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「えっ、な……ち、血ィ!?」

なまえはたまらず声を上げ、月島に釘付けになった。彼のTシャツには点々と赤の染みが広がっていて、しかも左肩にはべっとり血が付いている。血飛沫、と言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、「何かがあった」と思わせるには十分な有様である。

「あぁ、ちょっとな」
「『ちょっと』でそうはなりませんよ! その血の量……!」
「ほとんど鼻血だ」
「何でそんな『心配ない』みたいなトーンなんですか!? 鼻血でも問題大アリですよ! まさか喧嘩ですか!?」

信じられない、という顔で月島に駆け寄るなまえ。彼女の視線はよれよれになったTシャツの襟、腕にできたひっかき傷、そして左肩の血痕に向けられた。

「喧嘩の仲裁だ」
「いやいやいや……だとしてもですよ! 身分証もないのに!」
「……身分証?」

月島は一瞬呆気に取られた。身分証、とは? いや、身分証は分かる。しかしこの状況ならもっとこう、他に何かあるだろう、と。怪我のこと、騒ぎに関わったこと、買ったばかりの服を駄目にしたこと──説教は覚悟していたが、なまえの反応は予想外だった。

「その格好で帰ってくるなんて……職質とかされませんでした? いやそれより……喧嘩の場に警察は来なかったんですか?」
「警察には……関わってないが」

なまえは額に手を当て、ハァと安堵の息をついた。いや、安堵よりも呆れの方が強いかもしれない。

「身分証がないなんて、『署までご同行願います』案件ですよ」

月島は不意を突かれたようにぴたりと硬直し、二人の間に数秒間の沈黙が流れた。それから彼は気まずそうに顔を伏せたのだった。

「……悪い、そこまで考えてなかった」

しかし、月島の言動も仕方のないものである。なにせ彼の時代では、警察から職質を受けて身分証を提示する、ということがまずないからだ。そもそも身分証の携帯すら一般的ではない。

さらに言えば、月島は取り締まる側の人間だったこともある。自分が不審者扱いされることなど、入隊してからの十数年はまずありえなかったのだから。

「警察もそうですけど、怪我なんかしたら10割負担だし、いや怪我がなくても取り調べで精神科に送られるかもだし……」
「……すまん、俺が悪──」
「精神科っていくらするんだろ……!? しかも病気じゃないから絶対長引くし!」
「ちょっと落ち着、」
「いいですか月島さん! 戸籍取るまでは警察も病院も絶っ……ッ、」

なまえの声が次第に勢いを増していくなか、月島は冷静な顔で彼女に近づくと、その両頬をむんずと片手で鷲掴んだ。

「…………ふァ、?」
「…………」

なまえは目を見開いて固まった。両頬を掴まれているせいで、唇がにゅっと押し出されている。そうして呆けたアヒルのような顔で、きょとんと月島を見つめた。

「……呑んだな?」
「エ゙ッ、」
「酒の匂いがする」
「……いや……あの、」

途端しどろもどろになって視線を泳がせるなまえに、月島は呆れた表情を見せるとパッと手を離した。

「今回は俺も何か言える立場じゃない。が、ほどほどにしておけ」
「…………ハイ」

まさかバレるなんて、となまえは嫌な音を立てる心臓を落ち着かせるように、胸に手を押し当てた。

ビールを一缶だけ、しかも1番小さいサイズだったのに。証拠隠滅のために、わざわざ近くの自販機まで走って缶を捨ててきたというのに。

なまえはしくじった、とばかりに顔を覆った。その「自販機まで走った」せいでアルコールが回ったことには全く気付いていないらしい。匂いよりむしろ、いつもより饒舌な態度がバレた原因だというのに。

「それと少し話したいことがある。……の前に、先に風呂だけ入らせてくれ」
「あ、ハイ、分かりました」

話したいことってなんだろう。改まった口振りに、(加えて飲酒がバレた気まずさに)なまえは遠慮がちに月島を見た。

しかし彼にとっては風呂の方が大事らしい。あっさり彼女の横を通り過ぎると、そのまま着替えを取りに向かったのだった。



月島がシャワーを済ませたのち──予洗いしたらしい件のTシャツを手にした彼と、それを目ざとく見つけたなまえの「え、それまだ着る気ですか」「血は取れた」「いやヨレヨレだったじゃないですか」という一悶着を経て──二人はローテーブルを挟み、真面目くさった顔で向かい合っていた。

今この場で動揺とある種の緊張に苛まれているのはきっとなまえの方だろう。その原因はローテーブルの上、月島が差し出した1枚の名刺にあった。

「……それで、仕事を紹介されたと」
「あぁ。少々訳ありだからと断ろうとしたが、そんな奴は大勢いると言われてな」

でしょうね、となまえは思った。なにせ目の前の名刺が見るからにヤのつく人のものだからだ。当然目にするのは初めてだが、それでも一目見てピンと来てしまった。

力強い行書体、家紋のような装飾、八代目の文字に続く組の名前──どこからどう見ても、そっちの道を極めた人の名刺である。

どうしてこんなことに、となまえは頭を抱えた。もちろん説明は受けたので経緯は分かっている。が、何でだよ、以外の感想はさっぱり出てこなかった。

事の顛末はこうだ。
ランニングを終えて帰路についた月島は、数人の男たちが言い争っている現場をたまたま目撃したという。かと思うと、一人の男が拳を振り上げ、あれよあれよと乱闘騒ぎに発展。

思わずそこに割り入ったのは、平和を重んじる軍人としての性なのか──否、単に職業病のようなものかもしれない。なんでも彼は軍曹という立場上、部下たちのいざこざを諌めることがままあったらしい。

とまぁ、そういうわけで、月島はあっという間にその場を収めてしまった(物理)。その一部始終を見ていた重鎮が月島を気に入り、「用心棒に興味はないか」と名刺を手渡したというわけだ。

「いや……いやいやいや、なしですよなし。普通に考えて。どこの任侠ドラマですか」
「『普通』ならそうだろうが、いま俺が稼ごうと思ったらこういう道しかないのも事実だろう」
「待って、何でちょっと乗り気なんですか。絶対だめです。もしそうなったら月島さんとは暮らせませんよ!」
「まぁそうだろうな。だがこれで金が返せる」

なまえは開いた口が塞がらなかった。

月島がなまえのお金を使うことに抵抗を感じていることは分かっていた。しかしそうは言っても、こういう仕事を選ぶほどのことなのか。なまえの感覚ではありえないことだった。

だって何度も彼に説明した通り、そのお金は宝くじで当てたものであり、なまえの懐は痛くも痒くもないのだから。

「お金は……気にするのは分かりますけど!」
「生きていくには必要だろう」
「そうですけど。だからって──」

二人のこの温度差には理由があった。というのも、月島がいた時代と現代とでは、その「ヤのつく職業」の立ち位置がかなり異なるのだ。つまり、二人の価値観は見事に食い違っていた。

その実、退役軍人がその道に進むこともそう珍しい話ではない。元々素行の悪かった月島にとっては、より身近な話だと言えるだろう。

「とにかく、ダメです。この話はおしまい! 私が面倒を見るって言ったじゃないですか。その名刺は捨ててください」
「……お前が反対なのは分かった」

だが、と月島は続ける。

「現実問題、これからどうするんだ。お前のことだから家計もどんぶり勘定で、今の生活にいくら掛かってるかも分かってないだろう」
「……いやでも100万円が」
「それだが、思ってるほど大きな額じゃないぞ」
「エッ」

なまえは一瞬思考停止した。え、なんで? だって100万だよ? 100万って言ったら大金でしょ? ──と、そこへ月島が現実を突きつける。

「あと2.3ヶ月でなくなるぞ」
「エッ!?!?」
「そんな状況でこのまま世話になるわけにはいかない。俺には金を稼ぐ術が必要なんだ」
「待って、なんで2.3ヶ月? 嘘でしょ……そんな無駄遣いしてないのに……」
「じゃあ聞くが、俺と初めて会った日に飲み食いでいくら使った?」
「…………12万」
「俺のものを揃えるのには?」
「……ワカリマセン」

月島は懇切丁寧に教えてやった。今までに月島に使った金額、そして二人の食費。さらにはなまえが奮発して買ったコスメとワンピースも。そこに家賃と水道光熱費を足すと? あら不思議(なまえ談)、あと2ヶ月半で100万円は綺麗さっぱりなくなる計算である。

「ほんとだぁ」

呆けた顔でそう零したなまえに、今度は月島が頭を抱える番だった。この金銭感覚で一体今までどうやって暮らしてきたのかと。

しかし今の問題はそこではない。これからどうやって生きていくかである。もちろんこのままなまえに寄りかかるつもりは毛頭ない。しかしそうなると仕事を選んでいる場合ではないのだ。

「そう考えるとここを頼るしか──」

そう言って名刺を手に取ろうとした月島を、なまえが咄嗟に制止する。

「それは、ちょっと、待ってください」
「そんな事を言ってる場合じゃ、」
「いや、あの! 他にも何か仕事があるかもしれませんし。戸籍がなくてもできるような……」
「…………例えば?」

なまえはうっと口篭った。具体的な案があるわけではなかったからだ。しかし、今ここで何か例を出さなければ、きっと彼はその名刺を頼りに動き出してしまうだろう。

なまえは脳漿を絞る思いで必死に頭を巡らせた。スーパーも無理、飲食店も無理、コンビニも無理、宿泊施設も無理──何か、何か彼がお金を稼ぐ方法は──

「YouTuber、とか……」

なまえは自分の声がやけに部屋に響いた気がした。