14.港町と安穏
「ん〜、平和ボケの香り!」
潮の香りを乗せた穏やかな海風を、目一杯吸い込む。
港には小さな漁船が静かに揺れ、海鳥が空を舞いながら、時おり優雅に鳴き声を上げた。
海は、降り注ぐ陽をたっぷりと受けて、やわらかく輝いていた。濃い青と淡い緑がゆるやかに混ざり合い、波は一定のリズムで岸に寄せては返し、ときおり岩に砕ける音が、低く胸に響いた。
どこを見ても争いの気配はなく、すべてが穏やかで、時がゆっくりと流れている――呑気なほどに。
「あ……ラーイにゃん!」
アスルは見知った人物を見かけると足音を立てぬようにそっと近づき、数歩手前で立ち止まった。海風が二人の間を吹き抜け、相手がふと顔を上げた。その目がアスルに気づいたとき、表情がわずかに和らいだ。
「アスル」
「見かけたから声掛けちゃった。ちょっとの間一緒にいていーい?」
言葉のあいだに流れる空気もまた、この町と同じように、静かで穏やかなものだった。
「いいけど……一ヶ月は船の上だぞ? アスルなら買っておくもの沢山あるんじゃないか?」
ライの指摘は当たっている。買い物好きなアスルが、その時間を惜しんでまで同行を申し出るのは珍しい。港町に辿り着くまでも、しょっちゅう寄り道をしてはティアマトに首根っこを掴まれていた。
「そうしたいところ、なんだけど……少し前に持ち合わせをほとんど使っちゃってさ〜、今貯金がすっからかんなんだよね……。チクショウ! 帝都デビューに向けてお洒落な服買いたかったのに!」
「それは……残念だったな」
くしゃりと貌を歪め項垂れるアスルを呆れまじりに眺めながら、ああ、と得心が行った。
彼女はふうと息を吐き、窺うようにライを見た。
「だから、散財の傷心に喋って気を紛らわせたいなーと」
ゆるりと首を傾げてみせる少女は、風に遊ばれる花びらのように掴みどころがない。だが、そこにはラグズであるライを一人にしておけないという気遣いが確かにある。——あるのだが。
ぱ、と笑ってウィンクすら添えてみせるアスルに、ライは少しのあいだ思案した。
「オレでいいのか?……てっきり、怖がられてるもんだと思ってたぞ?」
今度は細められた碧と紫紺の瞳がアスルを凝視する。言葉にこめられた感情には配慮がある。
「うーん、それはこっちのセリフというか……ねぇ?」
向こう側から届く声は、含みがありながら、朗らかだ。
「……オレは差別しない。そこは安心していい……難しい話かもしれないけどさ」
侮蔑を含まない真摯な声音に、アスルがひとつ瞬いた。髪が頬にかかり、細められた瞳がやわらかく苦笑した。
「……えへへ。やっぱり優しいね」
陽だまりで雪が融けていくように、アスルの目もとが蕩けていく。ライの眼はアスルを見つめ続けていたが、わずかに逡巡したように目線を横に向ける。
「あと、“それ”。無理しなくてもいいんだぞ?」
「……ライには全部お見通しかぁ」
アスルが一歩、足を進める。風の音が少しずつ変わる。帆のはためく音、どこかの家の鐘鈴の音、それらがすべて、波の音と混ざり合って一つの音楽のようだった。
ライは静かに数歩離れてついて行く。
「無理をしてるわけじゃないんだよ。ただ、お察しの通り、色々あってさ。その中で学んだことがある」
長い髪が風にほどけるように舞い、薄い外套がふわりと浮かんだ。
「美しければ無碍にされず。愛らしければ否定されず。価値があれば――“それだけ”で赦される」
ふいにアスルの足が止まり、振り向きざまにあえかな笑みを見せた。
「そんなにこれが綺麗だと思う? それが何でできているかも知らないのに。……惚けていると、喉笛を噛みちぎるものかもしれないのにね」
唇の端をゆるやかに引き上げ、陽の光に映える薄氷の瞳が楽しげに細められていた。問いかけは柔らかく、声も澄んでいる。晴天の髪が風にそよぎ、歩みのひとつひとつが舞うように軽やかだというのに、笑みの奥に潜むそれは、無邪気さを仮面にして牙を隠した何か。
決して笑みに蕩かされることのないライは眉を顰め、やがて、厄介事を目の当たりにしたかのような、行き場のない困惑とも諦観ともつかないものを、吐き出した。
「……苦労するな」
「でしょ? でもまあ、こんな具合であたしは上手くやっていけてるので、同情なんていらないし、する必要もないのです」
「……そっか。じゃあそうさせてもらう」
常と変わらない声音に、アスルは愉しげに瞬き、くるりと踵を返した。軽やかな足取りはまるで踊るようで、それでも背中には、静寂を纏っていた。ライはそれを眺めながら、不意をつくように尋ねた。
「しかし、なんでアスルは傭兵団なんかに入ったんだ?」
ぴたりと少女の足が止まる。風が一拍、止んだ気がした。
「もちろん、喋りたくなければ喋らなくてもいいぞ。好奇心ってやつだ」
ゆっくりと、アスルが振り返る。明るい笑みはそのままに――その瞳の奥は、どこか寂寞のようなものを孕んでいた。
「また会おうって、約束したから。約束守って追いかけてきたの」
明朗でありながら侘しさが滲む声が、アスルの唇から紡がれる。
「傭兵団に入ってからの生活も楽しいけど、あの頃も、楽しかったな」
「あの頃ってことは……もしかして、グレイル殿と旧知の仲なのか? ってことはアスルも昔ガリアに?」
漠然と、曖昧なまま語られる言葉に、核心に迫るような疑問が投げられられる。少女は無言で首を横に振った。
「――ここからは別料金だけど、聞きたぁい?」
「……いや、いい。悪かったな」
微笑んではいたが、貼り付けたような口元と、わずかに揺れた声の調子に、ライはすぐに気づいた。これは、自分が聞いていい話ではないはずだ。——理解を求められているのだと、言葉の裏に滲む真意を捉えたライはあっさりと退いた。
アスルはひっそりと、「ありがとう」と呟いた。
「じゃあ、あたしからも一つライに聞きたいな」
「ん〜?」
ライはふっと目を細めて相槌を打つ。
「君は、本心からベオクと交友を深めたいと、そう望んでいる? 国のためでなく、王のためでなく、君個人の望みとして」
直截な問いかけに、まさかこのようなことを聞かれるとは思わなかったのか、ライは目を丸くする。
「……さっきの質問の対価にしちゃ、少し不釣り合いじゃないか?」
「うーん、そうかも。等価交換にしては少し意地悪な質問をしてしまったね」
「いや、まあ、等価交換ってのは円滑な人間関係を築くための基盤になるものだから、それ自体は構わないんだけどな」
「けれど、だとしたら、もらいすぎるのも、与えすぎるのもだめ。でなければ、同じ目線で見られなくなってしまうから」
ふたりの言葉は静かに行き交う。それは理屈を交わしているようでいて、お互いの本心を探っているに等しい。
「……あたしから見たライは、ちょっぴり、与え過ぎている気がするよ」
アスルが珍しく真面目な表情でそう告げると、ライは気まずげに苦笑した。
「……ありがとな。もし本当にオレが与え過ぎているのなら、他のヤツが与えない分、バランスは取れてるさ。それと。さっきの質問の答えはイエス……ってことにさせてくれ」
「……そっか。ライがそれでいいなら、あたしがとやかく言うことじゃないね」
この話題については打ち切るべきだ、双方がそう思った途端、空気がゆるやかにほどけてゆく。
「……やっぱ、お店とか色々見て来よっかな」
「ああ、それがいいさ。港町だからな、色んなものが並んでると思うぞ」
「そうする。……あのね、ライ」
薄氷の瞳が物言いたげに揺れている。ほんのり光る涙の膜、震えるまつげ。――完全に演技である。
アスルは目に涙をためたまま、ライを見上げる。
「お金貸してくれない……? あと、さっき良さげな染物屋見つけたから、すこしだけ買い物付き合ってほしいんだけど〜……」
「……おまえなぁ。ツケだからなー?」
「やったあ!」
声が跳ね上がったかと思うと、アスルは水を打ったように涙を引っ込め、笑い声が小さく弾ける。
ふたりの間にあった目に見えない距離が、そっと縮まっていくのがわかった。