正直に言おう、私は本を読むような文学少女とは程遠い。小説とかの活字って苦手だし、私の読書と言えば漫画である。最近ハマっているのは、スポ魂漫画だ―――私、運動部じゃないんだけどね。そんな読書とは無縁な私が何故一ヶ月前に図書室で小説を借りたのか謎である。しかも絶対読まない自叙伝を。図書委員の金山から返却の催促をされなければ、一生忘れていた。慌てて探して、引き出しの奥に採点済みのグシャグシャになった英語の小テストと一緒に見つかった。改めて表紙を見たが、やっぱり読んだ記憶はない。本当に、何でこんな本を借りたんだろう。
重い溜め息を吐きながら、放課後の図書室を目指して歩く。友達はみんなさっさと帰ってしまった―――なんて薄情な!しかも天気は曇天で、今日の夕方から明日の朝にかけて豪雨だとか今朝のテレビで言っていた気がする。梅雨前線のこの時期、じめじめして気分も嫌になる。雨が降らないうちに本を返して、そして早く帰ろう。北校舎三階の図書室にはすぐに着いた。室内の独特の静けさが私はちょっと苦手。しかも人が居ないとか尚更不気味。早く返そうと受付カウンターに近づくが、こんな時に限って図書委員は不在である。おい、金山。…もしかしたら、室内には居るのかもしれないが図書室で大声を出すのはご法度。誰もいなくても、抵抗というものはある。自分で勝手に返却するのもありだが、残念ながらやり方がわからない。これは司書の先生か行方のわからない図書委員を捜すしかないのかもしれない。
気が重い…。って、いうかこれはもう早くには帰れないかもしれない。サイアク、と悪態を吐いたって許されるよね。

「近藤さん」

不意に苗字を呼ばれてドキッとした。呼ばれたことよりも、呼んできたその人物に対して、だ。この声が誰なのか聞き間違えるはずはない。だって、あの日から嫌でも意識してしまっているんだから。
恐る恐る振り返ってみたら、やっぱりそこには神崎 空がいた。ドキドキと胸が不吉な高鳴りをしているのがわかる。あの日、あの馬とも鹿とも言えない変な生き物を見てからいつもこうだ。ただ同じ場所にいたってだけで、神崎 空とあの生き物に何か接点があるわけではない。でも、あの日あの時から私は神崎 空に対して妙な違和感と得体の知れない不気味さを感じていた。

「どうかした?」
「あ、いや………本を、返したかったんだけど」

多分、いや絶対に今私の顔はひきつっている。よくわからない苦手意識を持っているからといって本人を前にして、この微妙な顔は失礼極まりないことぐらい私でもわかる。誤魔化すように持っていた小説を胸の高さにまで持ち上げた。幸いにも神崎 空は私の表情を気にしていないようだった。むしろ、事情を察してくれたようで本を返しておこうか、と申し出までしてくれた。

「え、でも」
「私、まだ残っているから」

気にしないで、と言われても気が引けてしまう。だが、結局私は面倒事(私にとってであり、彼女にとってはそんなことはないのだろう)を頼んだのだった。

「じゃあ………お願い」
「はい」

一度も読みもしなかった本を神崎 空に渡した。彼女は持っていた本と一緒に私の借りた本を受付カウンターに置いて、パソコンで何か操作を始めていた。何をやっているのか、私にはさっぱりわからない。あまりにも手慣れた様子に、神崎 空は図書室の常連なんだと察した───図書委員をやればいいのに、と思った。帰宅部は委員会に入ることが暗黙の了解になっているし、私だって嫌々ながら風紀委員に入っている。…毎朝早くに登校して挨拶運動をしたり、抜き打ちの服装検査をしたりで正直面倒くさい委員会に入ってしまったと後悔しているが、ぶっちゃけ他の委員会も同じようなものであり大した変わりはないのだが。神崎 空も帰宅部で、委員会所属だったはずだ。確か、

「神崎、さんって、委員会何だっけ?」

ふと私は彼女がどこの委員会所属なのか知らないことに今気づいた。同じクラスなのに。神崎 空は目を丸くして私を見ていた。あんなに忙しなくパソコンのキーボードを叩いていた手も止めている。そ、そんなに変なことを聞いてしまったのか。いや、だって普通委員会なんてそこまで意識しないじゃない?決めるときだって皆雑談していたし、自分と友達の委員会が決まった時にしか気に留めないじゃないか。クラスメートだからと言って、私と彼女はそこまで仲が良いわけでもない。話すのも今を含めてほんの数回だけだ。
…思えば私は、神崎 空のことを何も知らなかった。わからないのに一方的に知っているつもりでいて、得体の知れないものとして不気味がっていたのだ。自分の浅はかさに気づき、私は恥ずかしくて俯いた。きっと、顔は真っ赤だ。

「園芸委員会」

神崎 空は不思議そうにしながらも、答えてくれた。あぁ、そういえば彼女が玄関近くのプランターに水やりをしている姿を何度か見たことがある。すっかり忘れていた。「そ、そうなんだ」吃りながら納得し、再び沈黙が降りた。……私って、こんなに人見知りだったっけ。神崎 空は暫し私を見つめてから再びパソコンの操作を始めた。
そういえば、彼女はあの時告白された嶋田とは付き合っているのだろうか。あんなにも野次馬根性丸出しで友達と騒いで興味津々だったというのに、私は何一つとして二人のことを、いや神崎 空のことを何も知らなかった。私以上のミーハーな友達なら知っているかもしれないが、少なくとも此処最近友達の口から神崎 空や嶋田の名前が出たことはないはずだ。

「神崎さん」

不意に沈黙を破ったのは私だった。「はい?」と顔を上げた神崎 空の顔を見て、今更になって何で彼女の名前を呼んだのだろうと内心で激しく後悔した。

「な、何でもない!呼んでみただけ!」

呼んでみただけ、って。何を言ってるんだ私は。急激に熱を持ち始めた顔を隠すように彼女から顔を背けた。それからはもう全部勢い任せ。本の返却に礼を言い、駆け足で図書室を出る。その様子を偶然見た司書の先生から叱責されたが、それさえも今の私には気にもならなかった。
図書室を出る一歩手前。思わず足を止めてしまった。神崎 空が「近藤さん?」と声を掛けてきて、何と返事をしようか悩んだが意外にもその次の言葉はすんなりと出てきた。

「また明日!」

その場を逃げ出すかのように走り出した私をまた司書の先生が怒鳴っていた。言い逃げ、とはまさにこの事だろうか。
玄関まで猛ダッシュ、流石に疲れた。息が切れて呼吸も上手くできない。多分、これで私は彼女にとっておかしな人認定されたことだろう。今になって自分の行いを恥ずかしく思えて仕方がない。でも不思議と後悔はない。清々しいのだろうか。妙に胸の内はすっきりしていた。
ふと脳裏に浮かび上がったのは彼女、神崎 空だった。最後に見た彼女は呆気にとられたような顔をしていた。―――まぁ、私が唐突に訳の分からないことをしたのだから、当然と言えば当然の反応だ。

「神崎さん、か」

あんなに長く話したのは初めてのことだった。いつも、一言二言で済んでしまうほどのやり取りしかして来なかったせいだろうか、非常に新鮮で有意義な時間だったと私個人はそう思う。彼女ともっと話してみたいと思った。彼女のことを知りたいと、そう思った。
明日、また彼女に挨拶をして何気なく話しかけたらどんな反応をするだろうか。今日みたいに聞かれたことを答えてくれそうだな。でも、どうせなら彼女からも何か聞いてほしいとさえ思う。今から明日の朝が楽しみだった。溢れる笑みが顔をだらしなく緩ませていることを自覚しながら、玄関に出た。あ、やっぱりもう雨が降り出していた。ちょっとだけショックを受けるが、でもそれ以上に私の機嫌はよかった。神崎 空と仲良くなれそうな気がして、明日何を話そうかそれだけが私の頭の中を占めていた。だから、忘れていたのだ。あの時見た、あの得体の知れない生き物のことを。

「あ、」

それを思い出したのはまさに傘を差して歩き出した時だった。私以外誰もいない此処に、“それ”はいた。あの時と同じ、鹿とも馬とも言えない似て非なる生き物がそこにいた。あの時と違うと言えば、その生き物の鬣が長くちょっと不思議な金色で、身体が少し大きかったことだろうか。些細な違いだろうが、私が直視しなかった幻のような現実を再び思い起こすのには充分だった。
私は慌てて背中を向けていた学校の方を振り返った。図書室がある辺りを見て、そこはまだ明かりが点いていた。そして、もう一度目の前を見たがそこには誰も何もいなくて。

それからどうやって家に帰ったのか、あまり覚えていなかった。気づけば自分の家の自分の部屋に居て、呆然と立っていたのだ。何だったのか、あれは。何度も思い起こそうとしたが、そうする度に人知れぬ不気味さが背を這い上がるような感覚がした。あの日あの生き物を見てから神崎 空に対して感じたものと同じだった。
その日の晩は悪寒と震えが止まらなくて明け方までずっと自分の身体を抱き締めた。朝になってもよく分からない恐怖心があって、その日は学校を休むこととなった。心配した母がその日は一日中傍に居てくれて、なんとかその悪寒や恐怖心を収めることが出来た。次の日にはいつも通り学校に行くことが出来たが―――。



五日後、担任の口から神崎 空が行方不明であることを伝えられた。ちょうど私が彼女と話して、あの不思議な動物を見た日――― 一週間前から。家出だとか誘拐だとか、更には神隠しだなんて噂も出回り学校中の話題となったのは言うまでもない。警察沙汰にもなって彼女と最後に話したクラスメートとして私も事情聴取を受け、しばらく私や学校、いや、神崎 空と関わりのあったところは酷く騒がしかった。三ヶ月経った頃には、あの騒がしさは消え去り教師も生徒も彼女の名前を口に出すことはなくなった。そして中学を卒業し、高校へと入学した頃には彼女の捜索は打ち切られた、と―――そう風の噂で聞いた。



(ある少女の独白)

戻る