17
お互いの文化を尊重し、繁栄を分かち合うことをここに誓う——かつて、クリミア国王ラモンとガリア国王カイネギスは、そう声高に宣言し、両国の「友好」を象徴するかのように固い握手を交わしたという。
血も種も違えど、同じ空のもとに生きる民が共に手を取り合う、未来への誓い。
その場にいた者たちは誰も反論しなかったが——心から同意していた者も、決して多くはなかっただろう。
民の間にあるのは、誤解と、偏見と、恐れ。信頼はまだ、根を張るには遠く、風に揺れる若木のよう。
その様を、直視する。
「聞け! この町にクリミア軍の残党が紛れ込んだとの報告があった!これより、町全体をデイン軍が封鎖する!」
整然とした行進音。海鳥が一斉に空へ舞い上がった。
デインの兵士たちが二列三列と通りを埋め尽くす。商人の店は板戸を閉め、住民は扉の隙間から祈るように覗いている。
敵兵は迷いなく町を分断し、港への道を封鎖する。
——瞬く間に、港町トハはデイン軍に占拠された。
町の変化を感じ取り、ライとフィリスは顔を見合わせる。足早に人々の群れを掻き分け、アイク達と合流する。船の準備が整っていることを伝え、これから傭兵団がすべきこと、講じるべき手段を手短に話し合う。……どうやら、ライは残ってカイネギス王に状況を報告することを選んだらしい。
その時だ。
不意に、ライがすれ違う住民とぶつかる。
若い女性の手が彼の肩に当たる。その勢いで、フードがふわりと風に舞い、ずり落ちた。
「ひっ!?」
次の瞬間、つんざくような悲鳴がその場を支配した。
視線が、そこに集まる。
露わになったのは、ライのしなやかに尖った猫の耳。滑らかな毛並みに覆われたそれは、ベオクのそれではない。
「半獣だ! 半獣がいるぞ!」
誰かの声が、凍りついた空気にひびを入れる。
ライに人々の眼差しが突き刺さる。誰かの視線は怯え、誰かの視線には嫌悪が浮かんでいた。
ライは慌ててフードをかぶり直したが、遅かった。
「なんで半獣がこんなとこにいるんだよ!」
最初の一言が、堰を切ったように差別と敵意を呼び込む。その場にいた者たちの目が、次第に獲物を追い詰める狩人のように変わっていった。
「穢らわしい!!」
乾いた声と共に、誰かが蹴りつける音が響く。
それは差別の仮面を被った、ただの不満のはけ口のようでもあった。
袋叩きにされて尚、ライは抵抗しなかった。唇を噛み、膝を折って地面を見つめながら、ただひっそりと耐えている。反撃すれば、それが次の火種になると知っていたからだ。
——こんなことは間違っている。あまりに馬鹿げていて、早急に是正されるべきだとフィリスは思う。
選択を迫られる。このまま放置すれば、ライは人々によって蹂躙される。されど、戦う術を持たない民間人を傷つける事など、あってはならない。庇い立てて騒ぎを大きくすれば、デイン軍に見つかってしまう。そうなれば、事態はより最悪なものとなる。
モウディとレテは静観を貫いている。苦悩するアイクは、引き返そうとして彼らに諭される。
本当に、それでいいのだろうか?
思わずライを見ると、先にフィリスを映していたオッドアイとかち合った。すべてを見透かすようなまなざしが告げる。——手出しは無用だと。
「ライ……」
残酷さを理解していながら、太刀打ちできない現状に、唇を噛み締めることしかできない。
火が点いたように胸が熱くなる。諦めという決意を拳に握りこみ、一歩後退して——その刹那、息を吸いこんだ音が聞こえた。
「やめろ! どけ! そいつに手出しするな!」
ライが瞠目した。
その声は鋭く、群衆の怒号を切り裂いた。
飛んできた声に、人々の動きが止まる。それは静止を振り切ったアイクだった。
彼は駆け寄ると、寄ってたかって暴力を振るう人々を剥がし、ライの前へと立った。
蒼い目はまっすぐで、その手はためらわず、ライをかばうように前に広げられていた。
この行為は自らの首を絞めると、分かっているだろう。しかし、例え護衛主や傭兵団を危険に晒す結果になろうと、“そうしなければならない”という感情一つで、アイクは動いたのだ。
アイクの叫びは真摯だった。だが、民衆の目にはその声が届かない。群衆の空気がぴたりと止まり、数人が顔をしかめる。
「半獣に肩入れか。怪しいもんだな」
「こいつ、軍の残党ってやつじゃないのか?」
ざわめきが再び伝播し、今度はアイクに疑念が向けられた。最初は非難の言葉だけだったものが、次第に告発の声へと変わっていく。
「兵を呼べ!」
町の人間は、自分たちが“正しい”と信じていた。半獣よりも、同じ人間。半獣を排除するのは当然。半獣と手を組むからこのようになるのだ——そこには正義も秩序もなかった。
フィリスは拳を握りしめた。怒りと悔しさと、同じ人とは思えない所業に。指先が白くなるほどに、強く。
「いてて……あいつら容赦なさすぎだろ」
ふいに響く、陽気さを保ったままの声に顔を上げれば、ライが逃げ込むようにやってくる。
「ライ……!」
「ちょっと敵さんをひっかき回してくるからさ、回復、頼めるか?」
「は、はい!」
促す声は思いがけずやさしかった。フィリスは慌てて杖を取り出す。
静かに杖を掲げ、祝福を唱える。先端にあしらわれた青白い水晶が、淡く脈打つように輝き出す。そこから柔らかな光は、まるで陽だまりのように温かく、優しく傷ついた肩へと降り注ぐ。
裂けた皮膚は閉じていく。しかし、血の跡は残ったままだ。それが痛々しくて、思わず目を逸らす。
「……ごめんなさい。私、ライを助けることが出来ませんでした……」
悔しそうに眉根を歪ませるフィリスを前に、ライは首を横に振った。
「謝らなくていいって。あそこでは手を出さないのが正解なんだ。レテとモウディも手を出さなかっただろ?」
「……ですが、アイク殿は……」
「あいつは考えなしなんだよ。ったく、なんで出てきちゃうかなあ……」
口では咎めつつ、ライの声音にはアイクに対する親愛、そして信頼が滲んでいる。気さくでありながら簡単に心を許すことがないライが、出会って間もない人——それもベオクに対し、ここまで気を許しているのは珍しい。……胸の奥が微かにざわめいた。
「……さて、ここでお別れだ。傭兵団の奴らと脱出して船に乗るんだぞ。いいな?」
この言葉にフィリスは眉を下げる。ここで別れたら、暫くは会えなくなる。
「……はい。……あの、何かあった時のために、こちらを。塗り薬と、煎じて飲めば鎮静や安眠効果のある薬草と——」
堪らず、フィリスは小さな布包みを差し出した。中には、乾いた薬草がふわりと香るように入っている。
「ちょ……多い。多いって! これから長旅で大変なのはそっちなんだからさ、大事にしろよ」
「それは、そうなのですが……」
船旅に備え支度は済ませた。とはいえ、海は気まぐれで、何が起こるか分からない。エリンシア姫から報酬を支払われてはいるが、グレイル傭兵団は元々資金も装備も十分とは言いがたい。
「……薬草はいいから。代わりにこっちを貰ってくよ」
ライはフィリスのベルトにひっそりと吊るされたそれを手に取る。それは、手のひらにすっぽり収まるほどのサシェで、薄い紫色の布地に水色のリボンが丁寧に結ばれている。結び目を軽くなぞると、清らかな花の香りがほのかに漂った。
フィリスははじめて人を殺めて以来、咽せ返すような薬草の香りでその身を炊き染めている。まるで、血の匂いを隠すかのように。それでも、彼女が育てた花々を詰め込んで作られたサシェは、昔と変わらない芳醇さを醸し出ていた。
「これを持ってればフィリスにもオレが近くにいるって分かるかもしれないだろ?」
言葉とともに、ライはを胸元にサシェを近づけてそっと息を吸い込んだ。香りが、記憶の奥に静かにしみ込んでいくようだった。草を撫でる風、彼女とひと時を過ごした家、クリミアの花畑——そんなものが、一瞬で心に満ちる。
「……ふふ、どうでしょう。嗅覚に自信はありませんが……」
「ま。オレの方はどこにいても、フィリスのこと分かるんだけどさ」
間者の存在もあるが、猫の民は元より、人の気配を敏感に感じられることが出来る。どこに居ようと大気に巡る気を感じ取って、その者の存在を確かめる術に長けている。——尤も、それは同種族間での話であり、ベオクには適応されない。けれど、フィリスがライを感じられる場所にいたいと言ってくれたように、強い絆で結ばれた者同士ならば、本当に感じ取れるのではないかと、ライはそう思ってしまうのだ。
「——必ず迎えに行く。生きて戻ってこいよ」
一瞬、指を絡めるようにフィリスの手が捕らわれ、すぐに離される。見つめ合ってふたりは笑った。許された時間はもうわずかだと、言わずともわかっていた。
「……貴方に、女神の加護がありますように」
ライの穏やかなまなざしを焼きつけて、歌うように澄んだ声でフィリスは祈りを紡ぐ。
慈悲深いとされる女神が、勇敢な戦士を守ってくれると信じて。