02
ガリア王国はテリウス大陸の西部にする密林の国である。
初代国王ソウハルトによって開かれ、代々最も力のある者が王として君臨する。それ故に法や政治機関を持たず、軍隊としても統制がとれているとは言い難いこの国が一国家として成り立っているのは、密林と呼ばれる自然環境が獣牙族との相性が良いからに他ならない。
地面から舞い上がる熱気、湿潤な気候、視界を遮る樹海、けたたましい動物たちの声――。
そんな樹海の中を、ひとりの少女が馬に跨りひたすら駆け抜けていた。
呼吸は落ち着いているが、進むべき道が分からぬまま、視線を四方に泳がせているのは明瞭だった。樹木を撫でて走る風に、無造作に切られた短い灰亜麻の髪が散らばり、所々破かれた薄布が空気を包んではふわりと広がりをみせる。幼い横顔には影を落としながら、白磁の頬に滲んだ困惑は風で流したかのように、表情として顕にすることはない。
樹海を進む為、極限に研ぎ澄ました感覚。しかし、消耗していく体力の中での不満足な視界は、使い慣れない嗅覚は、少女に大きな隙を作っている。
背後に迫る取れる低い呻きを察知し、 振り返ったときには、凶牙がすぐ目の前まで迫っていた。
風を切るような音。鋭く光る一閃。
背中に冷たく鈍い感覚が走り、身体が傾ぐ。大きな爪に、背後から力任せに抑えつけられ、馬から剥がされた肢体は勢い良く地に落ちた。
唇を噛みしめてみると、知らぬ間に口腔に入っていたらしい土を噛み砕いた。鼻腔を満たす潤みすぎた大気には土の匂いしかない。頬に貼りつく感触も、木々が靡く音も、動物の鳴き声も、森のすべてがひどく遠い。森に埋もれるように倒れこんだまま、鈍痛という感覚に沈んでゆく。
ガリア王国が獣牙の国として、今も尚繁栄する理由――それは大森林の中でも存分に機能する並外れた視覚と嗅覚を駆使し、木々の影に潜んでは獲物を待ち受け、その圧倒的な力で敵を狩る……絶好の“狩り場”であるからだろう。そして、彼らはまさしくヒトガタの獣なのだ――。
覚悟を決めて、少女は目蓋を固く閉じた。
隣接するクリミア王国の南から、侵入者を阻む天然の要塞を潜り抜けてガリア領へ辿り着いたライは、母国の濃厚な土の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出しながら身体を休めるように伸ばしていた。
「やっぱり、何だかんだガリアが一番落ち着くわけだ…」
クリミアに出向いていたライにとって久方ぶりのガリアの地は、安堵の吐息をつかせるには充分すぎる効力であり、思わず口から呟きが漏れるほどである。だというのに――。
「ライ隊長!」
ひとまず休息をとろうと一歩踏み出した瞬間、射抜くような視線を感じ取った。目を瞬かせて振り返る頃には、ピンと立てた耳をうっすら赤く染めて、どこか憤った空気を含ませる一人の部下の顔がすぐそこにあった。
それを確認して、ライはふぅと息をつく。
……基本的に、隊長位であるライに大多数の報告が行き、尚且つ対処を希望される申し出は一つしかないし、彼自身が一番理解している。
「帰還早々、申し訳ナい」
「それで、揉めたのはどこのベオクとだ?」
先回りするように、ライは半ば呆れ気味に応じた。しかし、返ってきたのは予想の斜め――否、遥かに上回るものだった。
「ベオクに『抜け道』を使われたかモしれなイ」
「――それ、本当か?」
途端にどこか冷淡な響きをもったライの投げ掛けに、部下は頷き、言葉を連ねる。
「山脈付近の森でベオクを見つけタ。迷ってイるだけにも見えタが、もし『抜け道』を通って迷いコんでキたなら、良くナい」
「たしかに、ベグニオンの奴に知られるのはマズいな」
どうしたものかとライは首を捻らせる。ガリア王国東側を隔てる険しい山脈。その先にあるは、大陸最大の版画と政軍両面において右に出る国はいないとまで言われる、テリウス最大にして最強の神権政治国家――ベグニオン帝国。
かつて、人間主義主義を掲げ、ラグズに隷属を強いて勢威を振るっていた帝国の在り方に共存を諦めたラグズ達が長い時を経て、隷属を逃れるため険しい山岳を踏破し未開の大森林へ足を伸ばしたのを切欠として建国に至ったのは、ガリアの獣牙族たちならば殆どが知識として――あるいは、先祖より受け継がれし血の記憶として――持っているもの。
ベグニオン帝国では過去に二度、征西が執り行われたが、そのどちらもが天然の砦によって退却を余儀なくされ、今に至るまで両国は山脈に隔てられたままである。
しかし、ガリア国民は、ガリア国民だけぞ知る、エルツ山脈を通過してベグニオン帝国に辿り着く『抜け道』を知っている。この『抜け道』がベグニオン側に知られてしまえば、三度目の征西を許してしまうようなものだ。
獣牙の知覚は“人間”のそれを大きく上回る。故に、獣牙の戦士は森の闇に潜み、気配を消しながら確実に獲物を逃さない守人として国を守っているのだが――。
「それで、そのベオクはどうしたんだ?」
「…………」
押し黙る部下の反応で、ライは察した。尤も、ギラついた瞳で現れた時点で大方の予想はついていた。
「殺してないだろうな?」
「生きては、イる。ダが、そのマま帰すワけにもイかないと判断した」
生きてはいる、という言い回しに嫌な予感しかしない。
「……分かった、その件についてはオレが対処しよう」
「捕虜を捕らえている場所まデ、案内する 」
ライは前を歩く部下に隠れて何度目かの溜息をついた。