願わくば、奈落まで



 わたしはまれに、「東京卍會の最高幹部の秘書って一体どんな暮らしやお仕事をされているのですか?」と、大層勇気のある――そして命知らずのゴシップライターから直々に取材を受けることがある。わたしは見ず知らずのそのような人間に対し、足早に歩きながら「関係ありません」やら「知りません」などと迷惑そうに唇を尖らせたりなんかせず、「いえ、そんな大したことは……召使いみたいなものですから」と、サングラスを外しながら聖母宜しく曖昧に微笑みかけると、いやぁそんなご謙遜を!と大概が豪快に笑ってくれる。そして何度かのしつこい押し問答の末、とりあえずその場は名刺を交換する。そして一日中、取材の交渉の連絡でわたしの携帯がひたすら鳴り続けるのだ。メッセージの内容は、『一万字インタビュー、受けさせてもらえませんか?』『顔写真にはモザイクかけるので!』『よく行かれるバー、連れて行ってくれませんか?サシで!』などなど。最後の文言を送り付けてきた哀れなゴシップライターに関しては、わたしがそのメッセージを受信した三日後に、彼、彼の妻、そして彼の娘の隠し撮り動画を、約一時間程度に編集してそのデータを自宅に送り付けてやったら、ぱったりと連絡が止んだ。……一昨日来やがれ、このスットコドッコイ。

◇◇◇

 東京卍會の最高幹部の秘書、といわれても別に大それた仕事なんかじゃない。わたしは東卍のとある幹部の右腕であり、実は恋人関係でもあり、でも召使いでもあり、挙句の果てには下僕――、そう、下僕なのだ。わたしを従えている幹部――半間修二という男は、奴隷を百人はべらせるのが夢らしく、その記念すべき一人目が恐らくわたしだ。憂いなる下僕の誕生だ。神々の祝福の声が聞こえてきそうだ。が、二人目以降は未だに現れたことがない。
 都内の自宅兼仕事場に彼と一緒に住んでいるわたしは、朝は寝起きが最悪且つ不機嫌な彼を宥め賺かしながら起こし、コーヒーの砂糖とミルクの量やパンの焼き加減を彼の理想の状態にした朝食を用意し、昼は会食が行われる高級ホテルの会場まで車で連れていき、その間に見せしめに殺した裏切り者の死体を東京湾まで捨てに行き(これが案外見つからないものだ)、自宅に戻って夕食が魚か肉かでと言い争いになりつつも、綺麗に空になったカトラリーを下げ、気が済むまで晩酌の相手をする。ほら、本当に大それた仕事じゃない。
 東京卍會は、ここ数年で一気に成長した。功績を担っているのは、トップである佐野万次郎。そして彼の元に就く数名の幹部たちに他ならない。彼らは日本中を大蛇の如く泥のように呑み込んだ。連日の犯罪の半数以上は東卍が関係し、報道規制がされ一般市民が知らない行方不明者や殺人事件も含めると半年で数百にも及ぶだろう。莫大に勢力を広める東京卍會の毒牙は、ついに海外まで及ぼうとしていた。

◇◇◇

 その日一日の激務(という名のお守り)を終え、息苦しいスーツを脱ぐと、ようやくわたしは人間らしい時間を過ごすことができる。
 広々としたバスルームの湯船にアヒルの玩具を浮かべ、肩まで漬かって十五分。「オマエで出汁取れんじゃねえの?」
 と苦言をこぼしながら先に退散する修二の背中を見送ってから更に十五分。庶民的な石鹸屋で手に入れたモコモコの入浴剤が名残り惜しいが、からだも充分に温まったわたしはバスルームから出ることにした。ドライヤーで髪を丁寧に乾かしてからリビングに向かうと、修二はソファで長い脚を投げ出し、わたしが冷凍庫で大切に取っておいたアイスクリームを食べ終えようとしているところだった。ちゃんと名前まで書いておいたのに……。恨みがましい目付きで睨みつけるも、そんなの屁でもない様子なのが余計憎らしい。どう粛清してやろうか考え込むわたしに、修二は目の前のテーブルに、一枚の紙を放ってきたのだった。
「これ、なに?」
 手に取ると、それが写真であることがわかった。隠し撮りなのか、少しブレている。写っているのは三十代後半と思しき一人の男性。被写体の顔をまじまじと見て、わたしは素直に感想を言った。
「あらやだイケメン」
 修二は腕を組みながらフン、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「東卍の裏でコソコソ商売してるヤツ。大人しくしてるんなら目瞑っておいてやろうかと思ってたけど、最近チョーシ乗ってるから、始末してこいってボスの命令」
「ふうん。でもこの人見たことないけど、ウチの人間じゃないってこと?」
「全然関係ねえよ。元々取引相手だったけど、勝手に東卍を騙ってんの」

 わたしは写真を片手に修二の隣に腰掛けた。ボスがトサカに来るほど、こいつは相当問題児らしい。
「商売っていうのは?」
「四日前、東卍の管轄外のビルで、身元不明の腐乱死体を他所の組が見つけたって話、知ってる?色々調べたら、ウチから出た死体なんじゃないかって話になったんだけど。けど実際は東卍騙って色々セコいことしてるコイツが殺した人間だった、って話。で、死体調べたら“空っぽ”だった」
「臓器売買」
「そーゆーこと」
 面倒くさそうに修二が頭を振った。なるほど、と思う。わたしは写真をテーブルに放ると腕を組んで思案した。正直、東卍に不利益な事をしなければチンケな連中は放置するに限る。だが迷惑な話ではある。まず、無関係の第三者が死体を見つけたという事は、単純にその証拠隠滅という処理が甘かったことになる。しかも、「これは東京卍會の忘れ物ですか?ときた。発見したのが懇意にしている同業の組織だったから良かったものの、警察関係者や敵対している組織だったらこちらが破滅することになっていた。修二の話によると、その死体が見つかったビルの持ち主である組織も、相当お冠だという。この問題が解決されなければ、今後その組織ともいい関係は築いていくのは難しいだろうというのがボスの意向だった。詰めの甘い人間は、東卍の付近には必要無い。
「コイツ、今どこにるの?」
「中国に逃げた

「は?中国?」

 わたしは眉を顰めた。逃亡したんだよ、とつまらなさそうに修二。
「で、こいつが今度中国のウチのフロント企業の周年パーティーに参加するって情報があった。俺も行くから。だから来週、中国に出張」
「随分急だね。聞いてないけどね」


 半間修二の辞書に、秘書に対する報告・連絡・相談という言葉は無い。

 彼に出張期間を聞いてみると、五日間だという。つまり五日間、わたしは秘書(その他諸々)という仕事から解放されることになる。わたしは思わず小躍りしたい気持ちになった。ずっと行きたいと思っていたサロンと、この隙に修二が絶対行くなって釘を刺されたクラブも行きたいな。五日もあればその辺りなら回れそうだ。
「パスポートの偽装はココに任せてあっから」
「へえ。ココやるじゃん」
「あいつ、徹夜で作るって言ってたわ。カワイソー」

「うん、カワイソー」

 わたしは修二の話もそっちのけで、五日間の細やかなスケジュールを考えていた。……だが。わたしのそのささやかな希望も、すぐに打ち砕かれることになる。
「日本の偽名は桃でいい?桃尻の桃(タオ)ですって言ったらウケんじゃね」
「……え?偽名?誰の?」
「ん?オマエのだろ」
 ……いやいや。ちょっと待て。物凄く嫌な予感がわたしの脳内を駆け巡っていく。
「もしかして、わたしも一緒に着いてくの?」
「当然じゃね?誰が通訳やんの?」

「わたし、中国語喋れないけど?」
「覚えればよくね?簡単簡単」
 
 いや簡単に言うなし。

「ほ、他にいるんじゃない?語学が堪能な人」
「いねーよ」
「き、稀咲は来ないの?アイツ何か話せそうじゃん中国語」

「稀咲は別件で忙しいって」
「そんな……」
「何だよ、どうせ暇だろ?」

「わたしの休暇が……」

「あ?」
 ――わたしは遂に、東京卍會最高幹部の秘書兼召使い兼下僕に、更に本日をもって“通訳”という業務が加わったらしい。……転職しようかな。
 嫌な予感は見事に的中したが、背中を伝う汗の不安材料は他にある。修二に日本を経つ日を聞けば、四日後だと答えが返ってきた。四日後かぁ……。
「優秀な、中国語の家庭教師、知らない?」
 修二は一瞬沈黙した後、ぶは、と吹き出したように笑った。そして、隣に座るわたしの肩をぎゅっと抱き寄せ、触れ合うようにキスをしたあと言った。

「ホント、オマエのそういうとこ愛してる」


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