魚は夜空を泳ぐ夢を見る

 手が震える。呼吸の仕方も忘れてしまったみたいで、俺は震えている息を細かく、そして小さく吐いた。やっと言えた告白に、先輩は何にも言葉を発しなかった。
 五月とは言え、日が落ちると少し風が冷たい。時間も時間だからか、いくつかベンチの横に置いてあるランプによって、裏庭が――控えめにではあるが――ライトアップされた。
 えっと、ど、どうしよう。このまま無言で一日を終えてしまいそうな雰囲気に思わず不安になる。とにかく何か言わなくちゃ。何か。そう思ってちらりと先輩の表情を見ると、ランプの光でよく見えるようになった先輩は、ぽかんと口を開けていて間抜けな表情をしていた。
「あ、あの、先輩……?」
「えっ? あ、ああ……な、なんて?」
「え、えと、せ、先輩のことが好き、って話です……」
「……弥智が?」
「……は、はい」
「俺を?」
「はい……」
 先輩は俺にそう確認したと思うと、突然、はああ、と大きく溜め息を吐く。そして力が抜けたように項垂れた。ど、どうしたんだろう。不安になって先輩の顔を覗き込もうとするが、その前にぺちりと大きな手で俺の目を覆われる。み、見えない。
「俺、めっちゃ傷ついたんだからな……」
「……え?」
「手、払い除けられたやつ……」
 そう言われて、はっと思い出す。もしかしなくてもそれは、先輩から避けられるようになった元凶のことだ。うう、申し訳ない。あれは俺が全部悪いんです。予知夢だとしてもただの夢でしかないのに、あんなに惑わされてしまったから。そう思って「ごめんなさい」と再び謝ろうとするが、先輩はその前に俺から手を離して、そのまま俺の両手を握る。温かい手。いい匂いがする。ついでに顔も近い、と思う。それでもそんなことを言う雰囲気では無くなってきたので、俺は黙って真面目な表情の先輩を見つめていた。
「俺も好き」
「……はい」
「最初はただ単純に一人で飯食ってる弥智が気になってただけだけど、俺の将来の夢の話を真剣に聞いてくれて、かっこいいって言ってくれたときから、ずっと好きだった」
「ふふ……」
「言っとくけどな、俺、優しいだけじゃないぞ。重たいし、多分お前が思ってるより、結構えげつないこと考えてる」
「そうなんですか?」
「そうなの。でも、もう逃げられないからな。いいの? 逃げるなら今のうちだぞ」
 先輩は俺の手を握りながら、真剣な表情で俺の顔を覗き込む。そんな先輩を見て、俺は思わず笑ってしまった。だって逃げられないって言いながらも、逃げ道を用意してくれてる。そんな先輩が好きで好きで、どうしようもなく好きなんだからしょうがない。逃げるなんて最初から全然考えてない。
「大丈夫です。俺、先輩になら何されても平気だから」
 俺はそう言って、自分の手ごと動かして先輩の手にキスを落とす。まるで一生を誓うような、そんなキス。先輩が俺の傍にいてくれるなら、それだけで幸せだもん。大丈夫。そう言うと先輩は今までにないほど幸せそうにふにゃりと笑って、「あーあ、もう知らないからな」とおどけてみせた。

 ――空を見上げれば、そこはたくさんの星たちで彩られている。澄んだ空気。冷たい風。そして彼らの行く末を見届けた鯉は、池に映った星々と一緒に優雅に夜空を泳いでいた。

***

「えげつないことって、例えばどんなこと考えてたんですか?」
 寮への帰り道。夜空の下、先輩と手を繋いで歩いている最中に、密かに気になっていた疑問をぶつけてみた。
「えっ?」
 先輩はまさかその話題を掘り返されるとは思ってもみなかったのか、あからさまに嫌そうな顔をする。むむ。そんな顔をされると、余計に気になってしまう。俺はわざと足を止めて、催促するように先輩の顔を見上げた。
「本当に聞くの?」
「……だめですか?」
「いや、だめっていうか……引くと思うんだけど」
「ええ……?」
 俺が引くようなこと? 何だか想像が出来ない。先輩の言葉の続きを首を傾げて待っていると、先輩はしばらく無言でいたが、一歩も譲らない俺を見て諦めたように溜め息を付いた。
「弥智さ、夢見てただろ」
「夢……?」
「俺に告白される夢とか、えーと……セックスする夢とか」
 ん? ……え!? もしかして予知夢のこと!? な、何で先輩がそのことを知ってるんだろう。まさか俺、いつの間にか口を滑らせてしまっていただろうか。そう思った俺はもう手遅れだというのに、意味もなく両手で口を塞ぐ。すると先輩はそんな俺を見て「違う違う」と笑って否定し、「あれさ、俺のせいなんだよね」と苦笑しながら続けた。
「……はい?」
 先輩のせい、ってどういうこと? 全く理解が出来なくて目を瞬かせていると、先輩は気まずそうに目線を空に移し、「だから言いたくなかったんだよなあ」とぼやいていた。続きが気になる俺は思わずごくり、唾を飲み込む。
「俺、他人の夢に干渉出来るんだよ」
 え?
「だから異能使って、俺が弥智にそういう夢を見せてたの。俺のほうが年上だから、異能のレベル的に弥智の異能打ち消せるんだよ」
「えっ!?」
「要するに、弥智が見ていた夢は全部、俺の妄想」
 先輩はそう言って、俺の手をぎゅっと強く握る。風のせいでちょっとだけ寒くなってきたから、先輩のこの温かい手が丁度良かった。俺は先輩と手を繋いだまま、自分の足先を見つめながら悶々と考える。
 え、えっと……もしかして俺、聞かなくてもいいことを聞いてしまったんじゃ……? そしたら俺は先輩の妄想で抜いてたってことになるし、そもそも先輩は俺とあんなことやこんなことをする妄想をしてて、それをわざと俺に見せてたってことで……ええと……
 先輩はもうここまで言ってしまったからか「まあ、弥智が聞きたいって言ったから」なんて開き直っていた。そしてそんな先輩は複雑な気持ちになっている俺なんて無視して、そのまま俺の腰をぎゅっと引き寄せる。
「ひえ……っ」
 せ、先輩のあれが俺の股間に当たってるんですけど、その、えっと。
「あんな夢見たら、嫌でも俺のこと意識するだろ? だから毎日毎日弥智に異能かけてた」
「……あ、あの」
「どうしても欲しかったんだ、お前のこと。俺のものにしたかった」
 耳元で囁かれる甘い言葉。それがとても擽ったくて、俺はみっともない声を出しながらつい肩を上げて耳を隠す。うう、そう言われると、何でも許してしまう。ずるい。最初から怒っていたわけではないし、少し戸惑っていただけだけど、それでもその言葉を聞いただけできゅうん、と胸が締め付けられて、どきどきした。
 ……うん、まあ、先輩にこんなにも愛されてたんだなあと思うと、悪い気はしない、かもしれない。ちょっとびっくりはしたけど。俺だって先輩の立場だったら何でも利用していたかもしれないし。そう思った俺は、先輩の背中に手を回して強く抱きしめる。大きな背中。やっぱり、どんな先輩でも好きだ。仕方がない。
「もう俺は先輩のものだから、大丈夫ですよ」
 その代わり、先輩も俺のものですよね? そう問いかけると、先輩は幸せを噛みしめるように「うん」と笑った。



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