01
「おい、あれ尾形上等兵じゃないか」
「間違いない。……隣のあれは何だ」
2人の男が崖の下にある川を見下ろしながらそんな会話を交わす。視線の先には地面に横たわる軍服姿の男と、その傍らで何やら蠢く黒い塊がひとつ。どうやら獣の類ではなく人のようだと気付くと同時に「……隠?」と片方の男が漏らす。その人物の纏う黒服には、背に大きな字で"隠"と書かれていた。
「おい!何をしている!」
一人が銃を構えそう声を張りあげれば、その人物は弾かれたように振り向いた。その顔もまた真っ黒な布で覆われ、見た目はまるで歌舞伎の黒子のようである。視線が絡み合うこと数秒、その黒子は脱兎のごとく走り出す。それを認めるや否や、銃を構えていた男が躊躇なく引き金を引く。山の中にターンと銃声が響き木霊した。
「おい!民間人だったらどうする!」
「あんな怪しい民間人がいるか。行くぞ」
弾は見事に腹部へと命中し、黒子がばたりとその場に倒れた。2人はすぐさま崖を降りていき、川岸に横たわる男――――尾形の元へと駆け寄った。そしてはっと息を飲む。
「……応急処置がされてある」
一体誰が、なんて聞くまでもないだろう。2人はゆっくり振り向いて、腹を抱え雪の地面にうずくまる黒子へと視線を移した。真っ白な雪の上に黒の塊、そしてじわじわと広がっていく赤。先程銃を撃った男がチッとひとつ舌打ちをして黒子に近付くと、顔を覆う布を取り払った。痛みに堪えるように「うぅ、」と唸るその顔には脂汗が滲んでいる。
「こいつ、女だ」
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窓の外にちらつく雪を一瞥したのち、月島は軽いため息をついた。その顔には分かりやすく疲れが滲んでいる。だからと言って仕事が減る訳でもない。月島はすぐに気持ちを切り替えて、目の前の扉を数回叩いてドアノブを捻った。
扉を開くと同時にベッドに横たわる黒子の女(流石に今は入院着に着替えさせているが、名も分からないためにそう呼んでいる)とばちりと目が合って、月島は驚いて目を見開いた。昨日の夕方、脇腹に弾が貫通したのち意識を失ったと聞いていたその女が、もう目覚めているとは思わなかったのだ。
「あっ、おい!」
女は月島を見るや否や咄嗟に寝台から起き上がろうとして――――「うっ」と呻き声を上げて床に落ちた。どんっ、と鈍い音が部屋に響く。
「……まだ傷が塞がってない。大人しくしなさい」
そう言って女に近付けば、分かりやすく警戒された。まるで人馴れしていない野良猫みたいにきっと睨みつけてくるその目に、月島は気まずそうに視線を逸らし頬を掻く。
「うちの者がすまなかった。警戒するな……と言っても無理な話だろうが、危害を加えるつもりはない」
「……ここはどこ」
初めて聞く彼女の声は、月島が想像していたよりもずっと凛としていて力強かった。気の強そうな女だ、というのはその攻撃的な目付きからも既に醸し出されているけれど。
「陸軍病院だ。あなたが手当てをしてくれた尾形上等兵と共に昨夜ここへ運び込んだ」
寝台に掴まりながらどうにか自力で立ち上がろうとする彼女に手を差し出せば、少しの逡巡ののちそっと握られた。そのまま彼女を支え寝台へと座らせながら「名前を聞いても?」と問いかける。小さな声で「みょうじなまえ」と簡潔な言葉が返ってきた。
「みょうじさん、昨日は何故あんなところに?」
「前の晩にヒグマに襲われて仲間とはぐれた。山の中を探し回っていたら川に人が流れているのを見つけて……助けていたら撃たれた」
「それは……申し訳なかった。こちらとしても後日改めて相応の謝罪と謝礼をするつもりだ。ところで……尾形を助けてもらった件だが、川からみょうじさんが引きあげたのか?あなたが負ぶって?」
質問の意図を伺うような視線に「全身ずぶ濡れだったから」と付け加えれば少し納得した顔をして「綱の代わりになりそうなものもなかったし、背負うしかなかった」と返ってきた。
しかしこの北海道の真冬の川に?決して大柄とは言えない体躯の、それも女が、気を失った大の男を川から救い出したと言うのか。俄には信じ難い。が、2人を発見した(というかみょうじを撃った)部下が報告した内容から鑑みてもそれは事実なのだろう。
月島はみょうじを頭の天辺から足の爪先までまじまじと観察して、やはり信じられない、という感想に辿り着いた。
「……軍医を呼んでくる。傷の具合を説明させる」
「必要ない。もう出るから私の持っていた荷物を頂戴」
「えっ、いや、流石にその傷では……」
「仕事の途中だったから。戻らなきゃ」
「せめて傷が塞がるまでは安静にしておけ。職場にはこちらから電報を送っておこう」
「……分かった」
みょうじは「でも電報は必要ない」と言って布団に潜り込んだ。月島はもう一度「軍医を呼んでくる」と伝え、病室を出た。鶴見中尉に報告しなければ、と彼女にいたく興味を抱いていた上官を頭に浮かべながら。