その最底辺の末路



【零】
 人生の最底辺とは一体どんな状態を指すのだろう。
 長年懇意にしていた恋人と別れてしまった。就職が決まらなかった。働いていた会社をクビになってしまった。理由なんてものは上げれば幾らでも出てくるだろう。人生の最底辺の価値観は様々だ。恋人と別れてしまったのならゆっくりと時間をかけてその傷を埋めればいいし、就職が決まらなかったのなら次に決まるまで自分のスキルを高めてアルバイトでも何でもすればいい。会社をクビになったのなら、くよくよせずに次を探す。どんな底辺にも底はあって、そこから上へ這い上がる方法なんて探せば多く見つかることだろう。重要なのは、人生の最底辺へ落ちるということは自分が持っていた何かが欠落してしまうということなのだ。人生の最底辺、あるべきものを失ってしまうこと。天から地に引き摺り落とされていくのだ。底の見えない谷奥に、真っ逆さまとなって。
 ならば、私にとっての人生の最底辺とは一体どんな状態を指すのだろうか。

 ──そこは大きなホールだった。薄暗く照明の落とされた室内で、中央にあるステージだけが煌々と照らされている。私はそのステージの上に手足を繋がれた状態で跪かされていた。私が一つ身動ぎをする度に、繋がれた鎖ががちゃがちゃと不愉快な音を鳴らす。私は歯をぎりぎりと強く噛み締めたまま、ステージから見える観客席を睨み付けた。色とりどりの長袍を纏った人々が、安全地帯から私を舐めるように見つめている。それは貪汚の瞳だった。ステージの上の獲物をどう甚振ってやろうかと品定めをする、薄汚い欲の色。思わずぶるりと鳥肌が立ち、私は今にも口から零れそうな不安と恐怖を飲み込んだ。

 私にとっての人生の最底辺。
 煌々と照らされるステージの上、私という一存在の自由の権利が売買されているということだ。

 連なるように空を覆い、飾られているのは赤い盆燈籠。赤と金の鮮烈な色彩で彩られた無法地帯の街の影に、私たちの住む世界があった。
 所謂、マフィアの娘だったのだ。銃火器や麻薬、人身売買などに手を伸ばしている闇組織のその一人娘。暗い暗い影の世界に根を張り、人々の不幸を食い物にして生きているような世界の住民。物心ついた時からその世界の有様を見つめていたので、普通の女の子のように生きられないことは分かっていた。私たちのような日陰者は人の不幸の上に成り立っている。だからこそ、多くの人々に恨まれているのだろうということも理解していた。私の佇む世界には常に血が流れている。ただ息をしているその瞬間も、誰かが命を落としているのだ。それがマフィアの世界なのだと、それが私の生きる世界なのだと、知っていた。いつかはその咎を命を持って償う日が訪れるだろうことも。知っていた、知ったつもりでいた。
 ──人生には分岐点、というものがある。その後の人生を左右する大きな分岐点が。それを明確に感じ取れる人もいれば、終わった後に人生の変わり目だったと気付く人もいる。どちらにせよ、その分岐点に立たされた時、どう行動するかが未来を決定するには違いないだろう。
 ならば、私は?
 ──私は、その分岐点を感じ取ることができなかった人間だった。
 連なるように空を覆い、飾られているのは赤い盆燈籠。赤と金の鮮烈な色彩で彩られた無法地帯の街の影に、私たちの住む世界がある。けれどもそこに潜むのは私たちのようなマフィア以外にも多くの組織が深い根を張っていた。そんな世界では、相手の最愛を殺害して報復や見せしめとすることは少なくない。ともすれば、私もそうだったのだろう。父への報復、もしくは見せしめ。こうして生きて商品として販売され、屈辱を味合わせようとしているのだろうか。こんな闇市で大枚を叩いて人間を購入しようとする者に碌な人間はいない。一寸先の未来は闇どころか、ありありとその末路までをも私に教えていた。さぞや父は悲しみ怒ることだろう。父は世間一般では非道と呼ばれることを数多くしてきたが、私のことを深く愛してくれていたからだ。報復、見せしめ。父が私の元へ辿り着いたその時、私が無惨な有様となっていることが相手の思い描く美しいシナリオなのだろう。何とも粗雑で、そして酷い終幕だと思った。それは人生の終わりを締め括るにはあまりに酷く、苦痛しかない未来であったから。
「三百!」
「五百」
「五百五十!」
 人の価値。ある人間の一生の値段。人身売買が罷り通る会場ではそれを決めるのは私ではなく、下劣な購買者様だった。ステージの上、私はただ身動きもできずに座り込んだまま流れに身を任せることしかできない。まさにまな板の上の鯉、私は所詮皿の上に置かれた哀れな食材。ここには人にあって然るべき尊厳も人権もない。私は商品、ただそれだけ。購買者と販売者、私のすべてを左右する端金。私の命の価値とするには安い金額が競りの如く観客席から飛び交っていた。
「十億」
 人の価値。ある人間の一生の値段。その声は、ざわざわと騒がしい会場に凛として響いた。水を打ったように静まり返る会場に、こつりこつりと足音が高鳴る。そして、その人は私の佇むステージ前へと現れた。黒の刺繍が施された赤色の長袍に、花札の首飾りをしていた。まず目を引くのはその特徴的な色彩だろう。褐色の肌に絹糸のような艶やかな白銀の髪。長い睫毛の下に潜む大きな紫苑の瞳が、じっと私の姿を捉えていた。からん、と澄んだ音を鳴らして、彼はその白銀の髪を揺らして堂々とステージに躍り出る。
「他、いねえならコイツはオレが貰うってことでいいんだよな」
 売人はこくこくと振り子のように頷いた。そして少し吃りながら彼の出した金額を上回る者がいないかと観客席に呼び掛ける。しん、と緊迫感さえ感じられる静寂の中には返答はなく、観客席を見やった彼はくすりと満足そうに笑んだ。彼は私を見据える。その愉快げに細められた紫苑の瞳が、私の姿をしかりと捉える。
「久しぶりだなァ、なまえちゃん」
 こつり。彼は私の前にしゃがみこむと、顎を掴んで私の顔を上げた。覗き込むように此方を見つめる双眸には、たった一人私だけが映り込んでいる。眉を寄せて、悔しげに唇を噛んだ私がそこに映り込んでいる。
「今日からオマエはオレの奴隷だ。返事は?」
 人生の分岐点、そして分かたれた先の最底辺の地獄。私はその場に立っている。その地獄に堕ちて、佇んでいる。
 私にとっての人生の分岐点、その最底辺とは、彼──イザナに、私のすべてを買われてしまったことなのだろう。

 *

 イザナ。その名を知らない者は、私達の世界にいない。
 この地域一帯を支配する巨大なマフィアがある。そこは武器密輸に麻薬販売に加えて人身売買から殺しまで何でも行い、彼は若くしてボスの座に座っていた。突如として現れた彼はめきめきと頭角を現し、短期間で一帯を支配した。その手腕とカリスマ性は恐ろしく、また彼等のやり口は狡猾で残忍であるというのは有名な話だ。彼に楯突く者は女子供関係なく残虐に殺されていく。初めこそ彼を侮った者もいたが、しかしいとも簡単に潰され、そして組織の流通ルートから何からすべて彼のものとなり吸収された。褐色の肌に白銀の髪、そしてすべてを見透かすような紫苑の双眸。それがイザナ。残忍酷薄、暴虐非道と呼ばれるイザナだった。
 そして今、私は彼に私のすべてを支配されている。
 彼に連れてこられた先、そのずっと奥にある一室。深紅を基調とした薄暗い部屋の中を、天井から垂れ下がる幾灯もの盆燈籠が仄かな赤色を灯している。中央には天蓋の付いた広い寝台があり、紅木で作られた花や樹木、鳥獣といった、職人が一つ一つ丁寧に手がけたのだろう木彫りの華麗な家具が整えられていた。部屋の上の方には丸く縁取られた中国格子の窓がひとつあり、そこから薄明かりが差し込んでいる。
 あからさまに誂えられた一室だった。まるで、最初から用意していたかのように。ぞくぞくと足先から這いよるような不安が私の身体を蝕み、乾いた唾を飲み込んだ。広い部屋。しかし、今佇むこの扉より他に出口のない狭い部屋。からん、と軽快な音を鳴らして、彼は私の方へと振り返った。
「ここがオマエの部屋。どう? 気に入った?」
「……な、なんの、つもり。わ、わた、私を買って……ど、どうする気」
 心底にもやもやと燻る恐怖は、震え声となって現れた。心臓の横に氷を当てられているような、もしくは身体を流れる血液の一粒すら冷えていくような感覚。彼という存在が齎す威圧感と緊張は、私の身を竦ませるのには十分だった。何とか発したその言葉は強がりだ。私の中にある小さなプライドとも言える。彼の言動すべてに萎縮し、この先の未来に憂悶し嘆く日々を送らない為の虚勢。彼は今にも崩れそうな私の見栄を見て、可笑しそうに吹き出した。くすくす。嘲笑の声がする。
「声、震えてるけど。怖いんだ?」
「こ、こ、こわく、なんか……」
「嘘吐き。小鹿みてえにぶるぶる震えてるくせによく言うよ」
 すると、彼はくん、と私の手枷に繋がる鎖を手繰り寄せた。引っ張られた先、私は蹈鞴を踏んで彼の元へと引き寄せられる。瞬間、彼の出した靴の爪先が私の足を引っ掛け、私は床に無様に倒れ込む。は、と息を吐いたのも束の間、ぐいと髪を勢いよく捕まれ無理矢理に顔を上げさせられた。突然の刺激にぶちぶち、と髪が幾本か千切れ、私は思わず顔を歪める。彼は目と鼻の先のところまで顔を近付けると、私の瞳を覗き込んだ。紫苑の瞳。鮮烈なまでの蠱惑的な色彩が、私に妖しく囁いた。
「オマエを買ってどうするか? 自分の立場がまだ分かってねえようだから教えてやるよ」
「……っ」
「その頭から足の爪先まで、すべてオレのモンだ。オマエの主人はこのオレで、オマエはオレの奴隷。死ぬまでな。理解できたか?」
 は、と私は浅く息を吸った。彼に悟られないように、そうして静かに呼吸を繰り返す。彼の言葉、彼の眼差し、そのすべてに見つめられると、彼の発する威圧感と迫力に揺らぎきった私の心根が折れてしまいそうで。小刻みに振戦を繰り返す手のひらをぎゅう、と固く握った。すると、じゃらりと鎖が鈍い音を鳴らす。私は彼のその眼差しをきっと睨み付けた。今にも負けそうな、弱く脆い心を震え立たせながら。
「……わ、わた、私が、いつまでもお前の奴隷と思うのなら、大間違いですから」
「へえ?」
「父は必ず私を助けにきてくれる。そうしたら、然しものお前といえど……ただでは済まないんだから」
 私は所詮ただの小娘でしかない。彼に歯向かったところで、現状を打破できる力もなければ手段も持ち合わせてはいない。もしも彼が私に暴虐の限りを尽くしたとして、こうして手足に枷が付いたままでは抵抗することも敵わないだろう。
 けれども、これは意地だった。気位だった。マフィアの、強いては父の娘として産まれた私の矜持だった。どのような目に合おうとも、この心ばかりは決して屈することはないという意思表明。
 私は父を信じていた。父が助けてくれることを信じていた。父はきっと、行方不明となった私のことを懸命に捜索してくれていることだろう。それまで。それまでは、甘んじてこの地位を受け入れる。私はイザナを睨んだ。負けてたまるものかと、強く、強く睨み付けた。
「ふうん」
 イザナは目を細めてゆるりと首を傾げた。挑発的なその視線は、私を見定めるように艷麗に微笑む。
「ならその目の熱が潰えるまで見ててやるよ」




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