透明な黒



 屋敷の前で屯する下っ端のチンピラ少年達を押し退け、扉を殴るかのような勢いで開きドンッと大きな音を響かせた。挨拶など無く、ズカズカと無遠慮に進んで行く足音には怒りが現れている。一瞬で標的へ近づきたい本人からしたらその足すら煩わしかった。なまえの目的を知っている者達が声をかけ歩みを止めさせようとするが、なまえはそれを払って進み続けた。この屋敷でなまえを止めようとする者は、黒龍という組織へ入って日の浅い新入りぐらいだ。なまえが探している人物の人柄と関係を知っている者は、もうわざわざ声をかけたりなどしない。またか、と呆れた目で事が終わるのを見守るか、己の仕事場に戻るだけだった。
 遠慮なんてする気は微塵も無く依然として足音を響かせたまま奥へと突き進む。書斎兼事務所となっている部屋のノブに手をかけ、これも激しい音を立てて開いた。赤い暖簾を乱暴に開いて目的の人物を見つけるとギッと睨む。その人物は持ち帰って積まれた仕事を放棄し、霞んだ部屋に不釣り合いな年季の入った木製の宝座に足を組んで座っていた。
 手すりに肘をついて窓から吹き込む風に前髪を揺らしながら、咥えた煙草の煙が窓の外へ流れていく景色を眺めていた。黒い龍の刺繍が施された白い功夫服の前を緩め黄昏る横顔は、見る者によっては優美な印象を受ける。が、もちろん今のなまえにはそんなもの通用しなかった。
「真一郎!!」
 大声で名前を呼ばれると視線を窓から移し、なまえを認識するとにこりと笑う。煙草を灰皿に潰し悠長に手をひらひらと振りながら「おう、なまえ。今日も可愛いな」、なんて平然と返した。その態度で更に苛ついたなまえが青筋を立てて胸ぐらを掴む勢いで迫ると、両の手で机を乱暴に叩きつけた。それでも真一郎の笑顔は少しも崩れなかった。寧ろなまえが目の前に近づいて来てくれた事が嬉しくて、胸を高鳴らせて表情が崩れるのを必死に堪えているのだ。そんな愛著が水面下に注がれている事など気付ける筈もなく、激昂したなまえは真一郎を睨みつけていた。
「また私の邪魔しただろ!これで何人目だと思ってんの!?」
「覚えてねえなあ?なまえを誑かした奴らの事なんて」
「誑かされて!ない!!」
「なまえはそう思っててもアイツ等はわかんねえだろ」
 いくら怒鳴り散らしたところで真一郎に反省の色等全く見えない。反省というよりも、そもそも悪い事をしているという自覚はこの男には一切ない。
 なまえも真一郎もとっくに恋人がいてもおかしくない年齢であるにも関わらず、双方独り身のままだ。猪突猛進で鉄砲玉のように恋慕の情を打ち付けていく真一郎は兎も角、なまえは誠実に恋を育ててきた方だった。父親が堅気ではないながらも人との交流を怠らず、本人の聡明な人格と努力家な事が功を成して縁に恵まれる事が出来ていた。
 しかしその恋はいつも、目の前の男に何度も潰されてきた。普段は無害な振る舞いなのに、なまえが他所の男と関係を持つと何処からか嗅ぎつけ、それだけは許せぬと何度も男達を追い払っていた。自己中心的で傍若無人、唯我独尊を極めた行いだ。初めて事実が発覚した日に怒り狂った修羅が屋敷を荒らしたのは言うまでもない。そして今日も待ち人がいつまで経っても約束の場所に表れず、やられたと舌打ちをしながら突撃をしたのであった。一通り怒りをぶつけたなまえは真一郎から顔を離して長いため息をついた。
「これ以上婚期遅れたら呪う」
「そん時は俺んところに来ればいい」
 ぴきり、となまえの顳?が音を立てたと同時に傍にあった円卓を蹴飛ばす。茶器や花を挿してある花瓶がガシャンと派手に割れた音が響く。全て高価なものである筈だが、真一郎は全く気にもせずただなまえに微笑んでいるだけだった。
「相変わらず足癖が悪ぃなあ。まあ、そんなとこも好きだ!」
「…はあ??良い加減にしてよ…」
 この男は頭がどうにかしている。怒り散らしても、いくら説得しても何をしても、「なまえは可愛い」の答え一つで勝手に完結させてしまう。組織を率いる者が果たしてそれで良いのか。怒るという行為は体力も精神も削るもので、一旦落ち着こうと手で顔を覆った。暫く間を置いてから指の間から覗き込むと、笑顔のまま頬杖を着いた真一郎と目があった。
「またやってんの?」
 第三者の声に振り向く。真一郎の弟である万次郎が部屋の入り口から呆れ顔を覗かせていた。少し大きめの赤い功夫服をゆったりと着こなし、口に咥えた棒付きの飴をコロリと鳴らしながらぺたぺたと足音を鳴らしなまえの横へ並んだ。
「万次郎、アンタの兄貴ほんっとにどうにかならない?お得意の足技で一回頭砕いてよ」
「殺す気じゃん」
 万次郎は腕っ節が良い。兄である真一郎など比にならないくらい。真一郎とは違う形で人を寄せ付けるカリスマ性を備えており、少し前にチームを結成していた。連んでる友人達も文句無しの強さを誇っている。今は黒龍の縄張りの中で自由にしているものの、いずれは万次郎も真一郎の様にチームから大きな組織へと育てていくだろう。そんな万次郎も友人達には随分唯我独尊を強いているので、これはもはや血なのかもしれない。真一郎は少々局部的ではあるが。
「ところでなまえ、今日は随分粧し込んでるな」
「…彼と出かける予定だったの。お前のせいでこの努力もぱぁだよ」
「え!?それじゃオレとデートしようぜ!」
「嫌」
「即答…」
「逆になんで許すと思った?」
 間延びした唸り声を上げながら項垂れる真一郎を冷ややかな目で見下ろす。誰が嬉しくて今日の予定、更に言うと将来を潰してくれた男と出かける気になれるというのだろう。
「でもせっかくお洒落したなら勿体ないだろ?」
 そうしたのはお前なんだよ、と心の中でめいっぱい叫んだ。
 しかし、確かに一通り怒り散らした後は家に帰ってふて寝をするだけだ。理不尽に狂わされた予定なのでそれは構わないと言えば構わないのだが、少々癪に思うのも本心だった。それならと頭に思い浮かんだのは彼等の妹であるエマだった。彼女なら普段から気兼ねなく買い物へ付き添い合っているので文句無しだ。
「エマは?母屋に居る?エマと出かける」
「エマはドラケンんとこに行ってる」
「……万次郎、」
「オレもこれから場地んとこ行くから無理」
「…………」
 不在と分かって即座に声をかけた万次郎にもあっさり断られる。目の前には机の上に伸びた状態で子犬の様な眼差しでなまえを見上げる真一郎がいる。それでも癪という理由だけでは許せない。そもそもの原因はこの男だ。知り合いは他にも居る。仕事で忙しい者も居るかもしれないが、運が良ければ一人くらい捕まる筈だ。
「新しく豆花の屋台が出来たろ?連れてってやるよ」
 ピクリ、となまえの肩が大きく反応する。頭の中には自分好みにトッピングされたお気に入りのスイーツが一瞬で描かれていた。それは心を揺らすのに十分な風景で、好物の名前を聞いた途端、急に空腹感に襲われた。怒りでエネルギーを無駄に使い、落ち着きを取り戻した後は脱力感で一気に力が抜けて行く。恐らく真一郎も引かないだろうと、もはや面倒になってきた。今はあのフルフルとした瑞々しい食感に飢えていた。
「…………三分で、」
「わかった!!」
 準備をしろ、となまえが言い切る前に真一郎は部屋を飛び出して行った。横から「ちょろ…」という万次郎の声が聞こえた。自分と同じ甘党で、友人のお菓子を勝手に食べきってしまう万次郎には言われたくなかった。
「…甘味に罪は無いから」
「真一郎は元々重症だけど、なまえも大概だろ」



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