01 / forebode
「どうしてこんなことも出来ないんだ!」
怒号。視界が真っ赤に染まり、気付いたら冬真は冷たいフローリングの上に倒れ込んでいた。一瞬何が起こったのか分からなかったが、遅れてやってきた途轍もない腹部への痛みに、目の前の男に蹴られたのだと悟る。呼吸が出来ない。腹を抱えながら冬真は嗚咽を繰り返した。男を見上げる気力も無かった。そんな冬真を仁王立ちで見下ろす男。そしてその後ろで、冬真をゴミを見るような目で睨みつける女。――紛れもなく、冬真の両親である。
「信じられない。こんな簡単なテストで百点も取れないなんて」
「こんなのが俺達の息子だなんて考えられないな。――ほら、頭を上げろ! それでも男か!」
女が呟いた言葉に同意しながら、男は倒れ込んでいる冬真の前髪を強引に引っ張り上げる。突然入ってくるシャンデリアの鋭い光が痛くて――理由はそれだけでは無いが――涙が出た。
冬真にとって、この時間が一番の苦痛だった。時間が決まっている学校と違って、いつ終わるか分からないからだ。今日は二人の機嫌が悪いようで、暴力も普段以上に激しかった。きっとすぐには終わらないだろう。逆光のせいもあり、目の前の二人が自分と同じ人間には思えなかった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 次はもっと頑張るから殴らないで!」
何年も殴られ続けているが、それでも痛いのは嫌だ。冬真は男の腕を掴んで必死にそう叫ぶが、男はその言葉に耳を傾けること無く腕を振り上げる。――そこから、いつも記憶が無い。
「起立。礼」
名前も知らない男の声をきっかけに、冬真はふわりと現実へと意識を戻す。ここ、どこだっけ。現実と夢の境目が曖昧になって思わず辺りを見渡すと、ここは自宅ではなく学校の教室だった。殴られていたのは過去の話であり、現実ではない。自分は今、殴られていない。冬真は安心したようにほっと息をついて立ち上がり、クラスメートに続いて教壇に立つ担任に頭を下げる。丁度その時授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響き、静かだった教室はざわめきを取り戻した。
「榊。少しいいか」
これから放課後だ。急いで生徒会室に向かって仕事を片付けなければ。そう思って机の中を片付けていたときだった。突然担任に声をかけられ、冬真はびくりと顔を強張らせる。
何か、やってしまっただろうか。ホームルーム中にぼーっとしていたのがばれてしまったとか? それともこっそり学校に早く来ていること? いや、仕事を片付けるのが遅すぎることかもしれない。怒られる要因はいくらでも思い付く。考えれば考えるほど不安で一杯になって、冬真は発言せずにこくりとだけ頷いてみせた。クラスメートの視線を感じる。最悪怒られても良い。だが、怒るならせめて場所を変えてほしい。そこでならいくらでも殴って良いから――そこまで考えて、止める。担任の表情は困ったように歪んでいたからだ。怒られるわけでは、無いのだろうか。そう思いながら冬真は恐る恐る――しかしそれを勘付かれないように――担任の傍に近寄る。すると担任は気まずそうに小声で「一年の転入生のことなんだが」と言葉を置いた。ぱちり、瞬きを繰り返す。転入生と言われて思い当たるのは一人しかいない。
「お前ももう知っていると思うが、あいつ身体が不自由だろう」
楠立夏のことだ。担任の言葉に、冬真は生まれつき目と足が悪い幼馴染みの姿を思い浮かべた。重たい黒髪に、長めの前髪で隠された目付きの悪い瞳。そして分厚い眼鏡。皮と骨と少しの肉で出来たその身体は少し触っただけで折れてしまいそうだと、幼いながらに思った記憶がある。そこまで仲が良かったわけでは無かったが、お互いの家を行き来するくらいには距離は近かったし、立夏が父親の仕事の都合で引っ越してしまったときはそれなりに寂しい思いもした。でも、それだけだったのだ。それで終わりだと思っていた。正直再会するまで立夏のことは忘れていたし、まさかこんなところでまた会うなんて想像もしていなかった。転入生――立夏を迎えに行った先週の出来事を思い出して、冬真は思わず息を付く。しかし担任は、そんな冬真のことは一切気にも留めない。
「会長としてあいつのことを気にかけてやってくれないか」
そして、突然爆弾を落としてきた。思いもよらない言葉に冬真は素早く顔を上げて「は?」と間抜けな声を漏らす。担任の表情を見れば、彼は申し訳なさそうに眉をひそめていた。
「な、何で俺が」
「あー、まあ、一年と三年だし接点無いのも分かるんだが、楠も大変みたいでな……」
「いや、そんなの……俺よりももっといい人いるでしょう。俺、生徒会の仕事もあって忙しいんですけど……」
「それも分かるけど。分かるけどな。……頼れるのはお前だけなんだよ。生徒会長」
断りたいのにそんな縋るようにそう言われてしまうと、言葉に詰まってしまう。冬真は眉を八の字に歪ませ、ただただ首を横に振った。困った。立夏も幼馴染みとは言え他人である。他人のお世話が出来るほど自分に余裕なんて無いし、その状況を何とか出来るとも思えない。この人に限らず、ここの学園の人たちは冬真のことを過大評価しすぎなのだ。もちろんそう見られるように努力してきたのは自分なのだが、期待されればされるほど押しつぶされそうになる。息が苦しい。
「な、頼むよ。生徒も教員も扱いに困ってるみたいなんだ。お前ならどうにか出来るだろ」
担任のその期待を含ませた視線が嫌だった。目を合わせられない。今すぐ逃げ出したい。一対一で話し合うこの状況が嫌で――冬真は遂に頷いてしまった。
「そんなに頼むなら引き受けてやりますけど、あとで借りは返してくださいよ」
強がって零れた言葉は、自分から発せられたものだと思えないほど現実感が無かった。
恭介曰く「死んでる顔」のまま、転入生を迎えに行った先週。どうしたらなるべく会話せずに案内出来るかを考えながら急いで校門前に向かえば、そこには――当たり前だが――資料に添付されていた顔写真とそっくりな少年が立っていた。荷物を両手で持ちながらどこか虚空を見つめている少年は何だか緊張しているようで、その空気は冬真にまで伝わってくる。少年は未だ冬真に気付いていない。第一印象はこのあとの冬真の行動で決まる。冬真は一度足を止めて呼吸を落ち着かせたあと、覚悟を決めて少年のもとへ足を進めた。
「遅れてすまないな。転入生の楠立夏であってるか?」
仮面を付けて、彼にそう問いかける。余裕そうに繕ってはいるが実際は冷や汗が止まらない。強く見えるように。見下されないように。自分は天才の血を引いた選ばれた人間なのだと繰り返し暗示をかけながら少年を見下ろせば、少年は視線を冬真に向けて「えっ」と怯えたように表情を引きつらせた。視線は冬真の髪色に向いている。無駄に他人に絡まれないようにと染めた金髪は、この場では逆効果だったようだ。怯えさせたいわけではない。自分の髪を弄りながら視線に気付かない振りをして首を傾げれば、少年ははっとしたように冬真と向き合う。
「は、はい……えっと、楠立夏です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる少年――立夏の目は分厚いレンズに覆われてよく見えず、視線の先は読み取れても感情はなかなか読み取れない。重たそうな黒髪に、病的に白い肌。実際に対面して確信する。目の前にいるのは、やはり昔の幼馴染みだ。流石に昔に比べて背も伸びているし大人っぽくなってはいるが、野暮ったく冴えないところは相変わらずである。昔の自分を知っている人物がこの学園に来てしまったことなど色々不安な点はあるが、今の自分にはどうしようもない。冬真は深く突っ込むことなく「案内するから」とだけ言い放ち、踵を返して校舎に向かった。このままだらだらと話していれば自分の素が出てしまいそうだったからだ。
「あ、あの……」
「……」
「名前……」
しかし立夏は冬真の気持ちを知ってか知らでか、慌てて冬真の後を追いながらそう声をかける。名前。その言葉に冬真は思わず足を止めてゆっくりと、そして恐る恐る振り返った。
「えっと……」
名前を知ってしまったら自分があの「冬真くん」だと完全に気付かれてしまうと思って敢えて自己紹介しなかったのに、直接聞かれてしまうとはぐらかすことも出来ない。名前を言わずに押し通そうと思っていたばっかりに、アドリブに弱い冬真は分かりやすく口篭ってしまう。
見た目が変わったのは立夏だけではない。冬真だってあの頃と比べて身長も伸びたし、顔付きも男らしくなったのだ。髪型だって黒髪から金髪になったし、ピアスだって開けた。雰囲気は百八十度変わっているはずである。立夏も現時点ではこの人物が冬真だと気付いていないだろう。しかし、流石に名前を聞いたら思い出すに違いない。
鳥の囀りが聞こえる。この学園は山の上に建っているため比較的雑音は少ない方だが、それでもこの時はさわさわと木々が揺れる音が鮮明に聞こえるくらいには無音だった。誤魔化し方が分からない。
「この学園の生徒会長を務めている榊冬真だ。……よろしく」
そして結局、素直に名前を告げてしまったのだった。
「えっ……榊冬真って、あの冬真くん?」
ほら、やっぱり。気付かれてしまった。冬真は無意識に眉をひそめるが、立夏は余程幼馴染みに会えたことが嬉しいらしく言葉が弾んでいる。どうしよう。このままじゃまずい。何故かその時、ふと昔立夏の前で泣いてしまったことを思い出して、居たたまれなくなった冬真は逃げるように再び歩き始めた。立夏の前でも本当の姿を晒したことは無いはずだが、色々と情けない姿は見られている。立夏がそれを覚えているかどうかは知らないが、余計なことを言われる前に早く去らなければ。早く、早く。
「ねえ、冬真く――」
「俺、これからお前と関わるつもり無いから」
ぴしゃり。叩くように立夏の言葉を遮った。焦りと恐怖に耐えられず、思わず、といったような感じだった。一気に静寂が戻る。すぐに冷静さを取り戻した冬真は自分が思っていたよりも冷たい声が出たことに気付き足を止めようとするが、やめた。言い訳をするよりこのまま校舎に入ってしまう方が早い。そう思ったからだ。
このとき、立夏がどのような表情をしていたのかは分からない。傷付いた表情をしていたのかもしれないし、怒りで眉をつり上げていたかもしれない。逆に、何も思うことなく無表情だったのかもしれなかった。しかしこのときの冬真は早くこの場から去らなければという意識が強すぎて、立夏のことを気にする余裕もなかった。追い詰められたときの冬真は一気に視野が狭くなる。これも両親から常々言われていたことだ。――それから、冬真は立夏の顔を見ていない。
三年と一年ではフロアも違うため、顔を合わせることは滅多にない。冬真が立夏を避けていたこともあってあれから二人がばったり出会すことはなく、気付けば一週間が経っていた。そんな時だ。担任からあんなことを言われたのは。
「気にかけるって言ったって……」
冬真は鞄を肩にかけ、俯きながら階段を登る。呟いた声には普段以上に覇気が無かった。頼まれるとなかなか断れない自分の甘い性格を何とかしたい。こんなに強く思ったのは久しぶりかもしれない。担任にああ言ってしまったことを、冬真は早速後悔していた。
三年フロアは二階にあり、生徒会室があるフロアは五階にある。この学園にはエレベーターも設置されているが、それは身体が不自由な人や来客用であって、一般生徒は極力階段で行くようになっていた。とは言ってもそれは教師から直接言われたわけではなく一般生徒が使用したところで怒られることもないのだが、何故か昔から暗黙の了解となっているので冬真も律儀に毎日毎日階段で生徒会室まで通っている。もし自分が一年だったら一階分登るだけで済むのにな。そう思いながら冬真は階段の踊り場で足を止め、一息付いた。顔を上げると、壁にはここが三階と四階の間ということが示されている。あと半分登ったら、一年のフロア。立夏がいる階だ。
『会長としてあいつのことを気にかけてやってくれないか』
そう思った途端、担任の言葉が脳内で繰り返される。現実逃避をしても結局は担任に言われたことを思い出してしまう自分に、冬真は自然と溜め息が出た。胃が痛い。
会長として、と言われても何をどう気にかけたらいいのか分からない。冬真には普段の授業に加えて生徒会の仕事もあるのだ。他人を気にかける暇はない。それに時間のことを抜きにしても、なるべく立夏とは関わりたくなかった。だってこの学園に来たのだって、以前の自分を知っている人と関係を断ち切るためだ。やっとここまで這い上がってきたんだから、不安要素はなるべく取り除いておきたかった。
担任に言われたことなんか、忘れた振りをしてしまえばいい。分かっている。このまま真っ直ぐ生徒会室に向かっても、どうせ担任にはばれやしない。律儀に立夏のことを気にする必要なんてない。そんな義務、自分にはない。
――でも、もし冬真が様子を見に行かなかったら? そしたら、立夏はどうなるだろうか。そんなもしもを考えてしまうと、もう止まらなかった。足が悪いのは生まれつきとは言え、きっと歩くのにも苦労しているだろう。この学園は馬鹿みたいに広いのだ。移動教室だった場合、そこまで歩かなければいけない立夏の苦労は計り知れない。それに、立夏は目も悪かった。冬真はふと、立夏が昔「眼鏡が無いと何にも見えない」とぼやいていたことを思い出す。
そんな彼が転校したばかりで頼れる人もいない中、一人で頑張っているのだ。――そう思うと、五階へと続く階段に足を踏み出すことは出来なかった。
「……はあ」
他者に対して非情になりきれない。それは冬真の長所でもあれば、欠点でもある。冬真は自分の甘さに辟易しながら、仕方ないと言わんばかりに一年の廊下へ足を踏み入れた。
自分と二歳しか変わらないというのに、一年のフロア内は三年のフロアと比べて活気に満ち溢れていて若々しい印象を受ける。いつもは三年の廊下を歩いていても当然何も言われないが、流石に一年の廊下を歩いていると嫌でも注目を浴びた。「生徒会長だ」「なんでこんなところに」なんてこそこそと噂され、冬真は居心地の悪さに思わず眉間に皺を寄せる。普段は自分の教室や生徒会室にしか行かないのですっかり自分の立場を忘れてしまうが、冬真は一応この学園のトップであった。金髪で背が高く威圧的なオーラを放つ生徒会長がこんなところを歩いているとなると、やはり目が行ってしまうのだろう。動物園の猿にでもなったみたいだったが、まあ、仕方がない。こういう立場に立つのを望んだのは自分だ。そう自分を納得させて、冬真は立夏を探そうと辺りを見渡す。そういえば、立夏のクラスを聞きそびれていた。
「ええと……」
どうしようかな。とりあえず端から教室を覗いてみようか。そう思ったその時だった。突然、不自然に廊下の左端が空いたのは。
自分が来た時とは違う種類のざわめき。雰囲気が一変したのを察し、冬真もつられて顔を上げた。いくつか「大丈夫?」という心配そうな声も聞こえる。次々と自分から逸らされる視線。自分の代わりに視線を集め始めている誰かに、何事かと冬真も視線を合わせる。
「ご、ごめん、大丈夫……大丈夫だから……」
そこには廊下の左側にある手すりに捕まって歩いている立夏の姿があった。
ここの学園は、基本障害を持った生徒は通っていない。何らかの理由で骨折する生徒ならたまにはいるが、それも一時的なものである。立夏のように生まれつき身体の不自由な子供はいない。何故なら普通の親はこんな目が届きにくい山奥の学園に自分の子供を通わせないからだ。だからだろう。周りの生徒はどう関わったらいいのか分からない。幼い彼らは戸惑いを隠しきれなかった。そんな周りの空気を感じた冬真は、諦めたように、そして決意をしたように溜め息を一つ付く。あまりおおごとにはしたくないんだけど、なんて願望は叶いそうにない。
「立夏」
こつん、冬真の足音が廊下に響いた。立夏を含めた生徒たちは一斉にそちらへ目を向ける。その視線を煩わしく思いながらも、冬真はそれに気付かない振りをしながら立夏に近付き、「大丈夫か?」と手を差し伸べた。きっと冬真が助けなくても立夏は目的の場所まで一人で行けるのだろうが、一年フロアに生徒会長がいるという事実が広まっている今、素知らぬ顔をして帰ることは出来なかった。
「……冬真、くん」
そして声をかけられた張本人である立夏を見れば、彼は冬真を見上げて表情を硬くしている。関わるつもりはないと言われたばかりだからだろうか。どこか気まずそうだった。しかし気まずいのはこっちもだし、そもそも立夏の反応を気にしている場合ではない。ここから早く去ってしまわないと。
「どこ行くんだ。一緒に行こうか?」
「え? あ、あの……」
「おぶってやるから乗って。面倒臭いだろ、この状況」
早くこの場から逃げ出したいという気持ちが先行して若干早口になっている冬真は、戸惑っている立夏を無視して立夏の前でしゃがみ込み、背中に乗るように示す。突然そう言われた立夏は「え、っと……」と困ったように周りを見るが、生徒たちの目もあるからか、仕方なくそろりと冬真の背中に乗った。
「も、もういいよ、冬真くん。降ろして」
一年フロア、階段前。冬真を止める立夏の小さく細い一声で、冬真はぴたりと足を止める。あの場から遠く離れたわけではないので未だに生徒たちの視線を感じるが、本人に頼まれてしまったら無理強いは出来ない。冬真は少し考え込んだあと、言われた通りに自分の背中から立夏を降ろした。思ったよりも軽い立夏の身体。想像以上のそれに、冬真は背中から離れた温もりを目で追いながら、思わず「お前、ちゃんと飯食ってんのか?」と立夏へ問いかける。そこには会長としての義務感と、幼馴染みとしての情しか無い。
「まあ、人並みには……」
立夏はいうと少し乱れた制服を整えながら、冬真からの問いかけにそう素っ気なく返す。目が泳いでいる、と思う。実際には分厚い眼鏡で隠れてしまってよく見えないのだが、目が合っていないことだけは確かだ。多分、立夏は冬真とどういうスタンスで関わったらいいのか分からないのだろう。あんなことがあったばかりだ。冬真はそんな立夏の挙動を眺めながら、どうしようかな、と思案する。
今回は、十割自分が悪い。久しぶりに会った幼馴染みに対して、「お前と関わるつもり無いから」だなんて台詞、本音だとは言え、もし自分が言われた立場であれば傷ついてしまう。多分、もう少し良いやり方があったはずなのだ。無能な自分には到底思いつかない、いい方法が。冬真は大きく息を吸って、吐く。そして立夏を見れば、立夏は居心地悪そうにきょろきょろと辺りを見渡していて、今すぐにでもこの場から離れたいんだろうなと察した。自分が悪い。改めてそう思った冬真は、恐る恐る口を開く。
「……ごめん」
そうして絞り出すように吐いた言葉。視線はもちろん、自分の足先だ。
「まさかこんなところで立夏に会うなんて思ってもみなかったから、焦ってた」
「……」
「本当にごめん」
怖くて立夏の顔は見れなかった。このままこの場を離れてしまおうかと思ったほどだ。心臓が煩い。呼吸が上手く出来ない。だから人と関わるのは嫌なのだ。結果が分からないものほど怖いことはない。そして冬真が我慢しきれず、「それだけだから」と五階に続く階段を一段登った時だった。くい、と裾を引っ張られ、冬真は足を止める。
「大丈夫」
そう言った立夏の顔は、やっぱりよく見えなかった。立夏は冬真の制服の裾を掴んだまま、誤魔化すように口角を上げる。
「全然、何とも思ってないよ」
「……」
「……ううん、うそ。本当はちょっとショックだった。けど、冬真くん謝ってくれたし、大丈夫」
立夏はそう言って、すっと冬真から手を離した。自分より幾分も小さい幼馴染みに気を遣われている現状にきゅう、と胃が痛くなる。やっぱり傷付けていたんだなあ、とも。……なんて返したらいいのだろう。謝罪はさっきしたし、かと言ってお礼を言うのも変な気がする。冬真は咄嗟に一度口を開きかけるが、結局再び口を噤んだ。何を言っても不正解な気がして怖かった。なんて悶々と考えていると、立夏は突然小さく笑って、ほっと息をつく。
「でも、良かった」
「え?」
「冬真くん変わったなあって思ったけど、中身は全然変わってないね」
「……」
「やっぱり優しい」
柔らかい口調。昔を懐かしむような立夏の声に、何故か反射的に心臓が跳ねた。一瞬自分が何を言われたのか理解が出来なかった。えっと……今、なんて? 冬真は目を細めて首を傾げてみせるが、立夏はそれ以上何も言わない。
『中身は全然変わってない』。心の底から出た本音であろうそれは、きっと褒め言葉のつもりで言ったのだろう。言葉に纏う雰囲気で分かる。多分ここでは自分は喜ぶべきなのだ。それは分かる。なのに不思議と素直に喜べない。どうしてもその言葉の裏の意味を考えてしまうのだ。――だって、俺は今まで『変わる』ためにここまで頑張ってきたのに。冬真は心が冷めていくのを感じながら、ぐしゃりと自身の金髪を掻き上げる。自分の気持ちが分からない。とにかく、胸の奥に何かが詰まっているような、そんな気分だった。
「冬真くん?」
そんな黙りっぱなしの冬真を、立夏は不思議そうに見上げていた。そんな立夏を見下ろして、ぼんやりと考える。……まあ、ここで言うことではないだろう。立夏は冬真を傷つけるつもりで言ったのでは無いんだろうし、ただでさえ自分は今の言葉に何をどう感じたのか分かっていない状態なのだ。だから、何も無かったことにすればいい。不明瞭なそれを無かったことにしてしまえば全て上手く行く。自分より年下で小さい立夏に対して本音を話すのも馬鹿馬鹿しくて、冬真は「いや」と首を振ったあと、五階へ向かう踊り場まで階段を登りきって立夏と物理的に距離を取った。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
そして、話を切る。それが不自然だと分かってはいるものの立夏とこれ以上話しても仕方ないと思った冬真は、振り返り、立夏を見下ろした状態でそう吐き捨てる。すると突然冬真に一線を引かれた立夏は一度考えるように黙ったあと、何も無かったかのように「うん」とだけ返した。立夏の返事を聞いたあと、そのまま冬真は立夏と別れて生徒会室へ向かう。ぱた、ぱた。廊下を踏みしめる足音。
『冬真くん変わったなあって思ったけど、中身は全然変わってないね』
別に、傷ついたわけではない。客観的に見たら自分はまだまだ『自分』のままであって、自分が望んでいる変化は未だ得られていないというだけだ。まだ、何も出来ない無能な自分のままなだけ。今の努力では到底足りない。まだまだ。まだまだまだまだ。
「頑張らないと……」
ぽつり、呟く。思ったよりも生気のない言葉だった。
きっと言われたのがクラスメイトや生徒会メンバーであれば、こんな気持ちにはならなかったはずなのだ。こんなにもやもやするのは、多分相手が立夏だから。昔の冬真を知る、幼馴染みだから。
予感がする。自分の気持ちが変わっていく、予感がする。そしてそれが良い意味のものではないことも、冬真自身気付いていた。
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