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女は名を胡蝶しのぶと言った。鬼殺隊の最高位"柱"として任務を遂行する傍ら、負傷した隊士たちの治療も受け持っているのだという。聞くところによると、鯉登と月島の入院先となったこの診療所も彼女の私邸を開放したものだそうだ。
──「俺たちが知っているのは、大正四年のみょうじなまえだ」
初めは怪訝そうに首を傾げていた胡蝶だったが、月島の話を聞いている内にみるみる神妙な顔つきに変わっていった。「ひとまずその話を信じましょう」という言葉から察するに、あくまで半信半疑なのだろうが。
そして彼女と同様に、鯉登も強ばった表情で月島の話を聞いていた。彼からすれば寝耳に水のことだから無理もない。彼女が本当は後代から来た人間だなどと──ましてや鬼のいる世界から来たなど知りもしないのだから。言いたいことはきっと山ほどあるはずだ。
しかし、沈黙は金──状況を察し一貫して口を閉ざす彼に、月島は心の中で感謝した。ここで彼の混乱にまで応えていたら、話はさらにややこしくなるに違いない。なにせ胡蝶に事情を説明する月島でさえ、今まさに混乱の渦中にあるのだから。
「彼女との面会時間を設けます。今は任務に向かっていますから早くて深夜──遅くとも明朝になるかと」
「そんなに急ぐ必要は……都合がつくときで構わない」
「いえ、私の予想では鯉登さんは明日にでも元の時代に戻るでしょうから」
曰く、二人が時代を越えて来たのは鬼がもつ異能の力──血鬼術が原因だろう、と。それも二人が対峙したあの鬼の能力である可能性が高いとのことだった。当該の鬼は討伐したため、いずれその術の効果も消えるはず。と、それが胡蝶の見立てである。
「目の霞み──それがあなた方の身体に血鬼術が残っている証拠です。症状が治った時、元の時代に帰れるでしょう。……あくまで推測ですが」
「推測でも勘でも、全く目処が立たないよりはましだ」
申し訳なさそうに目を伏せた胡蝶に、鯉登がきっぱりした声で言った。
「予想が外れたらその時はその時──しかしすぐに帰る可能性が少しでもあるのなら、その前にもう一度あいつと会っておきたい。無理を言って悪いが……」
「構いませんよ。彼女には任務を終えたらここへ寄るよう使いを出しておきましょう。到着次第声を掛けますから、お二人はそれまで休んでいてください」
胡蝶は「くれぐれも怪我人ということをお忘れなく」と優しく微笑んだ。その笑みから漂うは有無を言わせぬ圧。敏感にそれを感じ取った二人は、ほとんど無意識のうちに姿勢を正していた。
それから胡蝶は部屋に備えられた壁掛け時計を一瞥し、仕事に戻る由を伝えて部屋を後にした。詳しい話はまた明日にしましょう、と付け加えて。
そうして扉の閉まる音が部屋に響くと、鯉登と月島はふっと肩の力が抜けるのを自覚した。
何やらどっと疲れが来た──それもそのはず、あの鬼≠ニの対峙からずっと混乱の連続だったのだから。森の中を逃げ走った疲労も当然あるが、この疲れは肉体的なものよりむしろ精神的なものが大きい。摩訶不思議な出来事に興奮しきっていた脳が、その反動で極度の疲労を訴えてくる。かといってあっさり休めるわけでもない。興奮の余波は未だしつこく続いていて、疲れているはずの頭が考えることを辞めないのだ。
「みょうじの話はお前の他に誰が知っているんだ」
胡蝶が部屋を出てからしばらく無言を貫いていた二人だったが、静寂を破るように鯉登がぽつりと言葉を落とした。
「鶴見中尉殿だけです。樺太での様子を見る限り、杉元たちも知らないようでしたから」
「スチェンカで乱闘騒ぎあった日の夜、あいつが過去のことを話していたな。『剣の師』、『背中の傷』──兄弟子に見限られて後方部隊に回ったとも言っていた。それらは全てここでの話か」
鯉登の記憶力は流石のものだった。そして頭の回転も速い。月島はそれにいたく感心しながら、小さく頷いた。
「俺たちを助けたということは、今ここにいるのはそうなる前のみょうじなんでしょう」
「私が見たのは確かに剣士の姿だった。後から黒子が数人現れて、私とお前をここに運び込んだんだ。きっとあの者たちが後方部隊なのだろう」
黒子という言葉に、月島は初めて彼女を見た時のことを思い返した。あの時の彼女の装いも、まさに黒子のようだったのだ。顔も黒の布で覆われ、唯一露出しているのは目元だけ。そして記憶が正しければ、背中には「隠」と書かれていたはずだ。
「……会ってどうするつもりですか」
月島は重々しい口調で尋ねた。
「どう、とは?」
「会ったところでみょうじは何も覚えて……いえ、何も知らないんですよ」
「別にどうこうするつもりはない。助けてもらった礼をして──」
僅かな間があって「それだけで十分だ」と鯉登は言った。何かしらの言葉を飲み込んだことは明らかだった。
「礼をして──」それから? 彼はその言葉の後に何と続けようとしたのか。
月島はこの時代のみょうじと対面する時のことを想像した。さっきは顔を見ることもできなかったが、きっと初めて会った時のように長い髪をひとつに纏めているのだろう。そして多分、いつものあの無表情をしている。
それを見て俺は、きっと、自分の知っているみょうじなまえと重ねるのだろう。今や行方も分からない彼女の残滓をそこに感じて、勝手に悦に浸るのだろう。きっとこちら側のみょうじも、こんな風にどこかで無事に生きている。と、そんなことを考えながら。
なんと虚しい茶番だろうか。しかし、その茶番に満足してしまうであろう自分が容易く想像できてしまう。そこでふと、昨夜、意識を失う直前に聞いた彼女の声がよみがえる。
──「……どこかでお会いしたことが?」
果たして本当に、悦に浸るだけで済むのだろうか。そんな疑問が頭をもたげたとき、鯉登の声が月島の思考を攫っていった。
「とにかく、今は寝るぞ。あいつに会うこともそうだが、我々は一刻も早く元の時代に戻る必要がある。部下達も今頃大騒ぎだろう──血鬼術とやらを解くためにも体力を回復しなければ」
鯉登は布団に潜り込むと、荒っぽく寝返りを打った。その背中を見つめて「そうですね」と月島が言う。
結局、みょうじが戻ったという報せが入るまで二人は一睡もできなかった。