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昨日の昼間はあんなに暑かったというのに、今日は少し肌寒さを感じる朝だった。夜に降った雨で気温がぐっと下がったらしい、と月島は着物の上に薄手の羽織を重ねた。

蝶屋敷に来て今日で9日目。ここでの生活にも慣れてきて、請け負う仕事も粗方定まってきた。朝から洗濯、それから掃除、合間に運搬作業と訓練用の刀の手入れ。途中で別の仕事を振られることもあるが、どれも簡単な仕事ばかり。ただ、作業量が異常ではあるけれど。

洗濯が終わり、かごを片付けに行く頃には気温もそこそこ上がっていた。袖まくりをした腕にはじんわり汗が滲んでいる。これを片付けたら一度羽織を脱ぎに戻ろう、そう考えていると背後から「よう、問題児」と声を掛けられた。

「……みょうじか」
「それ、ひとつ持とうか?」

積み重なった三つの洗濯かごを指差してみょうじが言う。月島は彼女の手を一瞥し、そこに巻かれた包帯を確認すると「いや、いい」とその申し出を断った。

「仕事はどうした」
「仕事で来たんだよ。胡蝶様に使いを頼まれてな。……それよりアンタ、薬飲んでないんだって? 本当ならもう帰ってる頃だろ」
「……こっちの飯が美味くてな」
「はは、なんだそれ」

かごを運ぶ月島の隣を、みょうじが並んで着いてくる。使いとやらはいいのだろうか、と思いつつ、それを指摘することはしなかった。本来であれば隊士がここに来るのは負傷した時か見舞いの時くらいだから、きっと胡蝶がそれらしい口実を作ってくれたのだろう。元の時代に帰るべきか否か、その迷いの根本にみょうじがいることを気遣って。

「兵隊様なら良いもの食ってるだろ。軍の仕事に嫌気が差したか」
「……向こうでの役目は一度終えている。このままここで生きていくのも悪くないと思ってな」
「ここ? 胡蝶様のもとでか?」
「いや、居ても良いとは言ってもらったが……残るにしても北海道には戻るつもりでいる」

ふぅん、とみょうじは少し意外そうな顔をした。

「何度か任務で行ったことがあるが、あっちの冬は大変だろ。東京の方が暮らしやすいんじゃないか」
「慣れればそうでもない。魚介は美味いし」
「お前は飯のことばかりだな」

そう言ってみょうじがクツクツ笑う。釣られるように月島もふっと笑って、すぐに固く唇を結んだ。

言おうか、言わまいか、ぼうっと前を見据えながら考える。しかし、せっかくの機会を無駄にするわけにはいかない。結論を出すと決めた日まであと一日しかないのだから。

「……お前も来るか」

随分と小さな声だった。だというのに、みょうじの耳にはしっかり届いたらしい。「は、」と素っ頓狂な声が返ってきた。何を言ってるんだ、と言わんばかりの。実にごもっともな反応である。

「なんでそこで私が出てくる」
「……お前には借りがある。こんな危険な仕事をしていると知っては見過ごせない」
「借り? まさか助けてもらったから、ってことじゃないよな。二年後の話をしてるのか? それなら私は無関係だ」
「無関係ってことはないだろう」
「……あのなぁ、私からしたらまだ出会って十日やそこらだぞ。急にそんな話をされても困る」

みょうじの言い分は月島にも十分理解出来た。断られたのなら素直に身を引いて、元の時代に戻ればいいだけの話である。
しかし、もっと事の深刻さを理解してもらわねばなるまい。その上で断られるのならまだしも、いまは単に過保護から来た言動とでも思われているに違いない。

黙考する月島を見て、みょうじが「あぁ、もしかして」とどこか納得したような顔をした。

「これから私の身に何か起こるのか」
「…………ないと言ったら嘘になる」
「言っとくが、全て覚悟の上だ。半端な心構えで剣士をやってるわけじゃない」
「そうは言ってもな、」
「私がなぜ鬼殺隊にいるかは話しただろ。この仕事を離れる気は──」
「そうやって無茶ばかりするからだ」

ぴしゃりと撥ね付けるような、突然語気の強まった月島の言葉に、みょうじがはたと歩みを止める。すかさず反論しようとして──苦しげに歪められた彼の表情に、喉まで出かかった言葉がふっと消える。

「……すまん」

月島ははっとしたように謝罪を口にした。その反応を見るに、どうやら思わず口をついて出た言葉だったらしい。月島はかごを片手に持ち替えると、空いた手で自身の目元を覆って深いため息をついた。

「……二年後を知っていると言ったが、向こうではもう、お前の所在は分からなくなっている」

顔を拭うように手を滑らせて、ぬっと双眸が現れる。深く眉間に皺を寄せ、忌々しそうに地面を睨み付けている。

「最後に会ったのは、戦乱の最中だった。お前は肺に穴が空いていて──それでも自ら前線に飛び込んでいった。……俺が、そういう場所に引きずり込んだんだ」

どろどろと、朽ちたなにかが口からこぼれ落ちていくようだった。──「では、月島さんは傍にいて支えてあげたいんですね」──違う、これはそんな優しい類のものじゃない。後ろめたさに突き動かされただけの、言わば罪滅ぼしのようなもの。

「同じ道を進んで欲しくない」

いずれは鬼殺隊士としての志≠キら打ち砕かれてしまうことも、と心の中で付け加える。いつか来るその現実も、知らないままでいればいい。

強く訴えかける月島の眼差しを、みょうじは真っ直ぐ受け止めた。そうして二人の間にしばしの沈黙が流れ──やがてみょうじがついと視線を逸らす。

「……お前は誰と話してるんだ」

がしがしと頭を掻きながらみょうじは言った。

「言ったろ、私は二年後のみょうじなまえじゃない」
「言い分は分かるが、同じ人間だろう」
「いいや違うね。そいつのことばかり考えて私の意思は聞く気もないんだから」

う、と月島が口篭る。彼女の意思を無視するつもりはない、しかし少々強引に行かねば突っぱねられることは目に見えている。その身を案じているだけだというのに、一体どうすれば分かってもらえるのか。

「仮に私がアンタの知るみょうじなまえだったとして……そいつはそんな話に頷くような奴なのか?」
「それは、」

やられた、と月島は思った。不意に一番痛いところを突かれた気がした。

そうだ、こいつはこういう奴なのだ。誰になんと言われようと、自分の意思を曲げることは絶対にない。怪我をしようが、拉致されようが、それこそ肺に穴が空いていようが、周りが「やめろ」と思うようなことを平気でやってのける。

そういえば、果たしてこいつが俺の言うことを聞いたことが今まで一度でもあっただろうか。ざっと過去を振り返ってみるも、それらしい記憶は見当たらない。

分が悪くなってついには黙りこくってしまった月島に、みょうじはニヤリと笑ってみせるのだった。

「どうやらそんな腑抜けにはなってないようで安心したよ」
「……無鉄砲は褒められたことではないぞ」
「肝に銘じておく」

はっはっ、と愉快そうに笑うみょうじの横で、月島は眉間に指を押し当てて深いため息をついた。
それからかごを両手に持ち直し、さっさと歩き始める。そして当然のように、みょうじもその後ろを着いてきた。

「何を心配してくれてるか知らないが、所在が分からないってだけで死んだわけじゃないんだろ? 鬼殺隊じゃ死ぬ奴が大半だから、生きてりゃ御の字だ」
「……手紙は来た。差出人も書かずにな。人を悩ませる能力だけは天下一品だ」
「あー、面倒臭がりは直ってないか。どうせ分かるだろってことを書くのがどうにも億劫でな。手紙が簡潔すぎるってよく怒られる」
「ご明答。一年振りの連絡が要点だけの箇条書きだった」

みょうじは腹を抱えて笑った。人の気も知らずに、と月島がじとりと睨むが気にもしていない、否、その反応すらも面白がっているようだった。
鯉登があの手紙を後生大事に残しているなんて、こいつにはその気持ちが一片も分からないのだろう。手紙の内容には随分助けられたから、あまり文句は言えないが。

「いやでも、安心したよ」
「二年後も変わらず無鉄砲なことにか」
「違う違う、そう怒るな。……それだけ心配してくれる奴がいることにだ」
「…………」
「拠り所があるなら、大抵の事は大丈夫だろ。帰るところがあるってのは幸せなことだ」

しみじみと、どこか遠くを見るような目をしてみょうじは言った。うっすら笑みを浮かべたその顔は、安堵した人のそれである。

その「帰るところ」に自分たちは選ばれなかったのだが、と月島は内心ぼやいたが、わざわざ口にすることはしなかった。実際には帰らずとも、いつでも帰れると分かっているならそれで良い。あいつがそれを心の拠り所とするかは知らないが。

「帰ってきたらくそほど仕事を振ってやる」
「仕事まで用意してくれるのか。至れり尽くせりだな」

あっけらかんとそう言ってのけるみょうじを、月島がむっとした顔で一瞥する。それから諦めたように軽く息をつくと、手元の洗濯かごに視線を落とした。

「俺が引きずりこんだんだ。最期まで面倒を見る覚悟は当然していた」

ずっと言えなかった言葉を、目の前の彼女を通して記憶の中のみょうじに伝える。どうせこいつだって、俺が元の時代に戻れば全て忘れてしまうのだろう。しかしそうでもなければ、きっと言えないままだった。ずっと隣にいるものだと思っていた、なんて。

「面倒って。犬や猫じゃあるまいし」
「俺にとっちゃどっちも一緒だ」
「はっ、言うねぇ」

にやにやしながらみょうじが月島の顔を覗き見る。

「しかし幸せ者だなぁ、未来の私は」

本当にそうだったら良いのだが、と月島は胸の内で返事をした。



この日の夜、月島は投薬を再開し、その数日後には無事に元の時代に戻ったという。そうしてやはり、忽然と消えた彼のことを誰も覚えていなかった。

ただひとつ、いつの間にかみょうじの胸に居座った妙な安堵感だけが、月島がこの時代にいた証となったのである。