00 / prologue


 ミーンミーン、と蝉が寂しげに鳴いていた。電気は付いておらず、窓から差し込む太陽の光のみで照らされている廊下は少し暗い。それに比べて窓から覗く真っ青な空はとても眩しくて、そのコントラストに冬真は思わず目を細めた。見間違いであってほしい。そう思っていた。
「り、立夏……」
 自分たち以外誰もいない廊下に、頼りない冬真の声が響く。その声は思った以上に小さく、簡単に蝉の声にかき消された。現実感の無いこの状況に、本当はこれは夢なのではないかとまで思ってしまう。それほど、目の前に広がる光景は信じられないものだった。
 白い床に映える黒髪。必死に何かを掴もうとまさぐる手。その近くにぽつりと落ちている眼鏡。――廊下に倒れてもがいている幼馴染みの姿は、まるで芋虫のようだった。

 冬真は異常な程、自分に自信が無い人間であった。それは生まれ持った性格なのかもしれないし、格式の高い両親に小さい頃から怒られ続けていたせいもあるのかもしれない。冬真は物心がついた頃から当たり前のように"周りの人間は全員自分より優れている"と思っていたし、これからもそれが覆ることはない。そう思っていた。
 しかし、冬真は初めて思ったのだ。よりにもよって、幼い頃ずっと一緒にいた幼馴染み相手に。

 ――ああ、こいつ、俺より下だ。と。


separate blue



 くあ、と欠伸を漏らしながら、目を擦る。ようやく仕事が一段落したので一息付いてパソコンから窓の外へ視線を移せば、空はまるで絵の具で塗りつぶしたような黒に染まっていた。まさかもうこんなに暗くなっているとは。急いで時計を見上げれば、針は午後八時を差している。そろそろ玄関の扉が締め切られてしまう時間だ。思わず溜め息が出た。
「あー……クソ。明日にするか……」
 このまま校舎に閉じ込められてしまうのは流石に御免である。冬真は乱暴に舌打ちをしたあと、慌ててパソコンをシャットダウンして椅子に掛けていたジャケットを羽織った。先走っているのは気持ちだけで、今日中に終わらせようとしていた仕事はまだ残っている。
 仕事を時間内に終わらせられないのは昔からだった。両親にはいつも「要領が悪い」と怒られていたし、実際その通りなのだろう。無駄に時間を使ってしまって、効率よく物事を進められない。その証拠に冬真と同じく仕事があるはずの他の生徒会メンバーは今日もすぐに帰寮していた。ここまで残っているのは冬真くらいだ。
 明日も早めに生徒会室に来て仕事を終わらせてしまおう。生徒会長とは言え、一般生徒であることには間違いない。仕事を理由に授業免除なんてものはしてもらえないので、しっかり授業には出なければいけなかった。そうなれば空いている時間は朝しかない。冬真は名残惜しげに書類を眺めるが、すぐさま目を逸らして鞄を肩にかけた。本当、何も出来ない自分が嫌になる。
 冬真の口から零れるのは先程から溜め息ばかりだった。自分のネガティブな気持ちを誤魔化すように、冬真は目を閉じて深呼吸を繰り返す。そして彼は、ぱちりと生徒会室の電気を消した。

 榊冬真。高校三年生。彼はこの学園の生徒会長であり、現在学年一位の成績を残している学園のトップである。性格は少し難があるが、勉強やスポーツなど全てをそつなくこなす冬真は全校生徒の憧れの的だ。
 だから周りの人は悪気なくこう口を揃える。才能があって羨ましい、と。

「ふあ……」
 翌日の朝。あれから授業の予習復習をして、結局ベッドに入ったのは朝の四時。しかし寝なければいけないと思うと焦って余計に眠れなくなり、大して眠れないまま、気付けば六時半には生徒会室に足を運んでいた。
 チュンチュンと聞こえる鳥の囀りが煩わしい。仕事を終わらせるためにわざわざ早く学校に来たのに、頭が働かなくて全く手が動かなかった。一睡もしていないのだ。欠伸が止まらない。頬杖を付きながら、誰もいないからと隠さずに大きく口を開けていれば、生徒会室の扉がガチャリと開く音がした。時計はまだ午前七時を差している。
「はは、間抜け面」
 冬真の顔を指差しながらにやにやと意地悪く笑っているのは、生徒会室の扉を開けた張本人。生徒会副会長を務めている薊野恭介だった。
 何でこんな早い時間に。いつもは放課後にしか来ないのに。その疑問は冬真の口から出ることなく、恭介に遮られる。
「結局昨日も仕事終わらなかったんだ? 何時に帰ったの? 昨日は」
 コツコツとわざとらしく足音を響かせながら、恭介は一歩ずつ生徒会長の席へ近付いていく。それがまるで死刑執行の宣告のようで、冬真は思わず顔を強ばらせた。彼のボブヘアーの茶髪がふわりと揺れる。本人はそんなつもりは無いのかもしれないがその細い目は自分を見下しているように見えて、冬真は弱い自分を隠すようにキッと恭介を睨む。
「……別に、何時でもいいだろ」
「そんなに怖がらなくてもいいじゃん。俺、今日は別に何もしてなくない?」
 しかし冬真の本性を見透かしているのだろう。そんな冬真に怯むことなく、恭介は微笑みながら片手を伸ばして冬真の顎を掴んだ。
「……ッ!」
 強制的に上を向かされて、息が詰まる。顔が近い。ぱちり。目があった。真意が分からないその目が怖くて、冬真は思わず彼から目を逸らす。しかしそれがいけなかったのだろう。恭介はただでさえ細い目を更に細めて、低い声を出した。
「人と話すときは目を合わせろよ。失礼だろ」
 ひゅ、と喉が鳴る。恭介を纏う空気が一瞬で鋭くなり、冬真を見下ろす恭介と自分をいつも殴っていた父親の姿が被って、冬真はつい謝りそうになった。
「……」
 沈黙。睡眠不足も相まって頭が真っ白だ。そんな冬真が相当面白かったのだろう。恭介は真顔だった表情をくしゃりと緩めて、ふっと吹き出す。
「怯えちゃって可愛いな。いつも尊大な態度をとってる生徒会長が実はこんな弱気な人だって知ったら、皆どう思うだろうね?」
「……何が、言いたい」
「別に? それより、俺は君と話すためだけにわざわざ朝っぱらからこんなところに来たわけじゃないんだよね」
 そうして恭介はようやく冬真の顎から手を離し、ゆっくりと冬真の背後に回って馴れ馴れしく肩に腕を回した。そしてぱさりと机に放られる茶封筒。
「仕事熱心な君に新しい仕事を持ってきたんだ。好きでしょ? 仕事。夜まで残るくらいだもんね」
 吐息混じりにそう囁かれて、びくりと腰が引ける。端から見れば口説かれているようだが、実際は呪いの言葉をかけられているだけに過ぎない。塞ぐように耳を押さえながら振り向けば、楽しそうに彼は笑っていた。
「なに、勉強も運動も仕事も出来ない君でも出来る簡単なお仕事だよ。突然なんだけど、今日転入生が来るみたいでね。お出迎えくらいは出来るでしょ? 予習なんかしなくてもさ」
「お、お出迎え……」
「そう。ずっとパソコンの画面とにらめっこしてるよりは有意義だと思うんだよね。これは俺なりの気遣いなんだけど。どう?」
 どう、と聞かれても冬真は素直に喜べなかった。寧ろ余計なことをするなとまで思ってしまっていた。なんて返答していいのか分からない。上手い返し方が思い付かず、冬真はもごもごと口を開閉させる。
 確かに冬真は昔から勉強も運動も仕事も出来なかった。だがそんな冬真でも、多くの時間をかければ出来るようになるのだ。勉強だって毎日何時間も予習復習しているから学年一位にまで上り詰めることが出来たし、運動だってこっそり練習しているから出来るようになった。仕事だって誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰ることで終わらせている。時間を使えば大抵のものは出来るようになる。それが冬真の持論だ。
 しかし、対人関係はそうはいかない。予習なんて出来ないのだ。その場その場で対応しなければいけないことが冬真にとっては何よりも苦痛で、ずっと避けてきたことである。普段は会長として傲慢不遜な態度を取り続けているが、それは弱い自分を隠すための保身でもあれば、他者と関わらないようにする防壁でもあった。
「……何でこの俺が、わざわざ出迎えなんかしなくちゃいけねえんだよ」
 だから、出来るならその役は引き受けたくない。急いで剥げかけていたメッキを塗り直して、冬真は恭介にそう強く言い返す。しかしそう言ったところで「そうだよね。なら俺が行くよ」とはならないのが薊野恭介という男であった。その男はすっと目を細めたと思いきや、突然冬真に回している腕に力を込めて冬真の首を絞める。それと同時に「そんなこと言っていいの?」と甘ったるく囁いた。
「ばらしちゃうかもよ。君の本当の姿」
 ばらす。そう告げられて、反射的に呼吸が止まる。脳が受け付けなかったのか、一瞬何を言われているのか全く理解が出来なかった。混乱のせいでただの文字列になってしまっている恭介の言葉を脳内で繰り返しながら恭介を見返せば、彼は冬真に優しく微笑む。それは皮肉にも救世主のような笑みだった。
「嫌だよね。だって皆が慕っているのは何でも出来る天才な会長であって、本当の君ではないもんね?」
 声が出ない。本当の自分をばらされたあとの生徒たちの反応を考えると、そんなこと無いだなんて自信を持って言えなかった。
 確かにこの学園の生徒は冬真を慕っている。何事もそつなくこなす天才だと。普通は煙たがれるであろう金色に染められた髪は自分をしっかり持っている証だと評価され、傲慢な態度さえも格好良く見えると実際に何度も告白を受けている。しかしそれも才能があるから認められているのだ。才能が無ければ、これらは全て一瞬で欠点に変わる。好かれていた要素は嫌われる要素へと変わるのだ。素で過ごしていた頃は嫌われていたのに自分を偽り始めてから周りに好かれるようになったあの頃を思い出して、思わず冬真は吐きそうになった。
「ということだから。よろしくね、榊会長」
 何も言わなくなった冬真を見て、もうこれ以上追い詰めなくても大丈夫だと判断したのだろう。満足げに笑った恭介は冬真の背中をぽんと軽く叩いて彼から距離をとる。ようやく離れた体温に冬真は息をつくが、一番離れてほしい茶封筒は冬真の机に置かれたままだ。行くしかないのだろう。自分が。そう諦めていると、恭介は何かを思い出したように扉の前で歩みを止めた。
「あ、七時半に校舎前に来るらしいから。早く準備した方がいいよ。顔が死んでる」
 その言葉と同時にパタンと扉が閉まる。え、と顔を上げたが何もかも遅く、恭介が出て行った生徒会室は一気に静まり返った。もっと早く言ってほしかった衝撃的な事実に思わずフリーズする。現在、七時十五分。七時半ってもうすぐなんだけど。
「と、とりあえず転入生の顔だけでも確認しないとな……」
 あと十五分。もう生徒会室を出ないと間に合わないかもしれない。
 冬真は焦る気持ちをぐっと抑えて、緊張しながら茶封筒を開ける。中には数枚の書類が入っていた。そして、その内の一枚に書かれた名前と顔写真。――それを視界に入れた瞬間、心臓がドキリと跳ねた。見間違いかと目を凝らすが、何度見てもそこには見覚えのある名前が書かれている。嫌な汗がじわりと出た。

 楠立夏。それは昔よく一緒に過ごしていた幼馴染みの名前だった。




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