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 起き上がれない。歩けそうにない。両腕で床に這い蹲って身体を動かした。ラグズは“それ”が何たるかを理解していなかったらしい。取り上げられなかったのは僥倖であった。
 弱々しく腕を伸ばした。指先が、床に転がった“それ”に――杖に、触れた。
 つぶらな瞳ですがるように杖を見詰め、少女は今持てる精一杯の力を込めて握り締めた。
 ――女神よ。
 全身に流れる魔力がたちどころに傷を修復していく。それは奇跡と形容するに値する力ではあるが、清廉な祈りによって成り立つ治癒魔法の一種であった。
 気を失いかける程の鮮烈な痛みはとうに鈍くなっている。か細い呼吸を整えながら、思考する。今やるべき目標を決める。
 ここから出なければ。誰かに見つかる前に――!
 ゆっくりと膝を伸ばし、一歩一歩確実に歩を進める。床を踏みしめるたびに、重い何かのしかかっているかのような不快感が襲う。傷は綺麗に塞いでくれるが、失った体力まで癒えるわけではない。しかし、疲労を感じている暇はない。ここにいれば、もう一度彼らと遭遇すれば、今度は傷付くだけでは済まないかもしれない。
 壁に手をついて部屋の入り口まで辿り着いた。取っ手に手を伸ばし――扉が軋んだ。
まだ取っ手に触れていない己の手を確認して、目の前が真っ暗になるとはこういうことなのだろうと漠然と思った。
 絡まる髪は邪魔だからと切った。ただひたすらに馬を走らせる日々は、どれくらいの時が経ったのか途中で考えるのをやめてしまった程だ。初めて体験した苦難を得て、得たものは背中に受けた痛みしかない。
 もう逃げ場がないことを悟って、少女は弱々しく蹲った。
 ――密やかに夢見る少女という年代に終わりを告げたかった。
 自己満足でしかなく、ちっぽけな自尊心を満たそうとしているだけなのかもしれない。
それでも、蔓延る悲しみを少しでも多く掬い取れる可能性がそこにはあった。ただただ、救いたいと思った。
 愚かだと嘲笑われようとも。所詮は小娘だと哀れられようとも。
 歴史に理没するような雑作のない行動であると自覚しながらも、力を入れて薄ら氷を割った。
 ゆめうつつに揺らぐ時間を終え、地に足をつけ根を張るべきなのだと、愚直なまでに信じていたのだ――。
「……子供じゃないか」
 不意に、鼓動が弾んだ。視線が少女を捉えている。見られていることが感覚で分かる。
 顔を上げるのが厭だった。おそらく、執着や固執といった以上の意味を持たない。綺麗でしかない理想を、机上の空論を、咲き零れる花を頭に詰め込んだ、何も持たない、何も刻めない自分を見られるのが厭だった。
 もうどうにもできない。押し潰されそうな沈黙は、羞恥となって少女の瞼を固く閉ざす――。
「よーしよし。そんなに怖がらなくても、食べたりしないから大丈夫だぞ」
 投げかけられた言葉は、身を引き裂くような痛みではなく、ただただ少女の身を案じただけの、優しいものだった。
 反射的に少女は顔を上げ、目を合わせてしまった。
 視線を逸らすことができない。水縹色の髪も、どこまでも透き通った碧も、どこまでも深い紫も、洗練された美しい色彩だった。
「傷、痛くないか?」
 柔らかく耳元で触れた声に、どう返せば良いのか分からない。けれど、頭を撫でてくれるその手の暖かさに、ここに来れたことへの幸運を……心の底から女神に感謝した。



 そのベオクは、ベグニオン軍人でなければ、嫌悪感や敵意を抱いた大人ですらない、今にも崩れ落ちてしまいそうな子供だった。
「戦えない子供を捕虜扱いか。……我が王が知ったら、どう思うかな」
 朗らかな声が石造りの廊下に鋭く、涼しく反響する。その冷たさに戸惑う部下を入り口に待機させ、ライは岩と馴染んだ佇まいの戸を閉ざした。
 どうしたものかと考える。とにかくまずは、緊張をほぐしラグズに対する恐怖を少しでも取り除いてから、対話に持ち込もう。その為には一対一で親身に接するべきだと判断しての事だった。
 少女の表情はどこか苦悶が浮かび上がり、呼吸も少し荒い。――そこでライはある違和感を覚えた。
「……ん? あれれ? 傷が治ってる?」
 問われた少女は、握りしめていた杖を掲げてみせた。知識としては持ち合わせているベオクの魔術の一つ。瞬く間に傷を癒す癒しの杖。成る程、とライは驚嘆する。
「ガリアの奴らはベオクの武器を侮ってるから、杖の効能を知らないやつも多いんだよな〜。いやはや、良かった良かった」
 その言葉には、何の打算もなかった。ただ少女の無傷を喜んだ。傷付く人を見るのは厭だという、単純で当たり前な感情をベオクに抱くのは、ライ以外には困難なことである。
「……貴方は、ベオクが嫌いではないのですか?」
 ライの頬を、羽がかすめるように伸びてきた繊手が掬う。驚愕に目を瞠るライの双眸に、その清艶が映り込む。
「こうして触れられることが、嫌ではありませんか?」
「子供に慕われて気を悪くするお兄さんなんていないだろ? ……いや、いるかもしれないけど。少なくともオレは嫌じゃないぞ」
 呆然とライを見つめていた少女は、ゆるく、笑みを零した。つくりの甘い、青と緑の鉱石を蕩かして混ぜたかのような目に、細く柔らかな水色と紫が彩られる。
「……あの。このような立場でありながら、不躾だと分かってはいるのですが……お願いが、あるのです」
 少女はうっそりと瞳を細め、ライの顔を覗きこんだ。あどけない少女の顔立ちのまま、大人びた表情で訪ねた。
「オレにできることで良ければ」
「この地で暮らしてゆきたいと考えているのですが、その為にまずどちらに向かえば良いか、教えて頂けませんか?」
 意外すぎるほどに意外すぎて、あまりにも突拍子も無い“お願い”に、ライはしばし絶句した。
「……ん?」
「やはり、王に会わねばなりませんか? でしたら、謁見を賜りたいのです」
「あ〜……えーっと……。お嬢ちゃん、家はどこだ?」
「帰る家などありません」
「いや、いやいやいや……」
 ……そもそも、如何様にしてこの国へ足を踏み入れたのか。
 悠然と泰然と、笑みを零す。どんな思惑があるにせよ、少女が己の意志でガリアへとやって来たのは明白となる。
「あのな、お嬢ちゃん。ここはラグズの国だ。ベオクのお嬢ちゃんが暮らして行くには、些か厳しい土地だぞ?」
「存じております。ですが、僅かながらベオクが住まう集落があるとも伺いました」
「確かにベオクが住む村はある……けどな、共存してるとは言い難い」
 おどけているような、からかうような、飄々とした響きが、不意に冷徹で酷薄なものへと変化していく。
「村に住む殆どのベオクはラグズを恐れて顔色を伺ってるし、獣牙の民は血の記憶からベオクを憎む。なんでかは……」
「存じております」
 叩きつけられる現実を、平然と、少女は受けとめていた。
「お嬢ちゃんがどういう気持ちでガリアに来たかは知らないが……遊び半分で、生半可な気持ちなら、お嬢ちゃんが傷付くだけだぜ」
 落ちてくる声は厳然としていても、相手が子供であることを決して忘れてはいない陽気さがある。彼はさも痛々しいものを見るように眉宇を曇らせる。
「家出だったら日の落ちる前に帰った方がいい。襲われないとも限らないし、国境付近までは送っていくからさ」
 あくまで朗らかに、ライは穿つ。その言葉を口にすることへの迷いはあったが、先程の、初めて目に映した彼女の姿を思い出す。頭を項垂れるその姿は脆弱そのもので、伸ばされた腕は枯れ木のように細い。ただ可愛いだけの子供。純粋な姿勢は美しくもあり、同時に見苦しさも併せ持つ。
 いずれにせよ、傷は浅い方が良いと思ったが故の警告だ。しかし、ライは見逃していた。あまりにも意表を突かれたせいかもしれない――。
「もう――いいです」
 ぞっとするほと温度を欠いた呟きにライははっとして少女に視線を注いだ。伏せた睫毛の下でゆるく翳りが見えたような気がした。だがそれはすぐに酷薄で、底冷えする面と塗り替わっていた。
「自分の足で帰るので、結構です。貴方の助けなど不要です」
 不揃いな髪を耳にかけて、少女はライを存在しないものとして前を通り過ぎて戸に手をかけた。ライに背を向けたまま、「そうです」と思い出したように呟く。
「尤も、捕虜という立場ですから、生きて帰せないと申すのであれば甘んじて受け入れます。そう望むなら杖も折りましょう。……爪を立てるなら、今の内です」
 乾いた血がこびりつく小さな背中は、苛烈さを滲ませながもどこか物悲しさを感じる。その後ろ姿を見つめたまま、しばし黙考する。
 ――これで良いのだろうか。
 ――これが正しいのだろうか。
 ――いや、これは良くない!
「ちょっ……待った!」
 反射的に、彼女に向けて声を出していた。しくじった、という思いが脳裏を掠める。こんな子供に大人顔負けの冷徹さを帯びた面をさせたかったわけでも、あらゆる感情を押し殺した冷淡な声が聞きたかったわけでもない。ここで別れてしまえば、少女の中の“何か”を壊してしまう気がした。
 純真で清廉で無垢なだけの子供だと――そう断定したのは早計だったかもしれない。
「この樹海にいるのはな、お嬢ちゃんにとっては狼も同然なんだぞ!?ベオクの子供が一人で歩き回るもんじゃない!」
 咄嗟にその手を掴み、慌てて制止する。少女の身を案じての発言に、少女は凍てついた声で応じた。
「狼? 目の前にいるのはにゃんこじゃないですか」
「にゃん……!?」
 この上もなく喉がひきつったが、すぐに場を取り直すような笑みをつくり上げてみせた。
「そんな態度だともう知らないからな〜?」
「にゃんこの助けなど不要だと先程も仰いましたが。何もしないということは、逃がしてくれるという意思表示なのでしょうか? でしたらこのまま失礼させて頂きます」
 こうもすげない態度を見せつけられては子供っぽいと呆れたくもなるのだが、彼女のそれは意地を張っているというよりは、他人を徹底的なまでに払い除ける拒絶に近い。だからだろうか、妙に気になるのだ。滔々と返された挙げ句一方的に切り捨てられ、腹ただしい気持ちも少なからずある。だが、投げかけた言葉を致命的に間違えた。そう悔やむからこそ、ライは根負けした。
「……はぁ。そう言われると構いたくなるんだって」
 軋むような鋭さを持った少女の目がほんの少しだけ、緩んだのが分かる。
「……にゃんこは変わっていますね。そこまで気にかけてくださる義理など、貴方にはないではありませんか」
「まったくな。我ながら損な性分だと思ってるさ。けど、まあ……ここで別れてもし何かあったら、後味悪いからさ」
 少女が瞬きをすると、心を埋め尽くす真白の霞がたちまち霧散した。
「にゃんこ、にゃんこ」
 上目遣いに、少女はライの目を見つめる。
「にゃんこは優しいにゃんこなのですね」
陽だまりで雪が融けていくように、少女の目もとが蕩けていく。子供とは単純である。
「おっ! ついでににゃんこをやめてくれたらもっと優しくしたくなるな」
「……すみません、お名前を伺っていませんでしたので、つい。教えてもらっても?」
 申し訳なさそうな少女の呟きに、ライは邪気のない頷きで応じた。
「オレはライ。お嬢ちゃんは?」
 少女はくるりとライと向き合い、怯むことも身じろぎすることもなく、彼を見据えたまま、居住まいを正して己の名を告げた。
「ライ殿、ですね。私はフィリスと申します」
「ん〜……」
 フィリスと名乗った少女の口上を聞いたライはたちまち表情を曇らせる。それを見て、彼女は訝しげに問いかける。
「なにか?」
「子供に殿って呼ばれるのは、なんか……」
「では、ライ様……」
「いやいや。いいぜ、ライで。にゃんこな感覚で呼んでくれればいいさ」
「……では、お言葉に甘えて、ライ」
 鈴の啼くような声が、フィリスの唇から爪弾かれる。
 その余韻に浸るかのように瞼を落とし、ライは愉しげに言葉を紡ぐ
「じゃあフィリス。早速だが、ここに来た経緯を聞かせてもらおうか」






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