溢れる想いを受け止めて

 オレンジ色の空。さらりとした爽やかな風を全身に浴びる。草花の香り。扉を開けると池の前には先輩が先程と変わらない姿で立っていた。濃い青色の瞳と目が合う。その瞳は一見氷のように冷たいが、本当は誰よりも優しいことを俺は知っている。
「や、弥智、大丈夫だったか? 怪我は――」
 先輩は俺の姿を確認すると、心配そうな表情をして俺に一歩近付いた。しかし俺は先輩の言葉を無視して、先輩より先にどたどたと先輩の元へ駆け寄る。風で頬に張り付く髪もそのままにしながら。だって、早く触れないと、夢かもしれないから。そう思いながら俺は先輩に近付いて、そして――ぎゅうっ、と、欲望のままに先輩に抱きついた。
「うわっ」
 先輩から伝わるシャンプーの香りが俺の鼻孔をくすぐる。先輩もまさか俺が抱きついてくるとは思ってもみなかったのだろう。俺を支えようと俺の腰に手を回すが、勢いが付きすぎて受け止めきれず、そのまま二人一緒に芝生へと倒れ込んだ。俺が押し倒したようなものなのに、やはり先輩は俺を庇うように抱きしめていてくれていて、それにまた泣きそうになった。
「弥智……」
「……っ」
「弥智、泣いてるの? 弥智……?」
 先輩の上に乗り、ジャケットに顔を埋めながらぐす、と鼻をすする。……先輩だ。先輩が、俺の傍にいる。そのことが嬉しくて嬉しくて仕方がなくて、まるで涙腺が壊れたかのように涙が溢れ出す。俺、こんなに泣き虫だったっけ? 最近ずっと泣きそうになってる。先輩が絡むとすぐ泣いてしまう自分を恥ずかしく思いながらも、俺は黙って先輩の腕の中で大人しくしていた。先輩も黙り込む俺を最初は心配していたけど、今は俺の背中を優しく摩ってくれている。嗚咽が止まらない。先輩が優しい。嬉しい。
「弥智、大丈夫か? ……って、俺が聞くのも野暮か」
「……」
「俺のせいだもんな。ごめんな、弥智」
 先輩は苦笑混じりに俺の頭を撫でた。囁くような声。先輩の爽やかな香りと、芝生の独特な匂い。俺はちらりと少しだけ顔を上げて、先輩の顔を見た。たんぽぽの綿毛が風に飛ばされていく。先輩のせいじゃ、ないです。あれもこれも全部、俺が逃げてしまっていたから。なんて色々と思うことはあるけど、何から話したらいいか分からない。先輩も今は待ってくれているけど、早く何か言わないとまた呆れて去ってしまうかもしれない。それは嫌だ。折角会えたのに、またあんな気持ちになるのはもう耐えられない。先輩に避けられてから一人でいたときのことを思い出して、またぽろぽろと涙が出てくる。そんなとき、俺は天宮の言葉を思い出した。
『まず、先輩とまた話せるようになりたいってことを伝えたらいい』
 そうだ。天宮が教えてくれた。素直に。俺が思っていることを、素直に、伝える。言い訳は後。今言わないと、きっともうチャンスは無い。ここで言わないと。心の中で何度もそう繰り返して、ようやく決意を固める。先輩はただただ首を傾げて、俺の言葉を待っていた。俺はさっきまで先輩に凭れていた身体を起こし、芝生に両手を付いて先輩に跨る。そして先輩を見下ろし、恐る恐る口を開いた。
「え、えっと……その、お、俺……」
「うん」
「先輩としばらく会えなくて、凄く寂しくて……だから、こうして今先輩と話せてるの、ゆ、夢なんじゃないかって、今でも思ってて……」
「うん」
「っ、で、でも俺、わがままかもしれないけど……その、やっぱり今までみたいに、せ、せんぱいとお話していたいんです……っ」
 話している途中でまた涙が溢れてきて、俺は子供みたいにしゃくりあげながらぐちゃぐちゃに言葉を羅列する。一体自分が何を話しているのか全く分からない。先輩にちゃんと俺の気持ちを伝えられているのかも分からない。それでも先輩は困った顔一つせずに、俺の頬に張り付いていた髪を耳にかけてくれた。
「寂しかったの?」
「……はい」
「そっか、ごめんな。まあ、その……言い訳になるんだけどさ、テスト前なのもあったし、ちょっと弥智にきつく当たりすぎた自覚もあったから、少し気まずかったんだ。正直避けてた。……大人げないな、俺」
 そう続ける先輩の言葉に俺は何も返せず、ただふるふると首を横に振る。すると先輩は寂しそうに眉を下げて笑い、俺の髪をくしゃくしゃに強く撫でた。
「でもさ、多分今まで通りってのは無理だ」
「えっ……」
 な、何で? 思わず目を見開いて、もう一度小さく「え?」と零す。聞き間違いでは、ない。突然の先輩の言葉に、俺はまた泣きそうになった。覚悟はしていたつもりだったけれど、実際に先輩から拒絶の言葉を聞くとやはり想像以上に傷ついていた。や、やだ。やだ。
「ご、ごめんなさい……俺、もう先輩のこと避けたりしませんから、だから」
「うん。でもさ、そう言っても、弥智は多分これからも俺のこと避けることになると思うよ?」
「そ、そんなこと……っ」
「言ったじゃん。俺、弥智のこと好きなんだって」
 先輩は俺の髪を撫でていた手をそのまま後頭部へと滑らせ、ぐいっと自身の方へ引き寄せる。突然のことだったから俺は反射的に俺と先輩の顔がぶつからないよう、咄嗟に腕に力を入れて自分の身体を支えた。お互いの吐息がかかる距離。近い。……あ、先輩の睫毛、思ったよりも長い。そう思っているときだった。ちゅ、と温もりが唇に落とされたのは。
「んっ……」
 き、キス。俺、先輩とキス、してる……? 柔らかいそれはすぐに離れたと思いきや、再びまた俺の口を塞いだ。ぽかんと空いたままの俺の口内に、ぬるりと入ってくる熱い舌。一瞬いつもの夢かと思ったけど、夢、じゃない。だって夢以上に熱くて、ドキドキして、心臓が止まっちゃいそうだったから。
「ん、ん……っ、んぅ……ッ」
 くちゅ、といやらしい音が聞こえて耳を塞ぎたくなる。それでもキスの気持ちよさには勝てなくて、抵抗もせずにただただ先輩の舌を受け入れていた。先輩の舌はゆっくりと俺の口内を余すことなく犯し、上顎をくすぐるように愛撫する。俺の唾液が重力に耐え切れず落ちて、そのまま先輩がごくりと飲んだ。恥ずかしい。力が抜ける。
「ン、はっ……」
 そしてようやく唇を離し、先輩の顔を見れば、先輩は少しだけ頬をピンク色に染めて、劣情を孕んだ瞳で俺を見つめていた。
「な? こういう意味で弥智のことが好きなの、ずっと」
「っ……」
「嫌じゃねえの? 俺、ずっと弥智のこと性的な目で見てたし、きっとこれからも見る。本当はこんなんじゃ足りない。もっと弥智の身体に触れたいって思ってる。……それでも俺のこと嫌いにならないって言える?」
 そう言う先輩は、俺のYシャツの中に手を差し込み、つつ、と腹部をなぞる。瞬間、俺の身体はぴくっ、と跳ねた。先輩の温かい手。俺はずっとその手にまた触れられたいって思ってたんだ。そんなこと、思うわけない。そんな思いを込めて、俺は両手で先輩の腕を掴み、無理矢理、俺の胸板――心臓の辺りに押し付けた。「え、ちょ」と慌てた先輩は無視だ。
「俺だって、こうやって……先輩に触れてもらいたいって、そう思ってるんです……」
「や、弥智?」
「あ、あと……先輩と、その……え、えっちする夢見て、抜いてるし、えと、あの」
「えっ!?」
「わっ、ご、ごめんなさい、えっと……そ、それに、今のキスも、もっとしたいって……そう、思ってるくらいには、俺……」
 うう、恥ずかしいこと言ってる、俺。流石に先輩も驚いているようで、少し顔を赤くしていた。ぱちくり、目を瞬かせている。でも、それでもきっと、言わないよりはマシだ。そう思って、天宮に言われた通りに素直な気持ちを先輩に伝えてみた。余計なことを言ってしまった気もするけど、でも、俺だって先輩と同じ気持ちだってこと、知ってほしくて。
 俺は先輩の腕から手を離し、ずっと跨っていた先輩から下りる。そして丁度身体を起こした先輩と顔を合わせた。ごくり、息を呑む。空はもう群青色に染まっていて、星がきらきらと輝いていた。
「……好きです」
 どきどき、心臓が暴れてる。それでもようやく言えた言葉に、達成感すらあった。
「先輩が俺に声をかけてきてくれたときから、ずっと俺、先輩のことが好きです」

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