01



「――まさか、君に気付かれるなんてね」
 やけに、綺麗な空だった。内緒話をするようにさわさわと木々が揺れ、桜の花びらがはらりと地面に落ちる。水色と桃色のグラデーションで彩られた空の下、気付けば俺は一人、生温かい地面に頬擦りをさせられていた。
「でも、君には俺を止めることは出来ないよ」
 倒れている俺を見下ろしながらそう言った彼はまるで聖母のような美しい笑みを浮かべ、一歩、また一歩と俺に近付く。本当は今すぐにでも反撃したいところだが、立ち上がろうにも指がぴくりと動くだけで、逃げることもままならなかった。――ああ、クソ。クソ! こんなことなら鍛えておけばよかった! 今更後悔しても遅いことは分かっているが、それでも考えずにはいられない。ただひたすらに彼を睨みつけていると、彼は俺の目の前でしゃがみこみ、微笑みながら首を傾げた。
「だって君の異能は、戦うためのものじゃないもんね?」
 ふわりと爽やかな香りが漂う。六年間嫌い続けた匂いだった。俺はずっとずっとこいつのことが大嫌いで、それは今も変わらない。世界の全てを手にしているところも、何を考えているのか全く分からないところも、今みたいにずっと俺が気にしていることを平気で言ってのけるところも、全部嫌いだった。だから今、ここで彼の目論見を全部壊してやろうと思ったんだ。学園の皆のためとか、世界のためとか、そんなことはどうでもよかった。ただ、彼を止めたかった。それだけだった。
「泣いてるの?」
 そう彼に言われて、頬を伝う何かに気付く。ああ、泣いてるのか、俺。だせえな。拭う気にもなれなくてそのまま放置していたら、彼の長い指がその涙を拭った。腹立つくらい優しい手だった。
「この世界は君のせいで終わってしまうけど、」
 でもね、と彼は続ける。
「君はまた、俺に会いに来てくれるんでしょ?」
 ふざけんな、誰が会いに行くかよ。そう抗議したかったが、もう声も出なかった。
 遠くで楽しそうな生徒達の声が聞こえる。まだ世界は終わっていない。彼等の中では、今はまだ日常の一部であった。きっともうすぐ世界が終わるだなんて考えてもいないのだろう。だが、終わる。俺のせいで、世界が終わる。――彼等の知らないところで、ひっそり世界は終わるのだ。
「それまで、おやすみ」
 彼の背後が光り始める。それが何かを確認する前に、彼の大きな手が俺の目を覆った。あーあ、最期に見た顔がお前かよ。最悪だ。そう思いながら、俺は素直に目を閉じた。
 ――そうして俺の視界は、真っ黒に塗りつぶされた。


さよならメランコリックワールド



「ええと……713号室ってどこだ……」
 赤い絨毯を踏みしめながら、ボストンバックとキャリーバックを手にきょろきょろと目的地を探す。先程受付のお兄さんに渡された電子生徒手帳には確かに「水瀬慧」「713号室」と書いてあるのだが、歩いても歩いてもその部屋が一向に見当たらない。はあ、と大きく溜め息をついて、立ち止まる。そもそもただの学生寮なのに、何でこんな高級ホテルみたいにだだっ広いんだ。知り合いが一人でもいればこんなことにはならなかったのに、と自分が今置かれている状況にげんなりするが、こんな特殊な学園、知り合いがいる方がおかしいんだった。
 ここ、私立月之宮学園は完全にスカウト制で、普通に暮らしていれば絶対に聞くことのない、知る人ぞ知る学園である。山の上に建っており、ここまで来るには車を使わなければいけないような不便な場所だ。ついでに全寮制で男子校。端から見ても無駄に大きくて、無駄に金が掛かっているのが分かる。
 本当は俺だってこんな閉鎖的な学園に入学したくはなかったのだ。一応俺だって友達はいたし、普通であれば友達と同じ高校へ行っていたはずだった。そう、"普通"であれば――
「なあ、君も新入生?」
「え?」
 すると後ろから突然声を掛けられ、俺は反射的に後ろを振り向く。見ると丁度男がエレベーターから降りてきたところであり、彼はお洒落なボストンバックを抱えながら俺に近付いてきた。ウェーブがかかった黒髪に、宝石のような赤い瞳。ふわりと微笑まれれば失神してしまいそうなほど甘いフェイス。Tシャツにジーパンといったシンプルな服装なのにも関わらず、様になるスタイルの良さ。どっからどう見ても爽やかイケメンだ。
「そうだけど……」
 もしかしてこいつも新入生か? 人見知りなのもあって不審げに見つめ返すと、彼は「怪しい者じゃないよ」と苦笑しながら、俺が持っていたボストンバックを指差し、ひょいと指を曲げる動作を見せる。謎の動作に首を傾げていれば、持っていたボストンバックが急にふわりと浮いた。ちなみに比喩ではない。
「部屋どこ? 一緒に行こ」
 浮いたボストンバックはそのまま男の手に渡り、当たり前のようにそれを持って歩き出す。目の前で起こった非日常的な出来事に驚いたが、それよりも自分の鞄もあるのに俺の鞄まで持たせるなんて申し訳なくて、「自分で持つから」と小走りで彼を追いかける。しかし「大丈夫」としか答えてもらえず、仕方ないので俺は早々に諦めた。イケメンは誰にでも優しいらしい。
「えっと、部屋は713号室なんだけど……どこにあるか分かんなくて」
「え? 713号室? 俺と一緒じゃん」
 ガラガラとキャリーバックを引きずりながら彼の隣を歩けば、彼は驚いたように俺を見て、自身の電子生徒手帳を見せる。確かにそこには「藤咲初」「713号室」と書かれていた。同じ部屋だ。この寮は基本二人部屋だと聞いていたけど、まさか彼が同室者だということなのだろうか。
「そうか、奇遇だな。よろしく。……ええと、藤咲?」
 生徒手帳に書かれていた名前を見ながらそう問えば、「ああ、そういえば自己紹介してなかったな」と彼は足を止める。
「俺、藤咲初。これからよろしくな」
 ふじさき、はじめ。彼はそう言って持っていた俺の鞄を肩に掛けて、空いた手を俺に差し伸べる。これは握手の催促だろうか。あまり他人と触れ合いたくはないのだが、致し方ない。一応汗をズボンで拭ってから、その手に自分の手を添える。すると包むように握られて、ドキッとした。
「えっと、俺は水瀬慧。よろしく」



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