何も言わへんし」
「だ、だって、疲れてるかなぁって、
それに確かにデートは楽しみだったけど、部活だからしょうがないじゃん」
「……しょうがない、な」
「あ、らんくん?」
「俺だけこないに名前んこと好きで、バカみたいや」
その言葉に、ぶちっと彼女の何かがキレた。この人は分かってない。どれくらい、私がアランくんのことが好きなのか。そして、尾白も同じだ。名前は分かってへん。俺がどんだけ名前のことが好きか。ふたりとも、互いに好きだと思う分、同じくらい優しかった。その優しさが独りよがりになってしまうほどに。
彼女は尾白のことが好きだからこそ、尾白の好きなことの邪魔をしたくなかった。何よりも、彼女が『尾白の彼女』という事はほぼ公認だ。先生だって、学年を違っても知っている生徒だっている。そのおかげで、彼女の生活は尾白アランで溢れていた。廊下を歩けば、尾白の先輩から尾白の調子が聞けたし、尾白の彼女と呼ばれることだってある。それは恥ずかしくもあったけど、嬉しかった。そして、まだ見ぬライバルへの牽制にもなっていただろう。だから、彼女は尾白ほどに自分を追い詰めなかった。
でも、悲しかった。尾白に自分の気持ちを伝っていなかったこと、尾白が本当の気持ちを教えてくれなかったこと。同じくらいに、尾白の悩みに、不安に気付けなかった自分に腹が立った。
彼女は顔を下に向けたままの尾白の顔を無理やり上に向けて、唇を奪った。強引に尾白の膝へ乗っかって、思い切り自分の胸を尾白に押し付けた。不意打ちで尾白はブランコから落ちそうになった。ブランコの鎖がうるさく音を立てる。ぽたぽたと彼女の涙が尾白の頬へ落ちる。涙ぐんだ赤い目が尾白のこと、じっと見つめる。好き、と。これ以上ないくらいに、語りかけられて尾白は彼女の腰を引き寄せた。荒々しい尾白のキスに彼女は夢中になって、尾白のことしか考えられない。この熱い欲求を、尾白に暴いてほしい。もう、我慢も何も、しないで。
「あら、ん」
「名前……」
「アランのこと好きだから、偽らないで」
「でも」
「傷付けてもいいから、好きにしていいから、私のこと、アランだけのものにして」
彼女と尾白が初めて、心も身体もひとつにしようとした日の出来事だった。
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