16
かつて交易で栄えた港町トハは潮風と賑やかさをもってグレイル傭兵団を迎え入れた。
小道には商人の声が響き、民家からは笑い声が漏れてくる。市場では新鮮な魚が並べられているが、輸送手段が不足し、道路が破壊された影響で流通が滞っている件に関して、肩を竦めていた。
港には船の帆を張る航海士の姿があり、酒場には昼から酔った船乗りたちが賑やかに歌っている。彼らの歌に、デインの話は一つもない。酒場の奥では、老いた吟遊詩人が物語を語っていた。
トハには自警団が存在するが、その団員たちでさえ、昼寝の方が大事だとばかりに日陰であくびをしている。
「王都が落ちた? いやいや、この町には来ないさ」
「敵が来る? 海から海賊がやって来るの間違いだろう!」
東から黒い鎧は着実に近づいているというのに、デイン軍の動向を語ればそんな冗談が真顔で交わされる。
トハの人々は、まだ夢を見ている。この町に限って、戦争なんて関係ない、と。
「本当に呑気なもんだ……」
港の一角——古い倉庫裏の桟橋に、紛れるように一隻の帆船が停泊していた。
「うんうん、立派じゃないか」
ライは揺れる帆柱が風に軋むのを見上げていたが、やがて視線を落とし、そばでロープを締めている男に声をかける。
「安全運転で頼むぜ? “船長”」
辺りを警戒しながら、ライは素早く袋を手渡す。その中には、金貨が沈んでいた。ローブを深く被った男は中を確認することなく袋を懐へ押し込み、口元に笑みを浮かべる。
「任されたよ。出港まではまだ時間もある、君も支度を済ませるといい」
「そんじゃ、そうさせてもらうかね。……もし、オレが同行できない時は、傭兵団のことを頼む」
スン、と鼻を鳴らせば、潮の香りに焦げた油と鉄錆の匂いが混じる。……ベグニオンへの旅にも同行するつもりだったが、ここ最近のデイン軍の動向は見過ごせないものがある。王たっての希望で、船にはガリアの間者——目の前にいる男を手配した。同行せずとも傭兵団の動向は彼を通じて知ることが出来るだろう。
だが、船に乗らず残る可能性も出てくるとなると、出港するその前に、ライにはやっておくべきことがあった。
「あー、厄介な奴に捕まっちまった……」
——フィリスと話をしよう。
そう決意したものの、とうとう捕まえられないまま出港まであと一刻となってしまった。
市場通りに足を踏み入れた瞬間、傭兵団の団員の一人に声を掛けられ、その買い物に付き合わされた。小道にある、潮と藍の匂いが染み込んだ染物屋には随分と長い時間滞在した気がする。
気を取り直し、様々な匂いが満ちる港町の中からただ一人の匂いを嗅ぎ分けて、ライはそこに辿り着いた。
敷物の上に商品を陳列しただけの露店。香草と瓶詰めの保存食を主として並べられたそれを、フィリスは真剣な面持ちで見つめていた。手に持った袋からは焼き菓子の甘い匂いがする。
「お嬢ちゃんの小遣いで買えるものもあるよ。贈り物にどうだい?」
「せっかくですが……申し訳ございません」
「おやおや、残念だねえ……。ああ、そこのお兄さん。旅のお供に保存食はいかが?」
逃げられないよう慎重に歩み寄り、フィリスの背後に立ったところで、露店の主である農婦と目が合う。農婦はにっかりと笑ってみせた。
「あんた、……よく見ると色男だねえ。サービスするけどどうだい」
「嬉しいねえ。どうしよっかな〜……っと、どこ行くんだ?」
標的を変えたことを察したフィリスは、踵を返そうとして——背後で聞き覚えのある声を耳にする。驚きを隠しきれないまま凝固したところを、即座に一歩踏み出したライが捕える。
「や〜っと捕まえたぜ……」
フードを目深に被り、顔の半分は布で覆われているものの、紛れもなくフィリスがよく知る顔だ。ライを認識した途端、フィリスの口元から笑みが消え、その目が暗澹にゆらいだ。
「……貴方との関係は終わりました。どうぞお構いなく」
ライの手を振りほどくと、フィリスはライが動くよりも早く人混みの中へズカズカと歩き出す。避ける者を気にかける様子もなく、露店の合間を縫って、まるでライから逃げるかのように進む。
「あっ、こら。待て……!」
反射的にライも足を踏み出す。行き交う人々をすり抜け、その背を追う。
「……あの時は悪かった。ああでも言えば考え直してくれるかもって思ったんだが、言い過ぎた」
「私はこの場所で己のやるべき事を見出しました。貴方は重荷が減り、自身の務めに集中できる。良いではありませんか」
そんなやりとりの合間も足を止める気配はなく、フィリスは迷いのない足取りで市場の喧騒を抜け、裏通りへ踏み込む。
「オレは、おまえが重荷なんて思ったことは一度もないぞ」
「『いつ裏切るやも分からない帝国の伯爵令嬢』を、純粋な厚意だけでお側に置いてくださったわけではないでしょう?」
「確かに、最初はそういった打算もなかったわけじゃない。それは認める。けどな、オレにはどうやったって、今のおまえが裏切るようには見えないんだ。だっておまえはあの時、あの場所で、オレにそう誓ってくれたじゃないか」
追って曲がった路地の先は、袋小路だった。
行き止まりの石壁が行く手を阻み、屋根の影が陽を遮る。ぴたりとフィリスの足が止まった。
「……それは、ガリアにいる限り。では?」
……流石にここまで言われては、叱らずにはいられなかった。
「——フィリス。いい加減にしろよ」
低く、静かな声が、路地の冷たい石壁に反響する。フィリスの肩が、わずかに上下した。
ライは一歩距離を詰め、その腕を引いて、こちらへと振り向かせる。
蒼白な表情で言葉を失っているフィリスに気付き、ライはふと口を噤んだ。
しばらくの沈黙。市場の喧騒が、遠くでかすかに響いている。
「……ごめんなさい。言葉が過ぎました」
体の底から震えが湧き上がり、みるみるうちに膨れ上がった熱は、弾けると涙となってフィリスの頬を伝い落ちていく。
「……ライが、私を案じて言ってくださっているのだと、分かっております。けれど、この足はどこまでも駆けていくものでありたいのです」
ライは何も言わず、紡がれる言葉をじっと聞いている。手を伸ばし、労わるように零れる涙をそっと拭い取る。
「グレイル殿が亡くなった日、傭兵団の方と一緒にいました。その時、ミストが言っていました。『自分の知らないところで死んでしまった』と。……ずっと、引っかかっていました。もしかしたらライも、もう二度あの家の戸を叩いてくれないのではないかと……根拠のない不安ばかりが頭の中を巡るようになって、怖くなりました」
ライの大きな掌が躊躇いがちに頬を撫でる。フィリスはその上から手を重ねると、震えそうな双眸でライを見上げた。
「そこが戦場だとしても、良いのです」
その目に宿るは、火の粉のような烈しさを秘めた熱情。
「人を殺めて、例え煉獄に往くのすら赦されなくなろうとも、良いのです。家の中で帰りを待つより、少しでも貴方と繋がりが出来るところがあるならば、そこが良いのです」
溢れ出る感情に胸が詰まる。フィリスはしゃくり上げながら、顔を歪める。
「……ライの存在を感じられる場所に、いたいのです」
あの自分の感情を滅多に口にしない妹分が、自分の胸の内を語る日が来るなんて。
——いつの間に、こんなに大きくなっていたのか。
ライはふっと息を漏らし思わず苦笑する。
「……まったく、そんな言葉どこで覚えたんだよ。そもそも、言う相手を間違えてるんだって」
堪えきれずに俯くフィリスを、ライは優しく抱き寄せた。フィリスはその胸に顔を埋め、彼の外套をきつく握り締めた。
「……いえ、間違えていません。私は、ライに——」
「いいか? そういうのは、将来本当に好きになった奴に言うんだぞ?」
フィリスにとってライは多感な少女時代の大半を共に過ごした父であり兄である。例え血が繋がっておらず、種族が異なろうが、確かな情愛が、絆がそこにはある。
「……フィリスは、ライのこと、好きなんだと思います。側にいなくては気になって仕方がないこれは、紛れもなく好意であると認識しました」
「……うん。そうなるよな」
しかし、感情とは理屈でない。思考の海へと沈み、然る後に理論づけたがるところがそもそも間違いである。
「……ま、ひとまずは受け取っておくとするか。返してもらいたくなったら言えよ? きちんと返すから」
「……よくわかりませんが、わかりました」
フィリスの涙はすっかり引っ込んでいた。ライはそっと腕の力を緩めると、少女のぬくもりは名残惜しそうに離れていった。
「……手、貸してみな」
「手ですか?」
言われるがまま差し出された手から手袋を外し、少女の繊手に自身の手を合わせるようにして触れる。ふわりとした柔らかさと、ぬくもりが伝わってくる。
これは、『命を奪う』ことを覚えた手だ。この手が曇りなき手でいてほしかったなど、きっとエゴでしかない。
何も出来ないことは悪いことではない。けれど、それを「悪」と定めてしまった時から、そうなる事は必然であったのだろう。
しかし、赤黒い彩を重ねていくのだとしても、この手を握り返してやれる存在でいたいと、ライは思う。
「今からお前が行くのはベグニオン帝国だ。分かっているな?」
「はい」
「デイン軍の状況によっては、オレはベグニオンまで同行できないかもしれない。……それでも行くか?」
フィリスは迷うことなく、真摯な面持ちで頷いた。
「今は、傭兵団の方にお力添えする事が、私に出来る全てです」
距離が離れたとて、永遠の離別にはならないと信じている。戦を通じて、互いの存在を感じることができるのだから。
……それならば。やはり、そこが良いと思った。
「お役に立てるよう、尽力いたします」