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一体全体何が起こっているのか。月島は混乱する脳内を一旦放置して、がむしゃらに走り続けた。
「月島ァ! 一体何なのだあれは!」
「分かりません! とにかく走って下さい!」
徐々に迫ってくる足音が、藪を激しく鳴らしている。チッとひとつ舌打ちをして、月島は背後の人影に向かって拳銃を撃った。パァンと銃声が響いた直後、銃弾が肉を貫く音がした。どうやら胸に命中したらしい。しかし迫り来る速度は落ちるどころか、さらに距離を詰めてくる。
──「超常的な力をもつ不死の存在。人を喰らい生きる、人ならざる者」
不意に、月島の頭に懐かしい声が蘇った。まさかこれが彼女の言っていた──「ぐッ、」──あり得ないはずの仮説が導き出されたその時、ついに追駆の手が月島を捉えた。ぐんっと身体を引っ張られ、勢いよく地面に押し倒される。
「月島ァ!」
「止まるなッ! 走れッ!」
そう声を張り上げてすぐ、腐敗臭がツンと鼻を刺激する。それを吸い込んだ途端、強烈な目眩に襲われた。遠のきかけた意識を無理やり手繰り寄せ、襲ってきた両腕を寸でのところで鷲掴む。
腕っぷしには自信がある。しかし、必死の抵抗も徐々に押されていく。その力は、かつて対峙した牛山をも凌駕するほどの怪力だった。そこへさらに件の腐敗臭が襲いかかり、今にも月島の意識を奪い去ろうとする。
どうにかそれに抗うも、限界はすぐそこまで来ていた。視界がみるみるうちに黒いもやで塗りつぶされていく。
その時、肉と骨とを断つ音が聞こえたと同時に、ふっと相手の力が緩んだ。一寸遅れ、月島の胸にどんっと頭が落ちてきて、血飛沫が顔に降りかかる。
(助かった……?)
まさか、鯉登少尉殿が逃げずに戦ったのか。全く無茶をする──れゆく意識の中、月島はすぐ近くの気配を探った。そこへ鯉登の戸惑った声が落ちてくる。
「みょうじ、か……?」
まさか、そんはずは。だって彼女は──そこで月島はついに意識を手放した。
「……どこかでお会いしたことが?」
真っ暗闇に放り込まれるその寸前、懐かしい声を聞いた気がした。
◇
目を覚ました月島は、ゆっくり開いた瞼の先に見えた天井を呆然と眺めた。よくある木質のそれをしばし観察したのち、目だけで部屋の中を眺め回す。見覚えのない場所──いやそれよりも、視界が霞んで酷く見えづらい。たまらず目を擦れば、「起きたか」と聞き慣れた声が落ちてきた。
「鯉登少尉殿……ここは?」
「民間の病院、らしい。あの化け物から助けられたあと、ここに運び込まれた」
見れば彼の頬には小さなガーゼがあって、右手にも包帯が巻かれていた。じっとそれを眺めながら、月島は少し前の記憶を手繰り寄せた。
「……あれは、みょうじだったんですか」
不自然な間があったあと「分からん」と鯉登は言った。低く、口篭るような声だった。二人の間に重い沈黙が流れかけて、しかしそれを遮るように女の声が割入った。
「あら、もう目が覚めたんですね」
二人の前に現れたのは、若く小柄な女性だった。詰襟の学生服(のようなもの)に、蝶の羽模様の羽織という奇妙な出で立ちをしたその人は、月島を見てにっこり笑った。はっとするほどの美人で、しかし感情の読めない双眸が妙に警戒心を煽る。
「調子はどうですか?」
「怪我は大したことない……が、目が見えづらい」
「毒を吸い込んだようですね。──ちょっと失礼します」
そう言って女は月島の目を調べ始めた。瞼を開かれ、眼球を動かすよう指示されて、光を当てられる。しかし、思っていたほど眩しさは感じなかった。
「鯉登さんが吸ったものと同じ毒のようですね。薬を出しますので、しばらく様子を見てください。2、3日で治るはずです」
「……あぁ」
そう返事をしながら鯉登を一瞥すれば、「お前ほど重症ではない」と先回りされた。僅かとはいえ距離があった分、あの腐敗臭を吸い込んだのも微量で済んだのだろう。
「治るまではここにいてもらえますか? 特殊な毒ですから、他の病院で診るのは難しいでしょう」
「……分かった」
「あの化け物はなんだ? 見たところ処理に慣れていたようだが……お前たちはあの正体を知っているのか」
話に一区切りついたところで、鯉登が別の話題を口にした。月島はその答えに心当たりがありつつも、じっと女の答えを待った。そして予想通りの言葉が落とされる。
「私たちは"鬼"と呼んでいます」
「……鬼?」
怪訝な顔をして鯉登が言った。こんな時になんの冗談を、とでも言いたそうな声だった。
「──『超常的な力をもつ不死の存在。人を喰らい生きる、人ならざる者』」
ぼそぼそと言葉を紡いだ月島に、鯉登が驚きの目を向ける。
「ご存じでしたか」
「実際に見たのは初めてだが……話には聞いたことがある。まさか本当にいるとは思わなかった」
「無理もありません。人里に降りてくることは稀ですから」
月島の言葉で少しは信憑性が増したのか、鯉登は複雑そうな顔をしながらもその話題について口を挟むことはなかった。鬼と呼ぶに相応しい化け物を、実際にその目で見てしまったせいもあるのだろう──否、彼にはもっと重要なことがあったのだ。意を決したように鯉登が口を開く。
「私たちを助けた女がいたはずだ。会わせてほしい」
「……まさか帯刀を罰するおつもりですか?」
「それを咎めるような状況でなかったことくらい理解している。彼女とは知り合いだ。……ずっと探していた」
「その本人が否定したんでしょう? 『貴方たちのことは知らない』と」
ぐっと鯉登が口ごもる。それから気まずい沈黙が流れて、「それでは私はこれで」と女が踵を返した。それを引き留めるように、月島がその背中に声をかける。
「今日の日付は?」
「2月6日です。倒れてから一晩しか経っていませんよ」
女は背中越しに振り返って言った。そこへ月島がさらに質問を重ねる。
「何年だ」
「? ……大正二年ですが」
鯉登が「たい、しょう?」と戸惑うのをよそに、月島は額に手を当てて、やっぱりかと心のなかで呟いた。そうして気持ちを切り替えるように深く息を吐く。
「俺たちが知っているのは、大正四年のみょうじなまえだ」