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ずきずきと襲う頭痛と胸の辺りに渦巻く気持ち悪さに目が覚めて、薄ら瞼を開けると朝日が目に飛び込んできた。反射的にぎゅっと目を瞑って、それからゆっくり開いていけば、見慣れたカーテンが視界に入る。風を孕んで膨らむそれは、"あの飲み会"の最後の会場となった友人の部屋のものだ。どうやら無事に戻って来れたらしい。慌ててスマホを確認すると、飲み会をした日の翌日を示していた。こちらでは殆ど時間が進んでいなかったらしい。
こんな状況でも平等に月曜日はやってくるのか、感傷に浸る暇もなく明日は仕事か、なんて思ってしまうのは社会人としての性なのか。
「やっと起きた!水いる?」
「……いる。きもちわるい。身体いたい」
「そりゃそんな体勢で寝てたらね」
どうやら机に突っ伏したまま寝てしまったらしい。がちがちに固まった上体をなんとか起こせば、枕代わりにしていた腕の下から一冊の本が出てきた。黄色の背景に、八木さんと緑谷くんの姿が描かれたそれ。「……僕のヒーローアカデミア」1番上に書かれた文字を小さく零す。
「あぁ、それ読む?再来週また実家帰るからそれまでに返してくれれば、」
「いや……うん、自分で買う」
「そう?」と返す友人の言葉を尻目に、パラパラとページを捲る。入学試験に個性把握テスト、懐かしい記憶が蘇る。どうも主人公は緑谷くんらしい。八木さんかと思っていたけれど、振り返ってみれば緑谷くんはほぼ全てのトラブルに関わっていたからまさに主人公気質なのだろう。
そしてざっと見た感じ、用務員のキャラクターはどこにも出てこなかった。こちらの世界に戻ってきたら私の存在はなかったことになるのだろうか。それは寂しいけれど、元々いないはずの人間なのだからそれも仕方のないことだろう。だとしたら手紙を残してきたことは失敗だったかもしれない。今ごろ怪奇現象扱いでもされているだろうか。もう確かめる術もないけれど。
友人がキッチンの方へと向かったのを確認してから、机の上の酒缶に手を伸ばす。それを紙にしようといつも通りイメージしてみたのだけれど、缶はいつまでも缶のままだった。どうやら個性もなくなったらしい。それもそうか、ここは現実の世界なのだから。
「ほらなまえ、水……って、泣いてんの!?」
友人の声に、自分でも気付かない内にぽたぽた零れていた涙を慌てて拭う。だけど一度溢れた涙は止まってはくれなくて。「どうしたの」と友達に優しく背中をさすられる。
「――――不思議な夢を見たの」
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この世界に戻ってきて初の仕事を終え、自宅のソファに沈む。こちらでは一夜分しか時間が進んでいなかったけれど、私の中では9ヶ月ものブランクがあるから調子を戻すのに苦労した。長年務めている会社だからそれなりに身体が覚えていたけれど、それでも何度もスケジュール帳とマニュアルと睨めっこする羽目になったのは言うまでもない。
「はぁ、疲れた……」
あの世界での経験が何かしら私に影響を与えたかと言うと正直なところ「NO」である。晩酌は欠かさないし、相変わらず自炊もしない。訓練代わりに運動を始めようなんて気も起こらず、ヒーローに感化されて困っている人を積極的に探そうなんてこともしていない。
というか今は逆カルチャーショックに翻弄されて自分のことで精一杯。むしろ私が助けて欲しいくらいだ。まぁ、人間の本質なんてそう変わりはしない。
「これ運んどいて」と頼まれた荷物に個性を発動させようとしてしまうのは、最早癖になっていた。荷物にそっと手を添えるその姿は、傍から見れば何やら儀式をしている怪しい人に見えるに違いない。それにしてもあれだけ嫌だった個性がこんなにも恋しくなるとは。重たい物を運ぶのは億劫だし、ごみの分別も面倒だ。人間、一度便利を覚えてしまうと碌なことがない。
早くこちらの日常に慣れなければと思うけれど、そう思えば思うほどに皆のことが恋しくなる。相澤さんはゼリー飲料以外もちゃんと栄養を取っているだろうか。山田さんはまた煩いと文句を言われていないだろうか。そろそろ寒くなってくる季節だから、香山さんが風邪を引かないといいけれど。帰る前に八木さんと最後のティータイムを楽しめば良かった。
駄目だ、考え出すと止まらない。気を紛らわせようとテレビの電源を付ける。そういえばこちらに戻ってきて初めてテレビを付けた気がする。
それから会社帰りに買ったカレーをビニール袋から取り出した。それすらも「林間合宿で食べたカレー、美味しかったな」なんて思ってしまうのだから、自分が思っている以上にセンチメンタルになっているらしい。はぁ、とひとつため息をついてカレーをレンジに突っ込んだ。
"――――犯人護送中の襲撃事件という前代未聞の失態。重要証拠品の紛失も確認されており、警察への批判が高まっています"
私しかいないこの部屋に、レンジの作動音と何やら物騒なテレビの声が響いた。この日常に慣れるまで、あと少し。
ー完ー
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