「あ・・・」
忘れた弁当箱を回収し、帰宅しようと教室を出ると、例のピアノの音が聴こえる事に気付いた。場所はそんなに遠くなさそう。音楽室からだろうか。
いつもピアノを弾いている人は誰なのか。演奏する本人はまだ校舎に残っていて大丈夫なのか。色んな疑問を抱きながら、俺は音の鳴る方へと足を運んだ。
音楽室。少し開いたドアから漏れるピアノの音に、恐る恐るドアの隙間から中を覗き込む。そこには一人の少女がいた。
華奢な体。開けた窓からそよぐ夜風に靡く髪。細く伸びる指が滑らかに鍵盤の上を踊り、音を奏でている。澄んだ夜空から差し込む月明かりに照らされた彼女は、とても美しかった。
しばらく見惚れていると、演奏を終えた彼女が小さくため息をつく。そして、一筋の涙が頬を伝うのが見えた。月明かりに反射して、キラキラと輝く宝石のような涙をこぼす姿に、俺は心を奪われてしまった。
"ゴトッ"
『えっ』
「あっ!」
あまりの美しさに呆けていると、力の抜けた腕から弁当箱が滑り落ちた。その音に驚く彼女と俺。
『誰・・・?』
「あ、あの、えっと・・・す、すんませんっ!」
ドアの影から体を出して、勢いよく頭を下げる俺。聞きたいことは色々あったけど、覗き見をしていたことをまず謝る。
「最近ずっとピアノの音が聴こえるのが気になってて!今日たまたま忘れ物取りに戻ってきたらまだピアノの音が聴こえたから、その音をたどってきたら、誰かが弾いてるのが見えて、綺麗だなって思って、そしたら泣いちゃって、その、」
『・・・別に怒ってないから、とりあえず落ち着きなよ。』
焦って矢継ぎ早に言い訳する俺に、いたって冷静に言葉を返す彼女。怒ってない、という言葉に少しだけ安心する。
言われた通り落ち着こうと、深呼吸を何回か繰り返して、ここに辿り着いた経緯をもう一度説明する。彼女は特に何も言わなかった。
「・・・ピアノ、上手なんですね!」
俺、正直ピアノのことはよくわかんないけど、素敵でした!と思ったことをそのまま伝える。
『・・・弾けないよ、私。』
「え?」
弾けない、とは。先程、俺は彼女が彼女の腕でピアノを弾いている姿を見た。弾いていたではないか。
『弾けないんだ。随分前から。』
「で、でもさっき・・・」
けれど彼女は、何も答えずに眉を下げて儚げに笑うだけだった。
『・・・そろそろ帰ろう。学校、閉まっちゃう。』
ピアノの鍵盤蓋を閉める彼女。有無を言わせないような雰囲気に俺は何も言えず、ただただ帰り支度をする彼女を見つめることしか出来なかった。