市ヶ谷駅の、日本棋院近くに小さな料理屋がある。料理屋、というには語弊があったかもしれない。古めかしい暖簾をくぐると、座敷席が4席分。カウンター席がいくつか。どちらも鉄板が置かれていて、暖かい鉄板料理を楽しむことができる。そこは東京の真ん中にありながら、ソースのいい匂いを漂わせていて常連客が絶えない。関西のだしにこだわったお好み焼きが先代から続く人気メニューだった。こじんまりとした店だったが女将と看板娘の二人で切り盛りしており昼夜共に繁盛している。特に看板娘の愛想がよく、聞いていて心地のよい、関西訛りの話し方が客にも評判だった。

年が明けたある1月のある日。その店の暖簾をくぐる男がいた。

「まだ大丈夫ですか?」
「は〜い!いらっしゃい!」

看板娘のナツはビールのジョッキを片手に少し立て付けの悪い引き戸を引いた客を見た。すると顔を明るくして「吉川先生!」と初老の男の来店を喜んだ。時刻は9時を回っていて、ラストオーダーの時間が近づいていた。標準語の行きかう店の中で、やさしい訛りの関西弁で男は話した。

「テーブル埋まってるんで、カウンターでもええですか?」
「ナツちゃんの顔見ながらやったら飯ももっと旨なるな」
「またまたぁ」

冗談を言いながら吉川は椅子を引いて腰を掛けた。ジョッキを客に渡し終えて戻ってきたナツは熱いおしぼりと冷たい水を吉川に渡した。吉川は悩む様子も見せずに「ほないつもの頼むわ」と、注文をする。返事をしてすぐにカウンターに戻り、焼きの準備に入ったナツは手早くお好み焼きの種を混ぜていく。その間も向かいに座った吉川はニコニコとナツの手つきを見つめていた。

「いつも来てもらってありがたいです」
「ナツちゃんがお父さんの味継ごうとして頑張っとるからな」

こっち来たら必ず寄ってしまうねん。そう言って吉川はもらったおしぼりで手を拭いて眼鏡をはずして顔に当てた。
吉川は関西棋院の棋士だったが、店の先代であるナツの父の既知だった。仕事で東京に来るときには必ず店に寄ってくれる、いわば常連だった。
豚肉を乗せて、コテを生地と鉄板の間に滑り込ませる。「よっ」と小さい声とともにひっくり返すと大したもんや、と吉川から声が出る。小さいころから顔見知りの吉川はナツがうまく生地を返せなかった頃から知っていた。毎度毎度言われてしまうと少し照れくさいものだ。
店秘伝のソースをかけて、少し鰹節を大目に振りかける。青のりもたっぷり、マヨネーズなしが吉川の好みだ。「お待たせしました」と吉川の前に出来上がったお好み焼きを寄せる。脇に置いてあった一味の缶も皿の横に置くとありがとうなあと優しい笑みが返ってくる。

「お父さんの味に近づいてきたなぁ」
「ほんまですか!いやあうれしいなぁ」

店も閉店が近くなり、ラストオーダーの時間を過ぎたことで落ち着きを見せている。たまに吉川が連れてくる弟子の話や、身内の話をしていると「せや」と思い出したように吉川が声を上げた。

「近々またこっち来るんやけどな、そん時また弟子連れて来よ思ってるんやわ」
「お弟子さん?」
「今年プロになりたてのやねんけどナツちゃんとも年近いし、こっちではようしたって」
「そうなんですか、それでいくつなんです?」
「今年で15」
「4つも下やないですか」

私から見たら君もそう変わらへんで、と言ってコテで切ったお好み焼きをそのまま口に運んだ。吉川が関西棋院の棋士を連れてくることはままあったが、年の近い若手を連れてくることはそうそうなかった。まあ楽しみにしときます。と言ってナツはコップに水を注ぎ足した。


東京の、市ヶ谷にある小さな鉄板料理屋。
店の名前は『四季』。先代の父が作り、ナツが継いだ、お好み焼きの名店である。