04.魔女と少年
冬の余韻を残す、霧とも靄ともつかない、ぼんやりとした雲がもたらす仄暗さに酷似した薄闇が、そこには満ちていた。地を踏みしめる靴音ですら、そこに蟠る静寂においては際立つ。
十代半ばの小柄な少年が、服の襟に顎を埋め、低い屋根を持つ家々が集まる村を小走りに進んでいく。少年が歩を踏み出すごとに、癖のない艶やかな黒髪が軽やかに跳ねた。怜悧さを印象とする紅の目が、青褐の薄闇にまどろむ光景を撫でていく。
やがて、石造りの砦の前で少年は足を停めた。
王都から外れた田舎町には不釣り合いな雄壮さではあるが、近隣の住民からの信頼の厚い堅牢たる砦。求められれば、それに応じ、助けを乞われれば其の手を握り締める。勇敢で気高い傭兵団の住居。
突然帰って来た自分に、彼はどんな反応をするだろう――。ささやかな予想と思い浮かんだ蒼い髪の少年に、少年の目元がほんの少し緩む。
華奢なその背中へ、不意に透き通った水が滴るような声が投げかけられた。
「お帰りなさい。会えなくてとーっても寂しかった!」
緩慢でしかなかった少年の紅の目が、鋭さを帯びる。
「毎晩枕を濡らしちゃうくらい、寂しかったんだから……な〜んて!」
頼んだわけでもないのに熱烈な歓迎を受け、迷惑そうに睥睨する少年の様子など構わずに、声の主――アスルは無邪気に微笑みながら近づいてくる。
「これ以上近付かないでください」
「本当にセネリオ君は意地悪でつれないなあ。こんなにもあたしは――」
視線を逸らすことすらできない少年の目の前までやってくると、自称乙女は身をかがめ、鼻先が触れるような距離でささやいた。
「君のこと大好きなのに」
甘美な鈴を転がすような声に、名を呼ばれた少年は心底嫌悪感を抱いた。
「くだらない話に付き合っている暇はありません。離れてください」
「そんな言葉遣いをされたら、悲しくて悲しくて、せっかくのお願いも聞けないなぁ」
皮肉げな笑みを投げかけられ、セネリオは表情を一層固く、鋭くして告げた。
「――ならば、力づくで」
小脇に抱えられた分厚い本を視界で確認して、アスルの唇が引き攣る。セネリオは分厚い緑の上製本を開き、小さく口を動かした。
――風が咆哮を上げ立ちはだかる。
魔法。唸る風があらゆるものを阻み切り刻む破壊の力。セネリオを守るように纏われた風を間一髪のところで避けたアスルはぐったりと崩れ落ち涙目になって叫んだ。
「ちょっ……、危な! 乙女の柔肌に傷がついたらどうするつもり〜?」
「柔肌? ご冗談を」
緩く吹いた風が、セネリオの頬から口元へと黒糸を運ぶ。彼は外面はそのままに、怜悧さを研ぎ澄ましてアスルを見下ろす。
「この際はっきり言わせて頂きますが、僕は貴方が嫌いです。可愛くて特別な存在だと、自分にはそれだけの価値があると信じてやまない……。吐き気を催します」
紅い瞳が憤った光を孕んでゆらゆらと揺れる。ごく普通に吐き出された息すら、妙な風に見えた。
「――あらら、随分と嫌われちゃった」
穏やかな笑顔だった。しかし、ふと変わったアスルの声音に、セネリオは警戒を強めるかのように肩を強張らせた。
「特別かぁ。あたし、特別は好きじゃないな。だって窮屈なんだもん。それに価値がある者は演出することを知らない。魅せなくとも人なんざいくらでも集まるんだから」
女の、ふわふわと立ち上がり、振り返る様を、冷ややかな目でセネリオが見つめる。
静寂に衣擦れが湧き、とろみのある大気が揺らいだ。彼女から漂う蜜蝋のような甘い香に、彼は顔をしかめる。
「あたしはね、そういうのを誤魔化すような血や地位はもちろん、さりげなさやあそびで可愛さや美しさを演出するのは嫌いなの。見るものを振り向かせやすいかもしれないけど、所詮贋作。刹那的で儚い様なんて見せ場は一瞬だもん。
そういう偶像を大切にしたいのなら結構、ゴミ屑みたいに無価値なそれを大事に大事に手に包んで、一生無意味に持っていればいい」
アスルの目許が、やわらかさを帯びる。穏やかさを騙る女の声が、セネリオに纏わりついた。
「若くて美しいのは誰にでも与えられる武器ではないし、与えられたとしても永劫には使えない」
口元はこの上なく優しく微笑んでいるのに、アスルのまなざしはセネリオの心臓を確実に凍て付かせる。
「永遠に主張できるからこその美しさが好き。そしてあたしは、いつまでも若くて愛らしい。……ね、君もそうでしょう? セネリオ君」
セネリオの鼓動が激しく鳴り響く。言葉の意味を問い質そうする。アスルの遥か透き澄む凍てついた瞳がセネリオの顔を覗き込む――。
「……貴方は女神にでもなるつもりですか?」
セネリオは無表情を装ったまま、話題を転じた。アスルはひとつ瞬き、ふっ、と吐息のような笑みを洩らした。
「女神になら、もうなってるのよ」
一段低いささやきに、セネリオは思わず口をつぐんだ。
笑みの色を深める薄氷の瞳はとても澄んでいるのに――まるで舌なめずりする獣の前に差し出されたようなおそろしさに、ぞくりと背筋が粟立った。
やはりこの女は嫌いだ。女の汚いところをたくさん持っていながら、皆の前では無邪気に愛らしく振る舞ってみせる――セネリオを除いては。
自分だけが彼女の秘密を知っているような、それを彼女が喜んでいるような感覚が、たまらなく嫌だった。
「なんてね。ともかく、あたしと仲良くしといて損はさせないよ。セネリオ君」
いったい何を指しての忠告なのかセネリオにはわからなかったが、彼女に言い負けたような気がして、彼はくっと口を引き結んだ。
「……急ぎの用があるので、いい加減解放してください」
この後、傭兵団に帰還したセネリオよりデイン=クリミア戦争の勃発を伝えられ、アイクを始めとした団員数名は王都への偵察を命じられるのだが、それはまた別の話である。