アイウォンチュー!




 世界を席巻する黒社会、所謂チャイニーズマフィアと呼ばれる犯罪組織が、彼らを捕まえる側であるはずの警察組織の一部と密接な関係であることは最早誰もが知っていることだ。政府役員が黒社会集団の保護傘であると判明し失脚することはしばしばある話で、諸々の問題を解決するために、警察が香港を拠点とするとある黒社会集団を利用したなんてことも噂になったことがある。本来なら敵対関係であるはずの両者は、全てがそうではないとはいえ、見えないところで肩を並べて社会の闇に潜んでいた。
 なまえの父もまた、そんな社会の闇に身を染めた警察側の一人だ。警察幹部でありながら、その裏では地元を仕切るマフィアと癒着し数々の犯罪を犯してきた。ある時は警察のガサ入れ情報をマフィア側に流し、ある時はマフィアが不必要の烙印を押し切り捨てた売春宿の情報を警察側に流して手柄を手に入れる。そうして着々と警察内で出世を繰り返し、マフィア側に対しても有益な情報筋として彼らへのコネクティングを手にしてきた。酷く悪どい男だ。何せ何年もそんなことを繰り返しているというのに未だ尻尾すら見せず、優秀な警察官として上司からも部下からも厚い信頼を得ているのだから。
 だが、家族であるなまえは知っている。父は、自分の行いに気づきもせず自分を慕っている部下のことも、自分を可愛がってくれている上司のことも内心で馬鹿にして利用していると。そして家族すらも、父がのし上がるための道具でしかないことも。

 なまえの家は父と母の三人暮らしだ。家で絶対の存在として君臨する父は母に対して躊躇なく暴力を振るうし、なまえに対しては暴力こそ振るいはしないが言葉は酷く冷たかった。なまえに暴力を振るわない理由も決して彼女を可愛がっているからではない、いつか来るべき日のときのため、道具を傷つけないためでしかなかった。
 政略結婚で結ばれたなまえの母はいつだって父の暴力に怯え何も言えず、そんな二人の間に生まれたなまえに発言権などないに等しかった。父から認められているのは肯定の言葉と、問いかけに対する答えだけだ。勉学など最低限できればいい、そんなことよりもお前は女として美しくあれ。なまえは幼い頃から父にそう言い聞かせられ生きてきた。賢すぎる女は使い勝手が悪いのだと、いつだったか父が零していたのをなまえは覚えている。母が父に妻として選ばれた理由も、ある程度出世の見込める家柄且つ馬鹿すぎず賢すぎない大人しい女だったから。そんな家庭に生まれたのだから、始めからなまえには父に歯向かう選択肢なんて選べなかった。むしろそんなことを思い浮かべすらしなかっただろう。ただ父に従順になるよう、環境が作り上げられていたのだ。

*

 なまえにとって、その日はいつもと変わらない昼下がりの午後となるはずだった。学校が休日でも、朝は変わらず決まった時間に起きて制服ではなく私服に着替える。余計な見聞を広げないようにと友達になる相手すら父に決められていたため、薄っぺらい交友関係しかないなまえは外に出て誰かと遊ぶでもなくただゆっくりと家の中で過ごしていた。然し、裁縫や音楽を嗜むことは許されているどころか父に推奨されているので、それらで時間をつぶすことが多い。恐らくこういった、所謂趣味を推奨する理由もいずれ商品としてこの家を離れるときのために何か芸でもあればいい、なんてその程度の考えで言っているのだろうことはわかっていたが、それでもなまえにとって家族のことを考えなくてもいい趣味の時間というものは有り難いものだった。

 今日は何をしようか、それを考えるのもなまえにとって数少ない楽しみだった。学校では父の選んだ人間が友達を名乗って近づいてくるから正直鬱陶しくて楽しむどころではない。父は勿論のこと、父に怯えるばかりで何も助けてくれない母のこともなまえは好きではなかった。そんな人間関係から唯一解放される時間。外に出るには父の許可が必要だが、なまえは外に出たいとも思わなかったし必要なものは全て雇われた使用人が買ってきてくれる。今日もなまえはお使いを頼んで、それが届くのを部屋の隣に備え付けられた庭で待っていた。
 なまえの庭は酷く静かだ。見た目に拘る父だからなまえしか出入りをしないこの場所も確り手入れするように使用人に命令されているため、綺麗ではある。庭と言っても中庭のような見渡しの良いものではなく、庭を囲むように家の壁が隣り合っていた。なまえの部屋以外で唯一この庭を見ることができるとしたら、それは二階の窓からだろう。父の書斎からはなまえの部屋の内部こそ見えないが、庭を見下ろすことはできた。まるで空の見える箱庭のようだ。もしくは、飛ぶことを知らない小鳥のための鳥籠。どちらにせよなまえにとってはあまりのびのびと過ごせる場所ではないが、部屋にいるのも窮屈で時たまこうして庭に出ていた。
 それにしても使用人が遅い。まだ戻ってきていないのかと考えて、ふと思い至る。そういえば、今日は大切なお客様が来ると父が言っていたっけ。客人が来るとき必要以外部屋から出るなと言う命令がこの家にはあった。それはなまえだけでなく使用人にも適用されている。もちろん父や客人を世話をする使用人は別だが、それ以外は決して彼らに粗相をしないよう部屋から出るのを禁じられていた。部屋の外、というのはなまえの庭もその一つだ。さぁっと顔を青くする。この庭が見れるのは父の書斎のみとはいえ、その父に見られてしまっては怒られるに違いない。折檻こそされないが、幼い頃から父の言葉に逆らうことを良しとしなかったこの家において、父の怒りというのは酷く恐ろしいものなのだ。
「う、う……兎に角、部屋に戻ろう」
 二階にある唯一の窓から逃げるようにわたわたと部屋へ足を運ぶ。そして恐る恐る部屋から見える範囲で父の書斎の窓を見上げると、誰かがこちらを見下ろしているのが見えた。顔はよく見えないが父ではない、金髪の小柄な男。その姿を捉えた瞬間なまえは急いで身を隠した。きっと、あれは父のお客様だ。見られた、見られた。父に伝えられたらどうしよう!絶対に怒られる!
 なまえはいつ父が怒りの形相を浮かべて部屋を訪れるかと体を震わせていたが、予想とは反して夕刻、流石にもう客人も帰っただろうほどの時間が経っても父はなまえの部屋に訪れなかった。もしかすると、客人はこちらに気づかなかったのかもしれない。父は姿を見せなかったから、客人さえ気づいていないのであればこうして父が何も言ってこないのもわかる。ほうっと、安堵の息を吐いた。
 然し、そんな安心しきったタイミングを見計らったかのようにコンコンとなまえの部屋の扉がノックされる。
「お嬢様、お嬢様いらっしゃいますか?」
 聞き慣れた使用人の声だ。なまえが返事をすると、失礼しますという声とともに扉が開かれた。現れた使用人の姿になまえはぎょっとする。使用人の顔は酷く青ざめていて、何かとても恐ろしいものを見たように震えていた。
「どうしたの?」
「……お嬢様、旦那様がお呼びです」
 今度はなまえの顔が青ざめる番だった。使用人がこうして酷い顔色をして父が呼んでいる、と言った時は大抵父が怒っているときだ。やはり、先程部屋から出ていたのを客人は目撃していたのだ!なまえはぶるりと震える体を自身の腕でぎゅっと抱きしめて、頷いた。
「わかった、お父さんは書斎?」
「は、はい。……あの、お嬢様」
「なに?」
「…………どうか、お元気で」
 使用人はそれだけ言うと、なまえに頭を下げてそれから一言も話さなくなった。どういうことかと問いかけても、私の口からは何も言えないと言わんばかりに首を横に振るばかり。なまえは大きな不安を抱えながらも、父を待たせてはいけないと幼い頃から身に染み付いた思考のもと、父のいる書斎へと向かった。
 書斎の扉をノックして、なまえですと扉の向こうに声をかければ少しの間をおいて入室の許可が出る。失礼しますと一声かけて扉を開けると、黒地の革の椅子に腰掛けた父が机越しになまえを見つめていた。その表情が怒りで歪んでいないことに、一先ずなまえは安堵する。
「座りなさい」
 父に促されるまま、なまえは父と対面する形でソファへと腰を下ろした。一体何を言われるのかと、身を縮こませる。自然と顔は父の顔を見ないようにと俯いていた。
「なまえ、お前ももう二十歳だったな。今良い相手はいるのか?」
 突然の問いかけになまえは喉を引きつらせた。何を聞かれるのかと思えば、良い相手、つまり交際している相手はいるのか、だって?そんな相手、一度だって出来たことがないと父は知っているはずだ。なにせ交際どころか、友達すら父が選んだ相手としか交流をもたないなまえにそんな相手ができるはずない。
「……いません」
「だろうなあ。だが気にすることはない。喜べ、お前が俺の言いつけを破って部屋の外に出ていたおかげで、とんでもなく上玉の相手がお前を見初めてくれた」
 びくりとなまえは体を震わせ、恐る恐る父を見上げる。父は、酷く優しい笑顔を浮かべていた。今まで一度も見たことがないその表情に背筋が寒くなる。言いつけを破った、といつもなら酷い罵倒が待っているのに、それどころか破ったことによって得た利益に喜んでいるようだった。となれば、あの窓から見えた金髪の男ないしその関係者は父にとってとても有益な取引相手ということだ。つまりは黒社会においてもトップクラス。ろくな相手じゃないと、なまえはすぐにわかった。
「彼がまさかお前を気に入るとは思わなかったが、いや本当に良い働きをしてくれた。流石は私の自慢の娘だ」
 父はなまえの様子など気にすること無く、上機嫌にぺらぺらと喋っている。父の言う"彼"が此処数年であっという間に力を伸ばしたここいらの地域で根を張る組織の香主であること。その組織は既に父のみならず地元の公務員たちとも通じ、既に地域の市場を仕切っていること。なまえが"彼"と結婚すれば、その大きな組織の後ろ盾を得られること。
 なまえは悟った。とうとうこの日が来たのだと。馬鹿すぎず賢すぎず、ただ女として美しくあれと育てられたなまえが父に商品として差し出される日が。
「今日の夜迎えが来る。それまでにあちらに持っていきたいものを荷造りしておきなさい。嗚呼、服だとかそういったものは全てあちらが用意するようだから置いていけ」
「きょ、今日ですか」
「不満か?」
「……い、いえ」
 あまりに急すぎて思わず口をはさむが、にこやかに笑う父の表情に影がさすのを見てすぐに口をつぐんだ。
 持っていきたいもの、なんて言われてもなにもない。抑々結婚と言っても、こんな急に?なまえの頭は混乱するばかりだ。だが、やはり父はそんななまえを気にかけはしない。話は終わりだと言わんばかりに、退室を促した。逆らうこともなくなまえはとぼとぼと書斎を後にする。
 使用人が言っていたのは、こういうことだったのかとぼんやり頭の隅で理解した。今日この家を追い出されるから、あんなことを。母はもう知っているんだろうか、あちらに行ったら学校はどうするんだろうか、酷いことはされないだろうか。いろいろな考えがなまえの頭に浮かんでいく。次第に悲しくなって、部屋についた頃にはぼろぼろと泣いていた。わかってはいた、父にとって自分は道具だとわかっていたつもりだった。けれど実際にこうして取引のために、どんなことをしてくるかもわからない相手に売られたという事実がなまえの心を抉っていく。荷造りをしておくように言われたことなんてすっかり頭から抜け落ちて、しくしくとベッドに縋って泣いていた。
 それからどれくらい経っただろうか。なまえの部屋の扉がコンコンとノックする音もなく開かれた。なまえはそれに気づかず、いつの間にか泣き止んでただぼうっとベッドに顔を突っ伏している。扉を開けた人物は部屋の主に許可を取ることもなく、そのままなまえに近づいていった。自分に大きな人影がかかったことで、漸くなまえは侵入者の存在に気づきハッと顔をあげる。そこには、昼間に見た金髪の男が不思議そうになまえを見て立っていた。
「泣いてんの?」
「え、あ……」
「何、もしかしてオマエの父親?アイツひでーこと言いそうだもんな」
 赤い唐装を身にまとった小柄な男。然し服の上からでもわかる、筋肉質な体。只者じゃないと武道に対しての知識がないなまえでもわかった。
「あなた、は」
「覚えてねえの?昼間顔見たじゃん。あ、もしかしてオマエからは見えなかった?」
「……」
 なまえはこくんと首を縦に振った。此処らへんで金髪など中々見ないから昼間の男と目の前の男が同一人物だと思い至っただけで、なまえからは男の顔は見えていなかったのだ。だが男はそんなこと気にもしていないらしく、ふうん、とだけ相槌をうつとすぐににぱっと笑顔を浮かべる。なまえと同い年くらいであるはずなのに、無邪気な子供のような笑顔だった。
「ま、それよりさ。迎えに来た」
「迎え……?」
「そう、迎え。だってオマエ今日からオレの嫁だもん」
 婚姻届とか何も出してないし結婚の日取りもまだだけど、と付け足して男はあっけらかんと言い放った。つまりなまえを見初めたという香主は目の前の男ということになる。なまえはぽかんと男を見つめた。だって目の前の男からは父のような嫌な雰囲気も、裏社会特有の仄暗い雰囲気も、人を簡単に殺してしまえるような冷たさも感じなかったからだ。こんな子供っぽい人が巨大な組織の香主なんて、なまえにはとてもじゃないが結びつけることはできなかった。
「必要なモン準備した?まあ別にあっちでなんでも用意してやるからいらないとは思うけど」
 男はキョロキョロとあたりを見渡して、荷造りした様子がないことに首を傾げている。荷造りなんてしていないが、別段必要なものもなかったなまえは男になにもない、と告げた。
「そ。じゃあ行こうなまえ。親父さんに聞いた話だと、あんま外で遊んだこともないんだろ?ならオレが連れてってやるよ。いろんなことをオレが教えてやる」
 な!と男がなまえに手を差し伸べた。あまりにもこの場には似つかわしくない台詞だった。なにせ、なまえは取引のために売られた存在だ。大体の場合、そうして売られた女は監禁されたり性処理として使われたり、ろくな目には合わない。だからなまえも見初められたとは言え、そういうことに使われるのだと思っていた。それなのに、目の前の男からは一切そんな欲は見えない。
 なまえは躊躇しながらも、その手を取ることにした。男の本意がどうであれ、なまえにはその手を取る選択肢しかなかったのだから。だが、そんななまえの考えに気づいているかどうか定かではないが、自分の差し出した手をなまえが取ったことが嬉しいらしい男はぱあっと表情を明るくさせた。自分の手を握ったなまえの手を、もう片方で包むこむ。
「絶対、オレが幸せにするから」
 そう言ったまだ名前も知らない男を、なまえは心のどこかで信じていた。

 男は万次郎と名乗った。黒社会の関係者や彼の存在を知る警察関係者はマイキーと呼んでいるらしいが、なまえには万次郎と呼んでほしいことと敬語は使うなと強請られなまえは頷いた。断る理由もなかったから頷いただけであったが、それでも万次郎は破顔してなまえを正面から抱きしめた。万次郎はスキンシップが好きらしい。本人が言っていたわけではないが、やたらとなまえに触れたがる万次郎を見てなまえはそう確信していた。抱きしめる手に性的なものは感じられず、なまえが反応を見せるたびに楽しそうにする万次郎を拒絶することもできず、なまえはそのぬくもりを享受している。抑々なまえに拒絶する選択肢なんてないのだけれど。
 万次郎の異母兄妹だという、エマという金髪の少女にも会った。開口一番、マイキーのお嫁さん?!と口をあんぐりさせて驚いたと思ったら、すぐにぷるぷると肩を震わせなまえに飛びついた。
「おい!エマ!オレのなまえなんだけど!」
「わ〜!ウチお姉ちゃんが欲しかったんだ!男ばっかでむさ苦しいし、たまにうちに来る女の人はみんな怖そうな人ばっかりだし」
「エマ!」
「もー、マイキーうるさい!」
 これからよろしく、ネェ!と笑顔で言われては、なまえもその勢いに負けてエマを抱きしめ返した。それを見た万次郎が、オレもまだなのに!とぷんすか怒ってなまえとエマ二人がかりで宥めることになったけれど。思えば、その時漸く緊張の糸が解けたような気がする。
 万次郎には妹のエマのほかに二人の兄がいるらしいが、忙しいらしく会えてはいない。本当に忙しいのかどうかは唇を尖らせて二人は忙しい、と言い張る万次郎の態度もあってわからないが。
「なまえ、そろそろうちには慣れた?」
「……うん、万次郎」
 なまえが万次郎の手を取ってから早一週間が経った。結局母と会うことはなく、学校もどうやら退学させられたらしい。私物は全部家に置いてきたが、すぐに服も化粧品も必要なものは全て手配されたため不便はなかった。唯一困ることと言えば、万次郎と寝室が一緒なことくらいだ。夫婦なんだからトーゼンだろ、と万次郎が言えばなまえはそれに頷くことしかできない。
 ドギマギしながら迎えた初日から一週間、万次郎はなまえをぎゅっと抱きしめることこそすれど性的な手出しは一切しなかった。むしろ小動物がじゃれあうような、そんな触れ合いばかりでキスすらしていない。だからだろうか、初日こそおどおどびくびくしていたなまえではあったが次第に落ち着きを見せはじめた。酷いことだって一切されていない、むしろ父の元にいたときよりも息がしやすい。なまえが万次郎を信用するのに時間はかからなかった。
「じゃあ今日は外に行こうぜ!最近近くに出来た、ニホンのタイヤキってやつがすげー美味いんだよ、食いに行こ」
 きらきらと目を輝かせる万次郎に、なまえはこくんと頷いた。香主、と言われている割には周りは万次郎に対してノリが軽いし、万次郎自身もその子供っぽい態度からはまるで黒社会を感じさせない。なまえの前ではそういう風に振る舞っているだけかもしれないが、そうして気遣ってくれていること自体がなまえにとっては嬉しいものだった。
「きっとなまえも気に入る。オレが好きなモン、全部オマエに教えてやる。だからなまえも、なまえの全部をオレに教えて」
「うん」
 好きなもの、と言われればなまえの頭にこれまで休日に自室にこもって熱中していたいくつかの趣味が思い出された。とは言え、それは余計なことを考えなくてもいいために没頭していただけで好きかと問われればハッキリと肯定はできない。そう考えると、自分には今までこれといって好きなものはないように思う。だからなまえはこう返した。
「好きなものとか、やりたいこととか、私今までなかった。だからこれまでの好きは万次郎に教えられないけど、これからの好きは、貴方が教えてほしい」
「…………は」
 ぽかんと口を開けて万次郎がなまえを見た。万次郎の頭の中では今なまえの言った、これからの好きは貴方が教えてほしいという言葉がぐるぐると巡っている。今、なまえの中に好きなものはない。これから好きになるもの、その全てを万次郎を指針とすると言ったも同然だった。
「……ん、わかった。全部、全部オレが教えてやる」
 むくりと、万次郎の中の何かが鎌首をもたげた。うっそりと微笑んでなまえを見つめ、なまえの柔らかな手を取る。なまえは先程までとは違う万次郎の笑みに少し違和感を覚えつつも、ただされるがまま手を握られていた。
「じゃあまずはタイヤキな!」
 ケンチン!車出してー!と声を張り上げた万次郎は既にいつもの無邪気さを纏っていて、なまえは気のせいかと肩を撫で下ろす。いくら信用を置いたからと言って黒社会の人間に対する恐怖心は中々拭えるものではなく、万次郎に対して少しばかり顔色をうかがうのは変わりなかった。
 ケンチン、基ドラケンと呼ばれた金の辮髪の男の車に乗せられたなまえは、目的地に到着するなり万次郎に待ってて!と車内で待たされていた。一緒に買いに行くわけではないらしい。こうして万次郎以外の人間と二人にさせられるのははじめてだった。なにせこの一週間、ほとんど寝室からは出なかったし出ても万次郎と一緒だったからだ。
「なあ」
「っ、は、い」
「あー、急に声かけて悪い。驚かせたか」
 いいえ、とか細い返事をする。ドラケンは少し気まずそうに頭をぽりぽりとかいて、まだ万次郎が帰ってこないことを確認しながらもなまえに話しかけた。先日、オレのお世話係!と万次郎に紹介されたのでドラケンのことは知っていたがこうして話すのは初めてだ。
「まだ一週間しか経ってないけど、マイキーとは上手くやれてる?あいつ珍しく世話焼いてるからさ」
「良くしてもらってます……」
「そっか。……まあオレら側みたいなヤツのこと中々信用なんてできねえとは思うけど、あいつがなまえちゃんに入れ込んでるのはマジだからさ。だからまあ、覚悟しといた方がいい」
「え?」
 オレが言いたいのはそれだけだ、とドラケンは口を閉じた。万次郎が戻ってくる姿が見えたからだ。なまえは、ドラケンが結局何を言いたいのかはわからなかった。けどドラケン自身それを親切心で何か伝えようとしてくれているのだろうことは感じ取って、素直にその言葉を受け取る。
「ただいま!買ってきた!オレとおそろいのあんこね」
 はい!熱いから気をつけろよ、と手渡された白い包みの中からはほかほかと湯気が出ている。包みから少し顔を出した魚の顔はちょっと歪だった。
「ケンチン、オレがいない間になまえにちょっかいだしてないよね」
「しねーよ。ほら、用が済んだならさっさと帰るぞ」
「えー、どっか寄ってこうよ」
「オレだって忙しいんだよ」
 ケンチンのケチ!とぶつくさ文句を言いながらタイヤキを頬張る万次郎を見て、なまえもタイヤキに一口かじりつく。ふわふわとした生地の中からまだ熱々の甘いあんこの味が舌に残る。
「どう?美味しい?好きになれる?」
「……美味しい。甘くて、好き」
「じゃあタイヤキがオレがなまえに教えた、初めての好きだな!」
 にぱっと万次郎が笑う。その笑みに、なまえもふっと口元を緩めて笑った。それを見た万次郎とドラケンが、お、と声を上げる。
「うちに来て初めて笑ったんじゃないか?」
「何見てんだよケンチン、オレのなまえなんだけど」
「理不尽すぎんだろ」
 ぎゃあぎゃあと言い合う二人の姿に、なまえは思い描いていた酷い日々が訪れないことを漸く理解した。あの父の取引相手だというからどんなろくでなしだろうと思っていたけれど、少なくともこの二人は他の黒社会の人間とは違う。
 なまえはそう思っていた。けれど、黒社会に身をおいて幹部、ひいては次期老大になるという男たちがただ優しいはずがないと、わかっていなかった。



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