蛇の視線から逃げられない
その人に会ったのは、学校が終わり、一織たちと別れてからしばらく経った頃だった。マスクと帽子にメガネといういかにも芸能人らしい変装。それでも隠しきれない圧倒的なオーラに思わず足が止まる。一織や環たちが所属しているIDOLiSH7のメンバーや、同じクラスの亥清くん以外で会う芸能人は珍しい。
このまま黙ってすれ違っていいものなんだろうか、挨拶くらいはした方が…、いやでも私部外者だし関係無い…?ぐるぐると考えながら再び足を動かそうとして−−その人、棗巳波さんが、メガネのレンズ越しに私を真っ直ぐ見つめている事に気が付いた。普段のテレビで見かける温厚的な雰囲気とは違う、射貫くような視線に思わずゾッとする。しばらく無言で見つめ合い、やがてふ、と張り詰めた空気をゆるめるように小さく笑った棗さんが近付いてきた。
「こんばんは。日が暮れるのが早くなってきましたね。」
優しい、人の良さそうな笑顔。でも本来は毒舌で、丁寧な言い回しに毒を混ぜてくるような人物であるということは、一織のチームメイトの二階堂さんたちから聞いている。頭の回転が恐ろしく早く、幼い頃からの経験で身につけた人心掌握術を活かし、会話の主導権を握るのが得意であるということも。
「…こんばんは。ŹOOĻの棗巳波さんですよね、亥清くんに用事ですか?彼なら反対方向の道ですよ。」
−−油断したらあっという間に頭から丸呑みにされてしまいそうだ。…今すぐ逃げたい。なんでこんな時に限って誰も通りかからないの…。
「ふふ、ご丁寧にどうも。…でも、今日、私が用事があるのは貴方ですよ。三条舞さん。」
「え…?きゃ…っ!」
一瞬で距離が詰められ、トン、と背中が壁に当たった。慌てて押しのけようとするがそれより早く両手首を掴まれ、身体の横に固定されてしまう。そのまま吐息が聞こえるくらいに接近され、間近で瞳を覗き込まれる。−−逸らしたいのに逸らせない。まるでメデューサに睨まれて石になってしまったみたいに、身体がどこもかしこも言うことを聞かない。手首を握る力は強く、まるでビクともしなかった。
いくら華奢でしなやかに見えても、この人は紛れも無く男性で、私程度の力では到底叶わないのだと、否が応でも思い知らされる。至近距離で見つめ合っている状態から何とか視線を動かすと、その瞬間、頬に冷たく柔らかな感触。
「−−っえ、」
思わず身体が跳ねる。視線を棗さんに戻すと、いつの間にか下げられていたマスクと薄く整った唇が弧を描いているのが目に入った。何をされたのか理解し、呆然と立ち尽くす。そんな私を見て棗さんは一言二言何かを言い残し、立ち去って行った。
家に戻っても、頬に感じた感触は消えることは無かった。
あれから3週間。今日はIDOLiSH7のマネージャー、紡ちゃんのお手伝いをするために、とあるテレビ局のスタジオに来ている。棗さんとの接触はあれ以来何も無い。
あれは質の悪い夢だったのだろう、このまましばらく経てばきっと風化するはず。
それより一織たちにラビチャして楽屋の場所を聞かなきゃ。そう思い携帯を開いた瞬間、聞き覚えのある、今、最も聞きたくない声が聞こえた。
誰かと話しながらこちらへ向かってきているらしい。だんだんと近づいてくる足音に、焦って近くの使われていない物置部屋らしき所へ咄嗟に入り込む。掃除はこまめに行なっているのかあまりホコリっぽくは無く、ここでならしばらくやり過ごせそうだとひと息をついた。
「…どうしよう…、まさかこのタイミングで会うなんて…。」
今までもIDOLiSH7のお手伝いはしたことあったけれど、今日だけは断ればよかったかも、と少し後悔する。取り敢えず誰かに迎えに来て貰えるよう頼もうと再び携帯を手に取った瞬間、ガチャっと扉が開いた。
「おや、」
「ふふ、こんなところで隠れんぼですか?…でも残念、見つかってしまいましたね、私に。」
その人はあの優しげな笑顔で近づいてくる。逃げようと後退するも、あっという間に壁に追いやられてしまった。−−彼の手が、ゆっくりと伸びてくる。
「…っは、離して…!離して下さい…!」
いくら抵抗したくても、アイドルであるこの人に無闇矢鱈に暴れて下手に怪我をさせることなんて出来なかった。
もし万が一のことがあったら、この事は確実に月雲の社長に話がいく。そうなったらダメージを受けるのは私ではなく小鳥遊事務所…、IDOLiSH7の人達だ。
どうすることも出来ない絶望と何をされるか分からない緊張感に固まっていると、ゆっくりと床に押し倒される。あの時の状況を思いだせるように、指が、視線が強く私の身体に絡みつく。
−−そのまま、吸い込まれるように近付いてくる唇を拒めなかった。あの時頬に感じた感触は、今は直接私の唇に触れている。
何度も角度を変えてだんだんと深くなっていく口付け。いつの間にか棗さんの手は私の頭の後ろに回っており、僅かな唇の隙間から潜り込んだ舌が私のそれと絡み合う。身体中の酸素を奪い尽くされそうになるほどの深い、激しいキスに意識が次第に朦朧となっていく。
やがて離れた唇につたう銀の糸を妖艶に舐めとりながら棗さんは至近距離で私を見つめた。メガネのレンズ越しではない、裸眼のベビーピンク色の瞳。
その時私は初めて、彼の瞳の奥に、確かな熱が灯っていたことを知ったのだった。
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