03.山賊と薄氷




 肺が腐り落ちるような悪臭は、そこがどういった事に使われているのかを鼻腔で理解させた。
 黴と、血膿。それらが壁に何年も何十年もかけて薄黒く染みこみ、饐えた刺激臭になって嗅覚や呼吸を苛むのだ。
 いつものように野草詰みを終え、買い出しを済ませて砦に戻ろうとしたところを数人の山賊に拘束された。たとえ武器がなくとも上手く言いくるめて立ち回ることは可能だった――ミストとヨファを人質に取られなければ。
 小さな小屋にすすり泣くような声だけが響く。
「しっかりしてヨファ! 男の子がそんなんでどうするの!
「だって……怖いんだもん……」
 両腕を縛める縄が触れ合うことを許してはくれなかったが、恐怖を分かち合うように身を寄せあった。ミストは視線をヨファからもう一人の拘束者へと映し、一瞬の困惑と不安をこぼす。
 アスルはじっと小屋の入り口を見据えていた。普段はとろりと甘く溶けそうな薄氷の瞳は、しかし今だけは底冷えするほどの光を孕んでいる。
「アスル……? どうし――」
「静かに」
 静謐な声が鏑矢のようにまっすぐ落ちてきた。アスルの口元から笑みが消えていた。いつになく真剣な面持ちの彼女を前に、ミストは湖面の瞳を揺らした。
 出会ってからはじめて、アスルに拒まれた気分だった。
(知らない人みたい……)
 何度も目にし、いつしかミストの胸に焼きついたまなざし。その見つめている先は、流れついた先で生まれる大きな渦なのかもしれない。
 そもそも、アスルが何者であるかミストは知らない。
 恩人の娘で身寄りがないのだと、グレイルはそれだけしか言わない。どんな人生を歩んで来たのか、グレイルといかにして縁ができたのか……私的な部分をアスルは何も語らないのだ。
 ああ、本当は……隣に並ぶのを許してはくれないひとなのかもしれない。
 わずかに過ぎった己の考えを否定してほしくて、再び言葉を形作ろうと口を開く。しかし、耳障りな音を立てて小屋の扉が押し開かれた。
「クソッ、こうなったらこのガキと女を……!」
 足を踏み入れた数人の山賊は、乱暴に服の襟を掴んでミストとヨファを立たせる。
「っ……、放して! 放してってば!」
「まずはガキ共からだ、そうすればアイツらも黙るだろうよ!」
「ひぃ……っく、怖いよぉ……」
 乱暴に扉が蹴られる。ミストが入り口を確かめるよりも先に声が答えた。
「ミスト、ヨファ、アスル、無事か!?」
「お兄ちゃん! みんな!」
 現れた人物は、ミストとヨファが会いたくてやまない者たち。苦しいほど胸が詰まり、ミストは意味もなく唇をわななかせることしかできなかった。ヨファもまた、二人の兄の救援に涙を零すのをやめていた。
「貴様、三人に何かしてみろっ! 絶対に許さんっ!!」
「うるせぇ……うるせぇうるせぇっうるせぇっっ!」
 山賊の声は震えている。怒りのあまり、表情を形作ることすら忘れているようだった。
「こいつらの命が惜しかったら、とっとと武器をこっちに放りやがれっ! でないと、この娘っコから順に……」
 ミストの喉元に斧を突きつけ、山賊は唾を飛ばして叫んだ。
 しなやかな曲線を描く刃が鈍い光をたたえている。数えきれぬ人間の脂を舐め、吸い上げた血が滴り落ちるような薄汚い斧だった。
「きゃっ……、い、いやーっ!!」
すすり泣くような、叫ぶような、悲鳴が反響し、空気を悲しげに震わせた。
 ティアマトの指示で皆はしぶしぶ武器を棄てるが、山賊の動きは止まることなくミストとヨファの喉元に当てがった斧をそこに突き立てようとする。皆の声を聞きながら――ミストは深い闇に瞼を閉ざした。

 次の瞬間、音よりも速く飛来した矢が、山賊の眉間に直撃した。
 口の端から紅の泡を零し、熟れ腐る果実のごとく血を散らせ、山賊たちは糸が切れたかのように次々と倒れていく。
 遠距離からの攻撃、狙った狙いを外さない――狙撃手の一撃。
「眉間に一発命中させる達人技! オレさま以外にいねーだろうがよ?」
「ひ、ひでえよ。副長も、シノンさんも……おれの鎧じゃ、そんな早く走れ、ねぇっ……てのに」
「シノン、ガトリー!」
 軽やかな靴音と、少し遅れて鎧の音。
 葡萄酒色の髪の狙撃手と青い鎧に金褐色の重歩兵の増援によって事なき事を得た誘拐騒動。
 そういえば――結局アスルの様子は何だったのか、縄を解いてもらったミストは、まず気絶したヨファを運ぶボーレを映し安堵の息を漏らすと、彼女を瞳に映す。
 キンと小屋を支配する喚き声が聞こえた。
「あー! 怖かったよお、シノ〜ン!」
 アスルはシノンの首にかじりついていた。すかさずシノンが少女の身体をひっぺ剥がす。
「やめろ! べたべたとひっつくな!」
「羨ましい光景なはずなのに、アスルだと途端に羨ましくも何ともなくなるんスよね……はぁ……」
「あはは、鎧じゃなくてその胸筋削ぎ落としてもいいんだぞ〜? ……チクショウ、今に見てろよッ!」
 口汚く地団駄を踏むアスルの隣で、シノンとガトリーが呆れ混じりに見合わせている。
(気のせい、だったのかな……?)
 水面の碧の瞳が物言いたげに揺れていると、アスルは一歩ミストに近づいた。
「ミスト大丈夫だった!? いや〜、怖くなると固まっちゃうんだよね。ミストもヨファも無事で良かったよ〜!」
 アスルは元気に声を上げた。そのままミストの両手を握り、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
 きらきらと光を振りこぼすような笑顔に、ふとミストの肩から力が抜けた。
(そうだよね、アスルも怖かったんだよね)
 普段通りのアスルがいることが嬉しい。こみ上げてきた切なさと喜びを素直に受け容れて、ミストは目の前の少女の手を握り返した。
――ところで、アスルはいつ縄を解いたのだろう?