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月曜日の昼休み、なまえがいつも通り休憩室で弁当を広げていると、後輩がいそいそとやってきて「ここいいですか?」と向かいの席を指さした。特に断る理由もなく「どうぞどうぞ」と座るよう促せば、彼女は席に着くや否やぐっと身を乗り出して、内緒話をするような声量でこんなことを言った。

「なまえさん、もしかして彼氏できました?」

ぴしり。なまえは思わぬ質問に硬直した。

否、「思わぬ」というと少し語弊がある。心当たりは大いにあったし、いつかはこんな日が来るであろうことは予想していたからだ。ただ、こうして話題に上がるのが予想よりかなり早かっただけで。

「えッ、……なんで?」
「一昨日、会社に忘れ物取りに来た時にたまたま見かけちゃって。近くに来てましたよね?」
「あぁ、なるほど……。彼氏、いやうん、そうだね……そんな感じ、かな……?」

なまえが歯切れ悪くそう答えると、後輩は「やっぱり!」と色めき立った。

本当は彼氏なんかではないし、月島となまえの間にそんな雰囲気は微塵もない。それにも関わらずなまえが後輩の言葉を肯定したのは、単に説明が面倒だったからだ。

今回は一緒にいるところを見られただけのようだが、いずれは二人で家に入るところを見られるかもしれない──それならいっそ、そういう関係≠ニ思われた方が話は早いし、周りも納得するだろう。

まさか本当のことを言えるはずもないし、となまえは心の中で月島に謝罪した。

「相手の人、年上ですよね? いいなぁ、何で教えてくれなかったんですか」
「ちょっと言うタイミングなくて。はっきり付き合ってるとも言えないし……」
「えーっ、大人な恋愛ってやつですか?」
「うーん、どうだろ? ハハハ……」

嘘をつく後ろめたさと、変な見栄を張っているような気恥しさで、なまえはただただ愛想笑いを貼り付けるしかなかった。彼氏なんていないです、今も絶賛募集中です。大人の恋愛だなんて、私だってドラマの中でしか知らないです。なんてことを考えながら。

「もしかしてお弁当持ってくるようになったのって、その人の影響だったり……?」
「エッ、あ、うん。料理上手でさ、作ってくれるっていうからお願いしてるの」
「料理男子!? 良いですね! なまえさん料理苦手って言ってましたよね。あれ、味噌汁を炭にしたのってなまえさんでしたっけ?」
「あ、そうそう……鍋ごと捨てたやつね」

「ほらこれ」と当時ネタ用に撮っておいた写真を見せれば、よっぽどおかしかったのが彼女は腹を抱えて笑った。よし、これで話題は逸れたはず──と思ったのも束の間、ひとしきり笑われたのちにさっと元の話に戻された。

「でも彼氏さんが料理できるなら問題ないですね! 料理教えてもらったりするんですか?」
「いや、向こうの担当というか……」
「……もしかして同棲中ですか!?」
「ア、えっと、ハイ……」
「いつの間にそんなに進んで……ちなみに、なんて呼ばれてるんです?」
「……エッ?」

彼女の質問に、なまえは思わず素っ頓狂な声を上げた。そうして、そういえば何て呼ばれていたっけ──と、これまでの月島とのやりとりを思い返した。

「……呼ばれて、ない……?」
「エッ?」

今度は後輩が素っ頓狂な声を上げる番だった。

「待って……もしかして、私の名前知らない……?」
「えぇッ!?」

狼狽える後輩。しかしそれ以上に動揺しているのはきっとなまえの方だろう。

(そういえば私、自己紹介してない……?)

今更すぎる疑問ではある。半月近く一緒に住んでおきながら、まさか名前すら知られていない可能性があるだなんて。

いや、流石にそんなはずは──そう思って、なまえは月島と出会った頃のことを思い出そうと頭をぐるぐる動かした。しかし、あの時のことはほとんど思い出せなかった。それもそうだ、あの日なまえはベロベロに酔っていたのだから。

「なまえさん……それ本当に彼氏ですか……?」
「いやほら、彼氏っていうか、彼氏みたいなって感じだから……」
「なるほど……?」

そう言って納得しかけた後輩が、はっと我に返って「いやいやいや」と身を乗り出した。

「なまえさん騙されてません!? 結婚詐欺とか!」
「結婚詐欺……? ブフッ、」
「いや笑うとこじゃないですから!」
「ごめんあの人が結婚詐欺してるって思ったらちょっと面白くて……ンフフッ……」
「なまえさん真面目に考えて!」

ツボに入ってしまったなまえを見て、後輩が叱咤するようにバンバンと机を叩いた。それに「ごめんごめん」と言いながら、それでもなまえの笑いは収まらない。

「ハァ……それで、その人は何の仕事してるんですか?」
「あー、仕事は……してないかな」
「はぁ!? あの人40代ですよね!?」
「やっぱりそう見えるよねー? あれで33だって」
「絶対騙されッ──、……いやまぁ、とりあえず歳はいいです。33でも無職はヤバイですって」
「あっでももうすぐ仕事始めるから」
「……なんのですか?」
「えっと、…………Youtuber」

途端、なまえと後輩の間にしんとした空気が流れた。なんと気まずい沈黙だろう。これから怒られる、または盛大に呆れられることが分かりきったこの瞬間──そう、まるで出勤10分前になって、前日の水筒を月島に差し出した時のような。

しばらくして、後輩はそれはそれは大きなため息をついた。

「なまえさん……いくら結婚願望あるからって、その人はやめときましょう?」

彼女はまるで子を諭す母親のような口振りでそう言ったのだった。

   ◇

その日の夜、なまえは心底疲れた顔で月島の待つ我が家に帰った。

「お疲れさん。もう飯できてるぞ」

月島はなにやら書き物をしていたようで、持っていたペンを机に置くと、さっと紙を裏返して立ち上がった。見られたくないものだろうか──と、なまえは裏返された紙を一瞥した。それからすぐに月島へと視線を戻し、「……結婚詐欺」とぼそりと呟いた。

「何か言ったか?」
「……ンフ、いえ何も」

月島が怪訝な──というより気味が悪いとでも言うような──顔をなまえに向ける。なまえはコホンとわざとらしい咳をすると「何でもないですって」ともう一度同じ言葉を吐いた。

月島は探るような視線を向けるも特段何を言うでもなく、なまえの横を通り過ぎると、そのままキッチンへと向かいコンロの火をつけた。

「今日は遅かったな。仕事が忙しいのか」
「いえ、仕事は早く終わったんですけど……後輩につかまっちゃって」
「お前にも後輩がいたんだな」
「どういう意味ですかそれ」
「そのままの意味だ」

なまえは「これでも仕事は出来る方ですー」とむぅと顔を顰めた。が、鍋に視線を落としたまま「ヘェ」と生返事が返ってきたあたり、あまり信じられてはいないらしい。

「……それで、後輩につかまった話なんですけど──」

非難がこもったなまえの声色に、月島がようやく鍋から視線を外しなまえを見た。

「月島さん、私の名前知ってます?」

そう、なまえの帰りが遅かったのは、件の後輩が終業後にもあの話題を掘り返してきたせいだった。よほどなまえのことが心配だったらしい。

後輩が心配するようなこと(結婚詐欺)はないと断言できるものの、この名前≠ノ関しては不安しかなかった。なにせこれまで一度も名前を呼ばれたことがないのだから。

しかしそんな不安を抱え、真面目くさった顔で尋ねるなまえを見て、月島は呆気にとられた顔をした。「何を言ってるんだコイツは」とまるで珍獣でも見るような顔である。

「……は?」
「だから私の名前、」

そこまで言いかけたところで、月島が「それ」となまえの方を指さした。

「え?」
「それじゃないのか」

「お前の名前」と言う月島の指先を辿っていくと、なまえの胸元──首からぶら下がる社員証にたどり着いた。二人の間に数秒無言が続いて、

「ハァ〜〜、もうヤダァ〜〜〜!」

突然そう声を上げたかと思うと、ヘナヘナとその場にしゃがみ込むなまえ。月島はぎょっとして「どうした?」とおそるおそる声をかけた。

「疲れました……自分のぽんこつ具合に……」
「何を今さら」
「なんで傷口に塩塗るんですか……」

そう打ちひしがれるなまえを見下ろして、月島は呆れたため息をついた。

「飯、食わないのか?」
「食べます……」
「先に風呂に入ってこい。スーツがしわになるぞ」
「……ハイ」

なまえはのそりと立ち上がると、クローゼットから部屋着を取り出しヨロヨロと浴室に向かった。

それから数分と経たず、「椅子は衣紋掛けじゃないと何度言ったら覚えるんだッ!」という叱責が飛んできたのはまた別の話である。