06
4月、冬を名残惜しむような山頂の雪を眺めながらみょうじがふぅとひとつ息をつく。雲ひとつない晴天となった今日は、朝から寝具の洗濯に追われていた。干したシーツ達が風を孕んで揺れているその横で、みょうじが「やっと終わった」と独りごちて洗濯籠を持ち上げる。その時、彼女の背後でジャリっと砂を擦る音がした。
「みょうじ、ちょっといいか」
「……月島軍曹」
月島はキョロキョロと辺りを見回して誰もいないことを確認すると、肩が触れそうな距離まで近付いて自身の口元に手を添えた。内緒話かと察したみょうじが、素直にそこへ耳を寄せる。
「昨日の夜、風呂場の裏で隊員が倒れていた。何があったか口を割らないんだが、何か、」
月島が言い終える前に、みょうじは「あぁ」と声を漏らし彼に傾けていた身体をさっと起こした。どうやら心当たりがあるらしい。分かりやすいその反応に、月島はぐっと眉間に皺を寄せた。
「あの人、ここの隊員だったんだ」
「は、」
「発情した猿かと」
彼女の言葉に一瞬呆気にとられた月島は、その意味を理解した途端はぁぁと深いため息をついた。そして眉間に指を押し当てて「あー、その、」と歯切れの悪い声を漏らす。
「……何かあれば言いなさい」
「風呂の掃除が終わって道具を片付けていたところに急にやって来たんだ。で、中尉殿に仕込んでもらってるんだろうとか何とか言いながら襲ってきたから返り討ちにした」
「お前な、」
「駄目だった?」
「……いや、そういうことは早く言え」
「はぁい」と間延びした返事をするみょうじに、月島はどう反応すべきか分からなかった。本来なら彼女を労るなり慰めるなりする場面なのだろうが、当の本人がこれだけあっけらかんとしているものだから、むしろ呆れの感情の方が大きくなってしまう。それとは別に、違反を犯した隊員への怒りはあるが。
男ばかりの環境に女が一人。いつかはこういうことが起こるかもという危惧はあった。しかしまさか本当に彼女に手を出す奴がいようとは。なにせこの女は米俵を軽々担いで走り回るような奴なのだ。それはここにいる者なら実際に目にしたり噂に聞いたりしているはずである。よくそんな女を手篭めにできると思えたものだ。
とは言え、今回は彼女が返り討ちにしたとは言うものの、ここの男達は日頃から軍事訓練を受けている屈強な者ばかりだ。彼女への心配が全くないと言えば嘘になる。月島は少し考えてから「護身用に何か持っておくか?」と彼女に提案した。
「うーん……銃は使ったことがないし、刀だと頸を斬るための訓練しか受けてないからなぁ」
「……分かった。何かあれば大声を出せ。直ぐに誰かが駆けつける」
みょうじはやっぱり「はぁい」と気の抜けた返事を返すだけだった。その様子に月島が目眩のような感覚を覚えたその時、どこからか「キエエエッ!!」という雄叫びが聞こえてきた。
「……ここには本当に猿がいるの?」
「馬鹿を言え。……鯉登少尉殿が戻られたのだろう。お前にも紹介しておく。行くぞ」
月島は軽い頭痛を覚えつつも気付かない振りをして、彼女を連れ立って声のした方へと向かった。
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「月島ァ、なんだこいつは」
みょうじを前にして、鯉登はまるで奇妙な生き物を見るみたいにじろじろと彼女を観察した。そんな不躾な視線をみょうじは眉ひとつ動かさず受け入れて、ただじっと彼の顔を見つめる。
「先月からここで雇い始めたみょうじなまえです」
「ああ、鶴見中尉殿を唆したとか言う……噂には聞いておる」
「鯉登少尉殿、そういう訳では、」
「どんなよかおごかと思ったらなんじゃその身なりは。女の癖にズボンなんぞ履きおって。髪もボサボサではないか!」
鯉登の言葉に、月島はちらりと彼女を一瞥する。彼女は月島が手配した黒のズボン、そして上は男が着るようなシャツを着ている。最初は給仕が着るような着物を用意するつもりだったのだが、みょうじが頑なに固辞したせいでこうなったのだ。髪は無造作なひっつめ髪。顔も化粧っ気は全くない。確かに見慣れない身なりではあるが、あの珍妙な黒子装束を最初に見ている月島はこれでもマシな方だと思っていた。
それにしても彼女も何か言えば良いのに、と月島はそう思わずにはいられなかった。中尉殿を唆したなど、そんな根も葉もない噂を何故否定しないのか。とは言え、夜な夜な鶴見の部屋で2人きりで会っているせいでその噂が真実味を帯びているのも事実だ。それがただ甘味をつついているだけだと月島は知っているが、それにしてももう少し周りの目を気にして欲しいものである。
「そげん身なりで鶴見中尉殿の傍におっなんて恥を知れ!金がなかとな?おいが着物を買うてやっ」
「いえ、結構です」
「は、」
「着物は動きづらいので」
ようやく口を開いたかと思えば、それは何度となく月島とやりとりした言葉と同じものだった(流石に月島は鯉登のような横暴な言い方はしていないが)。女が男のような格好をするなど恥ずかしいに違いないと思った上の配慮だったのだが、どうにもみょうじはそういうことに無頓着のようだ。
「おなごならもっと身なりに気を遣え!」
「そんなものとうに捨てました」
「……何?」
「女などとっくに捨てたと言っているんです。あと日本語喋って下さい。さっきから聞き取りづらい」
みょうじの言葉にどうやらプツンと来たらしい鯉登が早口の薩摩弁で何やら叫び始めた。彼女はそれを心底鬱陶しそうな、酷く冷めた目で見据える。月島はそんな2人をどこか遠くを見るような目で見守りながら無関心を決め込んだ。それと同時に、不機嫌さを隠そうともしないみょうじに物珍しさを覚える。彼女が感情をあらわにしているところをこれまで見たことがなかったからだ。
結局2人の応酬は収まる気配もなく(殆ど鯉登ががなりたてているだけだが)、月島が間に入る形でその場を押し鎮めた。というよりみょうじと共にその場を離れ物理的に距離をとらせたのだった。
「なんですかあの人、異国の言葉かと思いましたよ」
「上官だぞ、口を慎め。あの方は薩摩出身だから時々ああやって訛りが出るんだ」
「……薩摩。そうですか、それは故郷が心配でしょうね」
「――――は?」
呆気に取られたような月島の声にみょうじはぴくりと眉を上げ、一拍置いて「いえ、何でもありません」と言葉を濁した。この時みょうじの頭にあったのは"桜島の大噴火"であったが、大正3年の出来事であるからもちろん月島が知るはずもなく。
こいつ口を滑らせたな、と目敏く気付いた月島だったが、みょうじは「仕事に戻ります」とそそくさと立ち去ったのだった。